127・転生ものぐさ皇妃は夢を見る
突如現れた魔獣の群れに半分以上の民が喰われてしまったという村を救援し、そこを野営地にした夜のことだ。なかなか寝つけず、散歩に出たモルガンは、おぞましい光景を目撃してしまった。
『彼女を返せ! 彼女を!』
村のかたすみで、木の幹にくくりつけられた魔獣に何度も何度もナイフを振り下ろす青年。後で知ったことだが、青年の恋人はその魔獣に生きたままむさぼり喰われたそうだ。青年の目の前で。
村唯一の治癒魔法使いでもあった青年は、王太女軍が群れを殲滅した後、奇跡的に虫の息で生き残っていた仇の魔獣を発見すると、ひそかに連れ帰り自宅の庭の木にくくりつけたのだ。そして傷を癒してはナイフを振るい、また癒しては傷つけるというおぞましい行為を繰り返していた。
魔獣の胴体は切り裂かれ、人間のそれとは違う体内がさらけ出されていた。なにもかもが異質な中、ひときわ異彩とすさまじい瘴気を放っていた子どもの拳大の結晶。
モルガンによって青年が捕縛され、痛めつけられていた魔獣もまた討伐された後のことだ。あの結晶が魔獣の核だと、随行していた破邪魔法使いから教えてもらったのは。通常は魔獣が絶命すると同時に消滅してしまうため、目撃できたのはかなり稀なケースだそうだ。
「……本能的な忌避感を催すあの気配は、何年経っても忘れはしません。ヴォルフラム殿下からはあの時と同じ……いえ、もっと強く濃厚な気配を感じます」
「そのようなことが……」
瞠目するリュディガーに、だが、とジークフリートは眉をひそめた。ヴォルフラムを介抱する手つきは意外なくらい優しく、手慣れている。
「殿下の体内に魔獣の核が存在することはわかった。殿下が苦しまれている原因も間違いなくそれだろう。……しかし、魔獣の肉体と切り離せない核がどうやって殿下の肉体に入ったのか。その答えにはならない」
「ならば妾が、答えを差し上げましょうか」
極上の弦楽器をかき鳴らすような声で告げたカイレンに、人間たちの視線が集中した。まだレシェフモートの蜘蛛脚を首に押し当てられたままなのに、ずいぶん上機嫌だ。
「貴方がたがおっしゃる通り、妾たち魔獣の核は肉体から離れれば消滅してしまいます。王たる妾や、そこの『死の』……、いえ、……レシェフモートも同じこと」
蜘蛛脚を首に食い込まされ、カイレンはくすくす笑いながら言い直した。
「肉体から切り離されれば消滅してしまうのならば、肉体を備える前に植えつければ良いでしょう」
「……肉体を備える前、だと?」
「ええ」
腑に落ちない顔のジークフリートを愚鈍となじるでもなく、カイレンは微笑んだまま続ける。こんなに上機嫌なこの男を見たことがない。
「魂だけの状態の皇子に、同じく核だけの状態の魔獣を埋め込んだのですよ。その後皇子は皇后の胎に宿り、核を埋め込まれた状態のまま生まれた。だから皇子の体内には核がある。……ほら、ね? 筋は通るでしょう?」
確かにそうだ。筋は通る。
だがカイレンは肝心なことに言及していない。
すなわち、誰がなんのために人間の魂に魔獣の核を埋め込むなどという真似をしたのか――まあ、考えるまでもないことだが。
人間の魂に干渉できるのは、人間よりも高次の存在しかいない。
ジークフリートも悟ったようだ。
「……神が、殿下の魂に魔獣の核を埋め込んだと?」
ジークフリートのみならず、リュディガーやモルガンも一柱の神の名を思い浮かべただろう。
破邪の女神シルヴァーナ。
あまた存在すると言われる神々の中で、唯一人間と関わった女神。
「魔獣の核を埋め込まれて生まれたのなら、瘴気を蓄積してしまう体質になるのも頷けます。瘴気は魔獣の呼気ですから、核が殿下の意志に関係なく引き寄せていたのでしょう」
モルガンの言葉に頷きつつも、疑問を呈するのはリュディガーだ。
