128・転生ものぐさ皇妃の夢と目覚め
「妾の姫御子は、本当に勉強熱心で聡明な子ですね」
カイレンは向かい側の椅子から立ち上がり、ガートルードの背後に移動した。椅子の背もたれごと、そっとガートルードを抱き締める。
「ですが無理をしてはいけませんよ。好きなものだけ召し上がって、好きなことだけをして、好きな時に好きなだけお休みになればいい。貴方はそれが許されるのですから」
「うん、ママ」
「……ああ、いい子。可愛い、可愛い、いい子ですねえ」
たまらないとばかりに笑み崩れ、カイレンは背後から頬を擦り寄せてきた。丈なす黒髪が御簾のごとく視界をさえぎる。
(……?)
かすかな違和感にガートルードは首を傾げた。カイレン以外の誰かにも同じことをされたような……その人はガートルードと同じ、銀色の髪だったような……。
――……い、さん……。
また聞こえた声が心に波紋を広げ、胸を騒がせる。ここは自分の居場所ではないような、大切なものを見失っているような。
――……さ……らい、さん……。
「妾の可愛い姫御子」
混ざり合った黒髪と銀髪を、カイレンは愛おしそうに指に絡め、梳きやる。
溶け合う漆黒と銀を眺めているうちに、あいまいになっていく。カイレンとガートルードの……現実と夢の境目が。
「それでいいのですよ」
「いい……、の?」
「妾と貴方は一つなのですから。境目など、考える必要もないでしょう?」
――我が、……がみ……。
甘いささやきに反発するように、さっきとは違う声が頭の奥に響く。懇願の色を帯びたそれに鎮まったはずの心は再び揺らいだ。
どうして?
自分はこの世界で生まれ、カイレンに愛されて育った。なんの苦労も経験せず、すべてが自分の思い通りになる世界で……それ以外の世界なんて知らない……知らなくていい……。
「なにも考えないで」
不安をほどいてくれる白い手に、つかの間、褐色のそれが重なる。
「つらいことも苦しいことも、貴方は一生味わわなくて良いのです。ここで妾と……ずっと、ずっと共に暮らしましょう……?」
ささやく声音にもっと低く、蠱惑的な……知らないのにひどく懐かしいそれが。
……重なる……。
「ママ……」
震えるガートルードを、カイレンは軽々と抱き上げた。顔を胸に埋めさせる格好で抱き締められ、ぽんぽんと背中を優しく叩かれるうちに、不安は霧散していく。
「大丈夫、大丈夫ですよ。貴方には妾が付いておりますからね」
「うん……」
「妾がおそばにいる限り、貴方は幸福に包まれて過ごせます。楽しいことだけを考えて、美味しいものだけを召し上がって、妾の中で眠って……」
カイレンの声はさざ波のようだ。鼓動と重なり、騒ぐ心をなだめてくれる。
(……そう……、よね……)
カイレンの言う通りにしていれば、怖いこともつらいことも苦しいこともない。何事にもわずらわされず、ひたすら食っちゃ寝を繰り返す生活。
それこそガートルードが望んでやまないものだったはずではないか。
「……良かった。落ち着かれたようですね」
背中を叩く手を止め、カイレンはそっとガートルードを下ろした。慣れた仕草で制服の胸元のリボンを直してくれる。
大きな襟とリボンが特徴的な白いワンピースタイプの制服は、ガートルードのお気に入りだ。裾に紺のラインが入ったスカートは歩くたびふんわり揺れて、お姫様みたいな気分にさせてくれる。
「ありがとう、ママ。そろそろ行ってくるね」
ガートルードは椅子に引っかけておいた白いベレー帽をかぶり、通学用バッグを持った。中にはもちろん、カイレンが作ってくれた特製ランチボックスも入っている。友達と一緒におしゃべりしながら美味しいランチを食べるのが、ガートルードの毎日の楽しみだ。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
「はーい!」
エントランスまでわざわざ見送りに来てくれたカイレンに手を振り、ガートルードは歩き出した。見上げた空には蒼い水が揺蕩い、色鮮やかなヒレを揺らめかせた魚が泳いでいる。お花畑のような光景を眺めていると、いつだって心が浮き立ってくる……はずなのに。
――さくらい……、さん……。
「っ……」
ずきんと頭が痛んだ瞬間、蒼い空の水面がぐにゃりとゆがんだ。
そこに映し出されたのは、金髪や黒髪の青年たちに囲まれ、苦しそうに胸を押さえながらうずくまる小さな少年。ガートルードよりもなお幼い……。
(……わたし、この子を知ってる……)
じっと見つめていると、少年が閉ざしていたまぶたをゆっくりと開いた。翡翠の双眸がガートルードを捉えるや、少年は震える唇を必死に動かす。
――櫻井さん。
「……あ、……っ!?」
何重にもぶれた視界がぐるぐると回り始め、ガートルードはたまらずその場にしゃがみこんだ。
「死にます」
復活した魔獣の王の声は、ヴォルフラムの耳にも届いていた。
(……魔獣の、核……が、この身体の、中に……)
驚きよりも、納得の方が強かった。魔獣の核なんて代物が埋め込まれていたから、この身体は瘴気を集め、蓄積させてしまっていたのだ。
心臓のすぐ下に触れた、あの異様な硬い感触。あれが魔獣の核なのだろう。今やみるみる膨張し、肺や心臓を圧迫しているのがわかる。核から放たれる魔力と瘴気がすさまじい速さで身体を侵食していくのも。
膨張しきった核が心臓を押し潰すのが先か、瘴気が全身に回るのが先か。どちらにしてもヴォルフラムに訪れる結末は同じだ。
(……死ぬ、のか……)
また、なにもできずに。
彼女を……魔獣の王に捕らわれたまま。
「むしろ、その方が皇子にとっては幸せかもしれませんよ。……ねえ、貴方もそう思うでしょう?」
愉悦に満ちた声音に鼓膜を揺らされた時、激痛と窒息の苦しみで折れかけていた心に火がついた。
(……ふざけるな!)
ヴォルフラムにとっての幸せを、どうして魔獣の王に……彼女を捕らえる男に決めつけられなければならない?
確かに、魔石という財源を失い、皇帝が急逝し、ブライトクロイツ公爵が暗躍する帝国は、これから斜陽の道をたどるだろう。本人も実家も頼りにならない皇后から生まれた皇子の立場は微妙すぎる。
中身はともかく、身体はたったの三歳なのだ。母后に摂政の能力がない以上即位もできず、誰が帝位につくにせよ、持て余されるのは目に見えている。
だったらいっそ、ここで死んでしまった方が幸せだ――なんて思うものか。絶対に思うものか!
(だって僕は、また、なにもできていない)
前世でも今世でも彼女はヴォルフラムを救ってくれたのに、ヴォルフラムは彼女の優しさにすがるだけだった。
二度目は嫌だ。
二度目は耐えられない。
無力も、幼さも言い訳になんてしたくない。
(彼女を、守る)
そのためだけにヴォルフラムは生まれてきた。魂だけになって、先に逝った彼女を追いかけた。
そして。
『なんでよけいなのまで付いてくるわけ?』
そして……。
『仕方ない、魔獣の核でも埋め込んで……』
……そして……。
脳裏に浮かんだ邪悪な女の面影は、一瞬で跡形もなく消え去った。だがヴォルフラムの、いや、かつて神部薫と名乗っていた男の知識と感情を呼び覚ました。
(魔獣の、核……体内にありながら異常な増幅を繰り返し、正常な組織をむしばむ……まるで癌だな)
ならば、諦めるのはまだ早い。
薫は病と戦う医師だったのだから。