番外編2・ごめんなさいは届かない(佳那の妹視点)
祭壇に飾られた遺影の中、姉は疲労とストレスにくたびれ果てた顔でぼんやりとした笑みを浮かべていた。この時まだ二十代前半だったはずだが、年相応の華やぎも若々しさもなく、アラフォーにしか見えない。
もっとましな写真があればよかったのだが、姉を写した写真で一番まともなのがこれだったのだ。
佐那がスマホを機種変更した時、カメラのお試しにと姉を撮った。確かあの時姉は風呂を嫌がる五歳と三歳の弟妹をようやく入浴させ、風呂上がりにお漏らしをされて、二人の身体を拭きながらその始末もしていたんだっけ。
大変そうだなと思いつつも、佐那は何も手伝わなかった。バイトしまくってやっと購入した新しいスマホを、汚されたくなかったから。
(……我ながら、吐き気がする)
あの時に戻れるのなら、佐那は過去の自分を思いきりぶん殴ってやるだろう。あのころはバイトで小遣いを稼ぐ自分は立派だと、ろくにお小遣いもくれない姉はケチだと思い込んでいた。
「ねえママ、ママー」
五歳になったばかりの息子が佐那の喪服のスカートをぐいぐいと引っ張る。歩けるようになってから後追いが激しく、来年は小学生になろうというのに、いまだに佐那から離れようとしない。
姉の葬儀が行われる今日は、共に参列する夫に任せ、斎場の控え室で遊んでもらっていたはずなのだが。
「どうしたの、パパは?」
「寝てるー」
佐那はため息をつき、息子の手を引いて控え室に向かった。案の定夫は散らばったおもちゃに囲まれ、机に突っ伏しいびきをかいている。
「ちょっと、貴方」
「わっ……」
肩を揺さぶってやると、夫はすぐに起きた。
「この子を見ててってあれほどお願いしたでしょ。私のところまで一人で来たのよ」
「え、マジで? ごめんごめん。ちゃんと遊んでたんだけど、なかなか満足してくれなくて」
寝落ちしちゃった、と頭をかく夫を責める気にはなれない。
佐那の夫は長距離トラックのドライバーだ。今朝の三時くらいに帰宅し、いつもならすぐ布団に入るのに、今日は姉の葬儀だからと慣れないスーツを着て付いて来てくれた。ふだんもよく息子の面倒を見てくれる。
「子どもって本当に体力の化け物だよなあ。……お義姉さん、マジですごいわ」
「うん……」
夫には佐那の家庭環境をすべて伝えてある。十三人きょうだいの上から二番目だったこと、両親はいわゆる毒親で子どもの面倒を姉に丸投げしていたこと、姉の佳那が母親代わりにきょうだいを育て上げたこと……佳那の苦労を知りながらほとんど何も手伝わなかったこと。
あのころは――小さなボロ家にぎゅうぎゅうに詰め込まれるようにして暮らしていたころは、佐那にとって姉は愛おしいけれど、恥ずかしい存在だった。
佐那と二歳しか違わないのに化粧もせず、美容にはまるで気を使わず、肌も髪もいつもぱさぱさで、同じ薄汚れた服ばかり着ている。学校の制服と部屋着以外の姿なんてほとんど見たことがない。
『お姉ちゃん、化粧水くらい塗りなよ。あと外に出る時はそれなりの服に着替えてよ』
佐那が何度言っても姉は『そうだねえ』とあいまいに笑うだけ。せっかくバイト代を貯めて母の日にプレゼントしたワンピースも香水も、一度も使われることはなかった。
だから佐那はバイト代を自分のためだけに使うようになったし、外で偶然買い物中の佳那に出くわしても他人のふりをした。一緒にいる友達や彼氏にあんなみっともないおばさんが姉なんて知られたくなかったから。
(みっともないのは、どっちよ)
姉の苦労を本当の意味で理解したのは、夫と授かり婚をしてからだ。
生まれた息子は可愛かったけれど、とにかく手のかかる子だった。二時間以上連続で眠ってくれることはめったにない。
抱っこしていなければいつまでもぐずり、抱っこしてやってもぐずり、布団に寝かせたとたん背中スイッチが入ってギャン泣きする。佐那は母乳の出が良くなかったのに、粉ミルクは絶対に飲んでくれない。
家を空けることが多い夫はあまり頼れず、基本的にワンオペ。義母は遠方住まいで脚が悪い。実の両親なんて絶対に頼れない。
一晩中寝てくれずに泣き続けた息子を背負い、近所をあてどもなくさまよい続け――このまま飛び込んでしまおうかと橋の上から川を眺めていた時、姉に対する罪悪感が涙と一緒にあふれた。
