129・姫を救うのは(第三者視点)
普通の細胞は一定の回数しか分裂できず、最終的には自ら死に至るアポトーシスという仕組みを備えている。健康な肉体を保つには必要不可欠な仕組みだ。
だが癌細胞は回数制限なく増殖を続ける上、アポトーシスを逃れる能力を有し、正常な組織をむしばんでいく。
寿命がなく、死なない。そう、理論上、癌細胞は不老不死であると言えるのだ。……実際は患者が亡くなり、栄養が供給されなくなれば死を迎えるのだが。
この身体に埋め込まれた魔獣の核を癌細胞と仮定すれば、ヴォルフラムはもはや手の施しようのない末期患者だろう。いかに苦痛を和らげて安らかな最期を迎えさせるか、検討する段階だ。
たとえ初期のステージだったとしても、この世界には抗がん剤のような薬剤は存在しない。もちろん外科的処置で核を摘出することも不可能だろう。
しかしヴォルフラムには、ある意味前世の医療さえ凌駕する力がある。
魔力――治癒魔法が。
ガートルードの宮殿に駆けつける前、リュディガーから得た情報により、治癒魔法で対象の魔力の流れに干渉できることが判明した。
魔獣の核とは、すなわち膨大な魔力の結晶だ。
ならば治癒魔法を用い、ヴォルフラムの意図に従わせることもできるはず。
(……ぐっ……)
そっと魔力を流したとたん、あらゆる臓器をずたずたに引きちぎられるような激痛が襲ってきた。核が――その主である魔獣が反発しているのだ。
お前には屈さない。
その身体をよこせ、と。
思えばこの魔獣も哀れなのかもしれない。人間の肉体に埋め込まれ、ずっと封じられていたのだから。逃れたいと、自由になりたいと望むのは当たり前だ。
だが、負けるわけにはいかない。
がんがんと痛む頭に、彼女の姿を思い浮かべる。今の彼女ではない。前世のヴォルフラム、神部薫を救ってくれた少女の姿を。
きっと彼女は、自分が薫を救ったなんて思わなかっただろう。薫がずっと自分を見つめていたことも、知らなかっただろう。
でも薫を生につなぎとめたのは、間違いなく彼女だった。
前世の薫は、彼女を救う騎士にはなれなかった。
だから、今世こそは。
(決めたんだ……彼女を、守り抜くって……)
魔力を無数の細い管に変化させ、暴れ狂う核に突き刺していく。核に魔力を供給する通路、人間なら血管に当たる管に魔力の管を通す。こちらの世界の治癒魔法使いなら狂ってしまいそうな精密作業も、前世で循環器が専門の医師だったヴォルフラムにはなんということもない。
(患者へのダメージを一切考慮しなくていい分、PCIよりは気が楽だな)
失敗すれば自分が死ぬだけだ。ヴォルフラムは前世の感覚を手繰り寄せながら、核に魔力の管を通していく。魔獣のおののく気配が伝わってくる。
瘴気を集め、ヴォルフラムをさんざん苦しめてくれた核。無限に増殖し、老いず死なない、その力――今こそヴォルフラムのものにさせてもらう。
魔力の管から、膨れ上がる核のエネルギーを吸い上げる。残る魔力を総動員し、反発する魔獣を抑えつけながら全身に巡らせていく。不老不死を実現させる圧倒的なパワーを。
(この身体のままでは、無理だ)
三歳の小さな肉体では受け止めきれない。悔しいがカイレンの言う通り、駱駝が針の穴を通ろうとするようなものだ。
ならば、針の穴が――ヴォルフラムの方が、大きくなればいい。駱駝を通せるくらい、魔獣の力を受け止められるくらい大きく。
できるはずだ。
……彼女を救うためなら、できるはずだ!