「しかし、なぜ今まで誰も核の存在に気づかなかったのですか? 私もその一人ではありますが、殿下付きの破邪魔法使いならば気づいても良いでしょうに」
「それだけ、女神が周到だったからでしょうねえ」
ぽんぽん、とむずかる赤子をあやすように、カイレンが腹を優しく叩く。
「万が一にも誰かに勘づかれないよう、女神は核を皇子の魂深くに埋め込んだ。摂理に反する真似をしている自覚はあったのでしょうね」
神だからといってなにもかもが許されるわけではない。守らなければならない摂理の、最低限のラインというものが存在する。
「皇子の魂と肉体にそれだけの器量があったのが災いし、核は誰にも発見されなかった。しかし妾という純然たる魔獣の王が顕現したことにより、核は活性化し……器量を超えた皇子の肉体を喰い破ろうとしている。そのようなところでしょうね」
「っ……、では、殿下は……」
「死にます」
慈母の微笑とは裏腹に、カイレンの言葉は容赦がない。いや、人間相手にここまで説明してやっている時点でじゅうぶん慈悲を垂れているか。
「その身体に活性化した魔獣の核を宿し続けるのは、駱駝に針の穴を通らせようとするようなもの。とうてい不可能です」
「……そんな……」
「むしろ、その方が皇子にとっては幸せかもしれませんよ。……ねえ、貴方もそう思うでしょう?」
――妾の姫御子。
この上なく甘く優しく、カイレンは愛しい女神の宿る腹を撫でる。
「……櫻井さん……」
ヴォルフラムの漏らしたあえかなつぶやきは届かなかった。
この場にいる、誰の耳にも。
「櫻井さん、櫻井さん、櫻井さん……」
それでも彼は呼び続ける。
彼をこちら側につなぎとめる、唯一の存在の名を。
蜘蛛の糸にすがる罪人のように。
「……ふぁい?」
誰かに呼ばれたような気がして、ガートルードはトーストをくわえたまま振り返った。……誰もいない。サクサクと咀嚼しながら反対も見てみるが、やはり誰もいなかった。いつも通りの、家族二人で暮らすマンションのダイニングだ。
「どうしました? 妾の姫御子」
藤色の小袖をしっとりと着こなしたカイレンが優美に首を傾げた。カイレンはガートルードのたった一人の家族であり、ママだ。とんでもない美形の主で男性だが、ママなのだ。
なぜならカイレンはこの世界で一番ガートルードを愛してくれるから。この世界にガートルードを生んでくれたから。
「ふぁふふ、ふぁふぁふぁっ、むぐ」
「ふむふむ、誰かに呼ばれたような気がしたのですね。でも誰もいなかった、と」
もぐもぐしながらの説明をカイレンは正確に聞き取り、眉宇を曇らせた。
「かわいそうに……きっと疲れているのでしょう。今日は、学校はお休みした方がいいのではありませんか?」
「ふぁっ、んん……っ、……嫌よ、そんなの」
ガートルードはミルクたっぷりのホットチョコレートでトーストを飲み込んだ。マシュマロと生クリームを浮かべたそれはガートルードの大好物だ。
他にもホイップクリームを山のように盛り、新鮮なフルーツを添えたパンケーキや、チョコレートソースをかけたワッフル、バニラアイスをのせたフレンチトーストなど、朝食のテーブルにはガートルードの好物ばかりが並んでいる。すべてカイレンが作ってくれたものだ。
「今日は世界史と古文と音楽の授業があるんだもの。絶対に行く!」
自他共に認める歴女としては今日から始まる『悪縁戦争』はじっくりたっぷり聞きたいし、古文は『泣く泣くクビをぞ回転蹴る』のシーンだし、音楽の授業は教師がリクエストした曲をピアノで弾いてくれるから、『バルの歌』をリクエストしようと思っていたのだ。
(だって悪縁戦争って、どんな悪縁なら戦争まで発展するんだよって感じだし、泣きながらクビを回転蹴りするって倍返しの銀行員みたいだし、バルの歌っておしゃれで美味しそうだから聴いてみたかったんだもの!)
シリアスの真っ最中ですが、悪縁戦争と泣く泣くクビをぞ回転蹴るとバルの歌の正解がわかった方は、ぜひ感想欄で!