赤ん坊に囲まれて、化粧なんてできるわけがない。自分のことに気を使う時間なんてない。可愛いワンピースなんて着ている余裕もない。少なくとも佐那はそうだった。
でも佐那の息子は一人で、たまには夫に任せることもできる。対して姉は十二人。誰の助けも借りずに育てていた。
よだれでべとべとにされても、汚物まみれにされても、時間も場所も構わずギャン泣きされても許せるのは、自分の産んだ子だからだ。
自分が産んだから仕方ないんだと、無理やり納得することができる。
けれど姉はきょうだいとはいえ、自分が産んだのでもない子を育てていた。自分の人生を犠牲にして。自分以外、育ててくれる人はいないから。
たとえ目の前で死にかけていても、両親が子どもを助けることはない。彼らが好きなのは子どもではなく、子作りの行為だけだから。
佐那や弟妹たちが貧しくとも成長できたのは、姉のおかげだ。姉を犠牲にして佐那たちは生き延びた。
姉にもきっとあったのだろう。きょうだいたちを道連れに死んでしまいたい瞬間が。佐那とは比べ物にならないくらい何度も何十度も何百度も……何千度も。
自分たちは殺してやりたいくらい、憎まれたことがあるのだろう。
そうまでして姉が守ってくれた命を粗末にするなんて、絶対に許されない。自分はあの姉の妹なのだから、頑張れるはず。
己に言い聞かせ、佐那は橋の上から立ち去った。ずいぶん時間が経っていたようで、帰宅すると青ざめた夫が妻と子を探し回っていた。
それから佐那はすべてを夫に打ち明けた。夫は多忙ながらも会社と相談してスケジュールを調整し、帰宅できる時間を増やし、育児にも積極的に関わってくれた。
息子を保育園に預けられるようになってからパートを始め、わずかながらも姉に送金するようになったのは罪滅ぼしだ。
すぐ下の弟や他の独立した弟妹も送金しているという。佐那同様、一人で生活して初めて姉の苦労と偉大さを知ったのだろう。
一番下の妹が義務教育を終え、姉がこれからは自分のために生きたいと言った時は嬉しかった。もう三十歳の姉だが、自分たちという重荷から解放され自由に生きて欲しい。
今度は自分たちがいくらでも支えるから。
そう思っていたのに。
姉が新たに借りたアパートに引っ越したその日、引っ越し祝いをしようと弟妹たちで近くのレストランを予約したのに、約束の時間になっても姉は現れなかった。
嫌な予感に襲われた佐那が預かっていた合鍵でアパートに入ると、姉はリビングで倒れ、そばにはスマホが落ちていた。
助け起こそうとした身体はすでに冷たく、搬送された病院で死亡が宣告された。
死因は脳梗塞。息が止まってから数時間が経過していた。
遺品となったスマホの履歴を確かめ、佐那は愕然とした。最後の通話履歴は母だったのだ。しかもまさに姉が脳梗塞を起こしたとおぼしき時間帯である。
『え、佳那、あの時死んだの?』
慌てて母に詰め寄ると、母はあっさり白状した。
父方の祖母が倒れ、その介護を姉に押しつけようとしたのだと。しかもまた妊娠しており、生まれる子の世話まで姉に任せる気だったという。
『せっかくアタシが働き口を世話してやったっていうのに、佳那ったら途中でもごもご言って黙っちゃったのよ。さすがにイラッときて電話を切ったんだけど、へええ、あの時脳梗塞起こしてたのねえ』
あっけらかんとほざく母が宇宙人に見えた。その時母が異変を察して救急車を呼んでいれば、姉は助かったかもしれないのに。
『ええ? そんなこと言われても、あの子は性格悪いからむくれてるだけだと思ったんだし。それに脳がやられると助かっても介護が必要になったりするんでしょ? あんたたちも佳那もそんなのつらいだろうから、ころっと死ねて良かったんじゃない?』
さんざん苦労させた娘が死んで良かったと言ってのけ、でも、と母は初めて表情をくもらせた。
『おばあちゃんの介護どうしよう。アタシあのババア大嫌いなのよね。生まれる子も佳那に任せるはずだったし……』
『お母さん……』
『あ、そうだ。佐那、あんたに頼むわ。あんたは次女なんだから、佳那が死んだらあんたの番でしょ?』
佐那が本当に姉の気持ちを理解したのはきっとこの時だ。
