131・転生ものぐさ皇妃と終わりの始まり
ふわりと浮かび上がった身体はみるみる上昇し、割れた空を突き抜けた。水の膜に包まれるような感覚はすぐに失せ、ガートルードはなにもない空間に放り出される。
「危ない……!」
床に叩きつけられそうになったガートルードを抱きとめてくれたのは、レシェフモートではなかった。レシェフモートは腹部を押さえ、苦悶の表情でうずくまるカイレンに蜘蛛糸を巻きつけ、縛り上げている。
ならば、ガートルードを助けてくれたこの少年は。
輝く金の髪に、涼やかな翡翠色の双眸。
歳のころは十四、五歳ほどか。リュディガーに似た端整な顔立ちの美少年だが、華やかさよりも凛々しさの方が勝っている。それでいて思わず視線を吸い寄せられるような、少年と男の狭間の危うい脆さと色香が、白い軍服をまとった全身からにじみ出ていた。
漂う覇気は百獣の王たる獅子とも、蒼穹の支配者たる大鷲とも。成長途中の若木のごときしなやかな体躯はモルガンより頭半分ほど低いけれど、いずれはジークフリートにも負けぬ偉躯になるにちがいない。
リュディガーが華麗な貴公子なら、こちらは乙女心を鷲掴みにする完全無欠の王子様だ。白馬にまたがって颯爽と駆けつけ、姫君のピンチを救う。
そんな王子様なんて、ガートルードは知らない。
でも、心配そうに、すがるように……なにかを切望するように見つめる顔に、前世の記憶が重なった。人種も面立ちも、なにもかも違うのに。
「……完璧、くん……?」
「――、――っ……」
何年も砂漠をさすらい、ようやっとオアシスにたどり着いた旅人みたいだと思った顔はくしゃくしゃとゆがんでいった。翡翠の双眸がみるまに潤む。
(泣いちゃう……!)
焦って伸ばした手は、空中でぴたりと止まってしまった。少年がぎゅっとガートルードを抱き締めてきたから。
「……やっぱり君だったんだね。逢いたかったよ、櫻井さん」
歓喜に彩られた笑顔はいかにも王子様なのに猛禽めいた獰猛さを孕んでおり、ガートルードはなぜか思った。
――ああ、捕まってしまった、と。
帝国の皇子様は前世の同級生、完璧くんこと神部薫だった。ガートルード、いや櫻井佳那が死んだ数日後、彼もまた事故によって命を落とし、この世界に……皇帝アンドレアスと皇后コンスタンツェの一人息子、ヴォルフラム皇子に生まれ変わったのだという。
あの可愛らしかったヴォルフラム皇子こそ、白い軍服の王子様の正体だったのだ!
(……って、ヴォルフラム殿下はまだ三歳だったはずでしょ!? どうしてあんなに大きくなってるの?)
しかも佳那と薫がまともに関わったのはたったの一度だけで、彼が転校していってからはSNSで連絡を取ったことすらなかった。なのに彼は佳那のお葬式に参列し、花まで捧げてくれたという。その帰りに事故に遭い、死んでしまったのだそうだが。
(どうしてあの『完璧くん』がわたしなんかのお葬式に? それでわたしを追いかけてきたってどういうこと!?)