「……う、……おぉぉぉぉっ……」
「っ……?」
食いしばった歯の隙間から呻きが漏れた瞬間、誰かが息を呑んだ。まぶたをこじ開け、ヴォルフラムはニッと笑ってみせる。金と蒼、宝玉よりも美しく鮮やかな双眸を見張る二人の魔獣の王に。
レシェフモートもカイレンも、きっとヴォルフラムがこのまま死ぬと思っていたのだろう。いや、眼中にもなかったにちがいない。
王たる彼らにとって、ガートルード以外の人間など塵芥に等しいのだから。
「……あんまり、人間を、舐めてんじゃ、ないぞ……」
幼子特有の高く澄んだ声が少しずつ低くなっていく。ばき、みしっ、と体内で不吉な音をたてるのは、本来ならありえない成長を遂げてゆく骨と関節か。
前世で味わった成長痛など比べ物にならない激痛さえ、ヴォルフラムには心地よかった。
そう、人間は成長できるのだ。
それは生まれながらに完全な存在である魔獣には備わっていない能力だ。前世のヴォルフラムは彼女を助けられなかった……取り返しのつかない失敗を犯してしまった。
でも、その失敗さえ呑み込めたなら……失敗と絶望の分だけ大きくなれれば、どんな敵でも恐れるには足りない。
「姫をさらうのがお前たち魔獣の性なら……姫を助け出すのは、皇子の特権なんだよ!」
燃え立つ闘志があがく魔獣をねじ伏せ、灰も残さず燃やし尽くした。純粋な力の結晶となった核はヴォルフラムの心臓に吸い込まれ、同化する。
「……殿下……」
「その、姿は……」
リュディガーとジークフリートが目を見開く。ゆらりと顔を上げたヴォルフラムに、亡き友アンドレアスの面影を見たのだろうか。モルガンだけは純粋な驚愕を……いや、なぜか期待……?
「なんという素質……」
どんな素質だ、と問う前に、まとわりついていた布地が落ちた。今まで着ていた服が破れてしまったのだ。
彼女にみっともない姿を見せるわけにはいかない。ヴォルフラムが魔力を操ると、身体は新たな衣装に包まれた。白を基調とした実用的でありながら華麗な軍服は、皇族男子にしか許されないものだ。
「その力は……」
カイレンの蒼い瞳によぎるのは驚愕か、それとも嫌悪か。無から物質を造り出すのはどちらかと言えば魔獣寄りの力だ。見下していたヴォルフラムが自分と同じ力を使いこなしたことに、嫌悪を覚えずにはいられないのだろう。
(……こんなモノたちを、相手にしていたのか)
わずかながらも同質の力を得て初めて、カイレンとレシェフモート――王と呼ばれる魔獣の身震いするほどの強大さを思い知る。今まで帝国がどれほど危険な綱渡りをしていたのかも。
レシェフモートを怒らせたら、カイレンが呪い返しの風を全土に吹かせたら……何度も帝国は滅亡の危機に瀕していた。そのたび救ってくれたのは彼女だ。
(今度は、僕が助ける)
決意と魔力を拳にこめながら、ヴォルフラムは立ち上がる。高い視点が懐かしい。
「……妾の姫御子は、妾の腹の中で安らかにお過ごしになっている。お前はまた姫御子にこの世の苦しみを味わわせるつもりか?」
般若の形相のカイレンに、怒りも恨みも感じなかった。覚えたのは切なさと情けなさだ。
きっとこの魔獣の王は、知ってしまったのだろう。彼女の魂に刻み込まれた悲しい記憶を。彼女に生まれ変わらせてもらったカイレンには、彼女と特別なつながりがあるから。
彼女を我が子のように慈しむカイレンは、ならば苦しみも悲しみも存在しない己の腹の中にしまいこもうとしたのかもしれない。
我が身を盾にしてでも我が子を守る。
そんな存在が前世にもいたなら、彼女は若くして命を落とすことにはならなかった。彼女の両親さえ彼女を愛してくれれば……いや、前世の自分がそんな存在になれたなら、彼女はきっと今も前世の世界で笑ってくれていたはずだ。
カイレンの創り出す世界は、夢のように幸せで光に満ちているのだろう。他ならぬ彼女自身、ずっとそこにいたいと願っているのかもしれない。
でも。
(ごめんね、櫻井さん)
ヴォルフラムは一瞬で距離を詰め、拳を繰り出す。カイレンの腹部目掛けて。
(僕は君を、思い出の中で眠らせてあげられないんだ)




