130・転生ものぐさ皇妃とセーラー服
――櫻井さん!
響き渡った声はさっきよりも低く、熟す前の林檎の青さにも似たかぐわしさを秘めていた。初めて聞くはずなのに、どこか懐かしい。
「……っ!」
なぜか心惹かれ、重たい頭を上げた瞬間、めまいはおさまった。代わりに胸が激しく騒ぎ始める。蒼い空にびしびしと亀裂が入り、魚たちがぼとぼとと落ちていくせいで。
「マ、ママ……」
ガートルードは怯えながら視線をさまよわせた。不安になった時、ママはいつだって駆けつけ、ガートルードを守ってくれる。生まれた時から、ずっと……ずっと……。
『本当に?』
耳元で誰かがささやいた。ばっと振り返った先に、十代半ばくらいの少女がたたずんでいる。
セーラー服にポニーテールが似合う、可愛らしいけれどどこか陰を感じさせる少女。……彼女はとても疲れている。ガートルードはその理由をよく知っている。なぜなら。
(思い出しちゃ駄目!)
あの少女の声を聞いてはいけない。この優しく甘い世界に留まり続けたいのなら。
ガートルードはとっさに耳をふさいだ。けれど澄んだ声はガートルードの抵抗などお構いなしに、鼓膜にじわじわと染み込んでくる。
『ママは……お母さんは、どんなに泣いていたって一度も来てくれたりなんかしなかったでしょう?』
『それでもずっと泣いていたら、うるさい、って怒鳴られて、殴られて、びっくりした弟妹たちが泣き出して』
『早く泣き止ませないとまた殴られて、ご飯ももらえなくて。そのうち、悲しいとか苦しいとか感じなくなってしまったわよね?』
違う、違う。
ママは優しいもの。わたし以外の子なんていないもの。わたしだけが可愛いって。わたしがいなくなったら死んでしまうって。
『お母さんが優しくするのは男の人だけよ』
『何人産んだのかも、それぞれの誕生日や名前すらろくに覚えていなかったわよね』
『あんたに全部放り投げられるから、どの男とも安心してナマでヤれるわあ、っていつも笑っていたわ。そういう意味では特別だったかもね』
違う。
違う……っ……。
「……妾の姫御子!」
ざあ、と風が吹き抜け、求めていた姿が現れた。丈なす黒髪を振り乱し、息を切らしている。ガートルードの危機を察知し、必死に駆けつけてくれたのだ。
「ママ……!」
やっぱりママはママだった。
手を伸ばそうとしたガートルードの耳に、少女がまたささやく。
『行っては駄目。戻れなくなるわ』
どうしてそんなことを言うの?
戻るって、どこへ?
わたしのいるべき場所は、ここでしょう?
『……本当に、そう思うの? それは貴方の本当の気持ち?』
――櫻井さん!
――我が女神!
同時に響いた声は、どちらもガートルードにとって大切な存在のものだ。
金と銀の影が頭の中でぐるぐる回る。もう少しでなにか浮かんできそうなのに。
『思い出して』
すっと少女が差し出した手はあかぎれだらけで、とても若い娘の手とは思えなかった。毎日カイレンが丁寧にガラスのやすりで爪を整え、クリームを擦り込んでくれるガートルードの小さくやわらかな手とはまるで別物だ。
(佐那からは、よく『おばあちゃんの手みたい。パートに行く暇があるならハンドクリームくらい塗りなよ』って文句を言われたっけ。でも育ち盛りの子たちを食べさせるには、パート代を全部食費に注ぎ込まなくちゃ足りなくて……あら……?)