疑問、困惑、混乱の嵐である。
しかし完璧くん=謎成長を遂げたヴォルフラムに、それ以上問い詰めることはできなかった。帝国もガートルード自身も、大変な窮地に陥っていたからだ。
まずは、帝国である。
ガートルードがカイレンの懐にしまわれていた間に、初代皇帝は冥府へ堕ちていた。しかもブリュンヒルデ皇女と共に。あれほど嫌い抜いた妹と、呪い返しの力が消えるまで共に過ごさなければならないのだ。初代皇帝にとってこれ以上の罰はないだろう。
……実際は『共に過ごす』などという生易しい状況ではないのだが、ガートルードに真実を語る者はいなかった。
謎成長を遂げたヴォルフラムはリュディガーとジークフリートを従え、皇宮へ帰還。またたく間に『新皇帝』を自称していたブライトクロイツ公爵とその一派を捕らえた。
『お前たち、余を守れ! 守らぬか!』
ブライトクロイツ公爵は近衛騎士や対魔騎士たちに必死の形相で命じたそうだが、誰一人として従わなかった。彼らの長はリュディガーとジークフリートなのだ。二人がヴォルフラムに付き従っている以上、皇帝を僭称する公爵などに忠義を尽くすはずがなかった。
ほんの数時間前まで三歳のひ弱な皇子だったヴォルフラムが若獅子のごとき少年に成長したのだ。いくら皇族の色である金髪に翡翠の双眸の主であってもヴォルフラム本人だと信じられるはずがない。
しかし皆、この輝かしい少年がヴォルフラム皇子だと信じたのだ。
ヴォルフラムたちが皇宮に引き返す少し前、皇宮を占領する勢いだった魔獣の群れや魔沼は幻のように消え去っていた。カイレンがブリュンヒルデ皇女から解放され、ガートルードによって生まれ変わったがゆえに起きた現象だったのだが。
『皆の者、聞け! ブライトクロイツ公爵は魔獣の王を召喚して魔沼を湧かせ、魔獣の群れに皇宮を襲わせ、その機に乗じて帝位を簒奪せんと目論んだ。しかし女神の愛し子であられるガートルード皇妃殿下はすべてを見通され、このヴォルフラムに魔獣の王を討伐するための力を授けてくださったのだ!』
ヴォルフラムはそれを、こともあろうにガートルードの……神使を従える女神の愛し子が起こした奇跡だと断じたのである。自分が急成長を遂げたのもガートルードの力であり、すべての元凶たる魔獣の王は討ち果たされた。だから魔獣の群れも魔沼も消えたのだと。
この話を聞いた者は想像しただろう。神々しい銀髪の皇妃から女神の力を授かり、成長する皇子。そしてリュディガーとジークフリート、二人の騎士と共に魔獣の王を討ち、英雄となる皇子を。
……ヴォルフラムは『自分が』魔獣の王を討ったとは一言も言っていない。貴族たちが勝手に思い込んだだけだが、彼らの思考を誘導したのはヴォルフラムだ。
前世、『完璧くん』と呼ばれた知能を、ヴォルフラムは遺憾なく発揮した。帝国の混乱を最低限に抑えるために。
一連の騒動の元凶を、あくまでブライトクロイツ公爵の野望としたのもそうだ。真の元凶は偉大なる初代皇帝で、地下には討伐されたはずの沼の王がブリュンヒルデ皇女によって封印されており、歴代皇帝は呪いを長持ちさせるため皇女の生け贄にされてきた――などと、明らかにすれば皇族の権威は地に堕ちてしまう。
『私は魔獣の王など召喚していない!』
『初代皇帝陛下だ……初代皇帝陛下が、アンドレアスめは皇帝にふさわしくないと! 真に皇帝たるべきはこの私だと仰せになったのだ!』
『私は初代皇帝陛下の御心のまま行動したに過ぎぬ! すべては帝国のためだったのだ!』
ブライトクロイツ公爵は必死に弁明した。
すべてを知る数少ない者たちならばわかる。彼は真実を述べていると。
だが公爵は事件を『ブライトクロイツ公爵の謀反』でおさめるための、言わば生け贄だ。すべてを知る者の誰一人――実の息子のジークフリートすら、公爵の弁明に耳を貸しはしなかった。
ましてやなにも知らぬ他人が貴族としての命運をかけてまで傲岸不遜な公爵をかばうわけもなく、公爵とその一派は地下牢獄に囚われた。
判決まではなに不自由なく過ごせる貴人用の軟禁部屋ではなく、平民の凶悪犯罪者が収監される劣悪な環境の地下牢獄が選ばれたのは、公爵が謀反に加え皇帝弑逆の罪を問われているためである。
『ブライトクロイツ公爵はブラックモア侯爵がコンスタンツェの廃后とヴォルフラムの廃嫡を企んでいると、皇后に吹き込んだ。混乱した皇后は己と息子を守るためブラックモア侯爵を襲った。ブラックモア侯爵は護身のため魔法を放ったが、それこそがブライトクロイツ公爵の計画だった。愛しい皇后をアンドレアスはかばい、ブライトクロイツ公爵が増幅させた魔法によって致命傷を負った』
ヴォルフラムはそう断定したのである。