長女だから弟妹の世話も家事も全部押しつけられた。佐那は次女だから次に全部押しつけられる。
『……ふざけんな』
『きゃっ……!』
気づけば母の頬を叩いていた。
『おばあちゃんの介護はお父さんが、子どもの世話はお母さんとお父さんがすべきことでしょ。どうして最初から他人にやらせる気満々なのよ』
凄みながら嫌気がさした。佐那が反抗できるのは生活基盤のある大人だからだ。佳那はどんなに理不尽な命令でも従うしかなかった。
『あんたは他人じゃない、娘じゃないの!』
『他人だよ。面倒を見てもらったことも、愛されたこともないんだから』
『何を生意気な……!』
ぎゃんぎゃんわめきながら母が佐那に掴みかかろうとする。
止めたのは一緒に来てくれていた夫だ。
『お義母さん、僕も佐那の言う通りだと思います』
『っ……、貴方まで……』
『まずお義父さんとお義母さんのお二人で努力して、次は行政を頼り、それでもどうにもならなければ連絡をください。僕も佐那も、それ以外でお二人に関わるつもりはありません』
母はなおもわめいていたが、放置して帰った。
それからきょうだいに姉の早すぎる死を伝えて回り、嘆き悲しむ彼らと姉の葬儀の段取りをつけ、やっと今日を迎えた。
両親は呼ばなかった。どうせまた身勝手な文句をまき散らすだけだろうし、姉も望まないと思ったから。
まだ一人では暮らせない年齢の弟妹は、独立したきょうだいが資金を出し合って家を借り、住まわせることになった。交代で様子を見に行く約束になっている。
(もっと早く、そうしていれば良かった)
そうすれば姉の負担も少しは減り、あんな若さで死なずに済んだかもしれない。他のきょうだいもみな自分を責めている。一番下の妹さえ。
どんなに後悔しても、姉は帰ってこないのに。
今ならわかる。佐那たちは姉を母だと思っていた。
母なら何をしても許してくれると、許すのが当たり前だと無邪気に思い込んでいた。
お腹を痛めて産んだ実の子さえ、道連れにしてやりたくなったのに。
今度こそ息子を夫に任せ、姉の遺体が安置された斎場へ戻る。
棺はきょうだいたちに囲まれていた。みな黙ったまま、最期の別れを交わしている。
(……お姉ちゃん)
棺の中の姉は経帷子に着替えさせられているが、アパートで発見した時は花柄のワンピースを着ていた。ずっと前、佐那がプレゼントしたワンピースだ。
もう布もデザインも古くなってしまった安物なのに、大切に取っておいてくれたのだろう。そして晴れの日に着てくれて……最期の、旅立ちの衣装になってしまった。
(もっと、可愛い服を買ってあげたかった)
姉は気づかれていないと思っていただろうけど、本当はお姫様のような可愛い服が好きだと佐那は知っている。これから一緒に買い物に行って、買ってあげようと思っていたのに、そんな日は二度と訪れない。
「……佐那姉、ちょっと」
受付を任せていた三番目の妹が入り口から手招きをしてきた。何かしらと歩み寄れば、大人でも抱えるのに苦労する大きさの花束を差し出される。
すべて大輪の薔薇だ。赤や白やピンクや青、紫など、色とりどりの薔薇は一輪でも相当値が張るだろう。これだけの数ならいくらになったことか。
「どうしたのよ、これ」
「さっき王子様みたいなすごいイケメンが来て、櫻井さんに、って言って置いてったのよ」
何度名前を尋ねてもイケメンは答えず、お悔やみだけを告げると、深々と一礼して去っていったのだという。
歳は姉と同じくらいだったらしい。なら姉の友人か、あるいは彼氏だろうか。姉にそんな存在がいることは教えられていないが。
(……誰でもいいか)
王子様みたいなイケメンが姉の死に花束を捧げてくれた。他人のためだけに生きた姉のはかない人生も、ほんの少しだけ明るくなる。むろん佐那の自己満足に過ぎないけれど。
(お姉ちゃん、王子様がお姉ちゃんに花束をくれたよ。お姉ちゃんはもしかしたらお姫様だったのかもね)
花束を棺に供え、心の中で語りかける。
二度と動かないはずの姉の唇が、ほんの少しだけほころんだような気がした。
佐那は善人ではありませんが、悪人でもありません。
佳那の母親は『子どもは親の所有物、親の言うことには従うのが当たり前』と思い込んでいるだけで、悪意はありません。