佐那って誰? そんな人、知らない……知らない……知って……知らない……。
『思い出して……思い出すのよ!』
「思い出してはいけません!」
少女とカイレンの叫びが重なった。それぞれがガートルードに手を差し出す。
『甘くて優しいだけの世界なんてどこにもないわ! でも、苦しみだけの世界もない!』
「貴方は甘くて優しいことだけしか存在しない世界で……妾の懐で永久に眠っていらっしゃればいいのです!」
ひび割れだらけの少女の手。
白魚のようなカイレンの手。
『このままこの世界に留まって、置き去りにするつもりなの? 貴方を待っている、大切な人たちを……!』
「貴方には妾しかいない! つらいことも苦しいことも、二度と味わわせない……!」
ぼと、ぼと、ぼとっ。
割れた蒼い空から魚たちが堕ち、ガートルードの頭の中に光が弾けた。
『……お姉ちゃん、これ。母の日だから』
可愛くラッピングされた包みを、照れ臭そうに突き出す佐那。お小遣いを出し合ってカーネーションを買ってくれた小さな弟妹たち。
『わからないことがあったらいつでも来なさい。身につけた知識は、必ず君の助けになってくれるはずだから』
たくさんの解説を書き込んだ参考書を、もう使わないからと何冊も譲ってくれた歴史の先生。
『いつでも弾くよ。君のためなら、どんな曲でも』
昼休みの音楽室で、ピアノを弾いてくれた委員長。
『……ありがとう』
関わったのは一度きりなのに、なぜか心に刻み込まれていた同級生。
(……そう、だ……)
震える喉から、嗚咽がこぼれる。
どうして忘れていられたのだろう。つらい記憶だってガートルードの一部だ。否定するのは自分自身を否定するのと同じことだったのに。
(つらいことだけじゃ、なかったんだわ……)
あの前世の果てに、今があるというのなら。
(わたしは――)
「妾の姫御子っ……!」
少女の手を取ろうとするガートルードに、カイレンが悲鳴を上げる。
ガートルードは肩越しに微笑んだ。
「貴方はわたしのママじゃない」
「っ……」
ガートルードの本当のママは――前世の母親は、娘をタダでこき使える召し使いだとしか思っていなかった。可愛がられた記憶はない。娘の死にも涙すらこぼさなかっただろう。
愛されたいなんて、期待するのはとうにやめてしまった。でも心のどこかで望んでいたのだろう。カイレンはそれを読み取り、叶えてくれた。
ほんの一時でも。
「……でも、……ありがとう」
「わ、……妾の、姫御子……っ!」
蒼い空が荒れ狂う。カイレンの慟哭を映し出したように。
「なぜ……、どうしてなのですか? 戻れば貴方は、またつらい思いをなさる。ここにいらっしゃれば、なんの苦労もなく、ずっと楽しいことだけの暮らしを……」
ただひたすらだらだらして、美味しいものを食べて過ごす。それこそがガートルードの望みだった。フローラの代わりに帝国へ輿入れしたのも、もとはと言えばそのためだ。
あのころなら、喜んでカイレンに囚われただろう。
でもガートルードは知ってしまった。差し伸べられる手の温もりを。
「……わたしの食っちゃ寝ライフは、わたしのそばにいてくれる人たちも笑っていてくれなきゃ駄目みたい」
「……っ……」
「ママ……カイレン。貴方も、その一人よ」
「あ、……あぁぁぁぁっ!」
蒼い宝玉の双眸から滂沱の涙が流れるのと、ガートルードが少女の手を取るのは同時だった。
溶け合う記憶が教えてくれる。少女の正体を。
「貴方は、わたしだわ」
櫻井佳那。
他人のために尽くし続け、短い命を終えた前世の自分は、答える代わりに優しく微笑んだ。もう一方の手で、割れた空を指差す。
大きな割れ目から、なにかがすうっと伸びてきた。きらきら光る銀色の糸……いや、あれは蜘蛛の糸だ。伝わってくる馴染んだ魔力に、ガートルードは唇をほころばせる。
「レシェ……!」
すっと伸ばした手に、糸は応えるように絡みついた。少女がもう一度微笑み、そっと手を離す。
「ありがとう……!」
思い出させてくれて。
――助けてくれて。
手を振った少女が光の粒になって消えると、絡みついた糸は強い力でガートルードを引き上げ始めた。




