124・王と王(第三者視点)
「ふ、ふふふ、ふふふふっ」
つややかに、あでやかに、カイレンは笑う。緑の黒髪を天女の羽衣のごとく宙に舞わせ。
そのたなごころに、蒼い水に満たされた宝玉をのせて。
「はは、……はははははっ! ……あぁ、妾の姫御子、妾の御子……!」
白い手が愛おしそうに撫でる宝玉の中にはガートルードが横たわり、安らかな寝顔をさらしている。
あれはただの宝玉ではない。カイレンの支配領域である深海……濃厚な魔力の溶け込んだ潮の檻を顕現させたものだ。
「さあ……、いい子でおやすみなさい……」
「やめろ!」
レシェフモートは蜘蛛脚を出現させ、容赦なくなぎ払った。高位の魔獣の群れすら殲滅するはずの一撃は、カイレンがすっと小袿の袖をひるがえし、張り巡らせた水の障壁によってたやすく弾かれる。
「ぐ、……」
魔獣の王同士の激突。巻き起こる暴風は単なる余波に過ぎないが、居合わせた人間たちは必死に踏ん張らなくては耐えられない。
「殿下!」
吹き飛ばされそうになったヴォルフラムを、リュディガーが抱き寄せてかばった。ジークフリートがすかさず二人の前に立ちはだかって壁となり、モルガンが強力な風の結界を張る。
いずれもガートルードが大切にしている人間どもだが、今は彼らに構っている余裕などない。
「我が女神を返せ!」
レシェフモートは執拗に蜘蛛脚を振るうが、すべて水の障壁に弾かれてしまった。
かつて、北の王と呼ばれたレシェフモートと沼の王の力は拮抗していた。ブリュンヒルデ皇女の四肢に長い間つながれていたのだから、今はレシェフモートが圧倒して然るべきなのに。
「返せ? ……おかしなことをおっしゃる」
くすくすくす。
艶然と唇を吊り上げるカイレンから、在りし日の数倍以上の魔力を感じる。
「このお方は妾の姫御子。妾の懐にしまって、お育てするのは当然でしょう?」
たなごころの宝玉がすうっと浮かび、カイレンの腹部に吸い込まれた。カイレンはうっとりと頬を染め、愛おしそうに腹を撫でる。
「姫御子も安らかに眠っておいでになる。……そなたの血濡れた手に抱かれるより、はるかにお幸せというもの」
「……レヴィヤタ、……っ……」
魂に刻み込まれているはずの名を、最後まで呼ぶことはできなかった。喉に走る電流めいた痛みは、その名がすでに目の前の魔獣の王のものではないという証だ。
「無駄ですよ。今の妾は、カイレン」
にたあ、と紅い唇がまがまがしくゆがむ。
「我が姫御子が刻んでくださった、妾の名。だからこそ妾はこうしてここにいる。わからぬそなたではあるまいに」
口惜しいが、カイレンの言う通りだ。
レシェフモートの知る『海の暴君』と畏怖されていたカイレンと、慈母のごとく微笑む今のカイレンとはまるで違う。
王とまで呼ばれた魔獣を、存在ごと作り替えてしまうとは。
(……これが、我が女神のお力か)
カイレンによって引き起こされる地震を鎮めている間も、レシェフモートはガートルードから目を離さなかった。
だから彼の女神に降りかかった出来事はすべて把握している――と断言できないのが悔しい。
ほんの一瞬。
時間にすればたったの数秒、ガートルードの姿を追えなくなった。まるでガートルード・シルヴァーナという存在がこの世界からかき消えてしまったかのように。
魂が凍りつき、砕け散るかと思った。
幸いにもすぐ気配を追えるようになったが、さもなくば今ごろ本性の姿に戻り、世界中を破壊して回っていただろう。
レシェフモートの視界から消えたその数秒で、ガートルードは今までとは比較にならない強大な……女神自身だと言っても通るほどの魔力を備えていた。
なにが起きたのか、レシェフモートすら見当もつかなかった。
すぐさま駆けつけられなかったのは、カイレンがのたうち回ったせいで撹拌され、水分と砂や土が混ざり合い、どろどろになってしまった地下の修復がなかなか終わらなかったせいだ。ガートルードの前世では液状化現象と呼ばれたこの現象は、放置すれば地割れや建物の地盤沈下を引き起こしてしまう。
皇宮が無事なのは、レシェフモートが膨大な魔力にものを言わせ、液状化した地盤を片端から硬化したおかげだ。人間どものためではない。彼らの命すら哀れむガートルードのため、女神の心を安らかにするための神聖なる行いだった。
だが思えば、それもまたカイレンの思惑だったのだろう。
唯一、自分に対抗できるレシェフモートの足を止め、ガートルードを掌中におさめる。そんな薄汚い思惑など知るよしもないガートルードは、あまりに不公平で不条理な条件を呑んでしまった。
「……最初から、元凶以外への報復などどうでも良かったのであろうに」
金の瞳で睨み付けてやれば、返事の代わりに蒼い瞳がゆったりと細められる。
「我が女神のお心を惑わせ、追い詰め、たなごころにおさめるために利用したな?」
「ふ、ふふふふっ……」
「なにがおかしい?」
これみよがしに腹を撫でるカイレンを、今すぐ八つ裂きにしてやりたい。だがそんな真似をすれば、ガートルードにまで危害が及んでしまう。それすらもこの男の策略だと思うと、はらわたが煮えくり返る。
「すべてが、ですよ。欲しいものを手に入れるためなら、なんであれ利用する。あらゆる策を弄する。それが妾たち、魔獣の王という存在ではありませんか」
「……っ……」
「妾は本能に従っただけ。そなたも同じく。なのに今さら咎め立てとは……ふふ、心まで姫御子に染められましたか?」
はあ……と、紅い唇からため息が漏れる。
「妾も早く、姫御子に染められたい。呪いに朽ち果てかけていた我が身を、姫御子が生まれ変わらせてくださったように……」
「……」
「ですがその前に、片付けてしまわなければならないことがある」
小袿の裾を優雅にさばき、カイレンは向き直る。呪術の成れの果て――初代皇帝とブリュンヒルデ皇女に。いや、『だったモノ』と言うべきか。
「お兄様、お兄様、お兄様、お兄様ぁぁぁぁぁん……」
どす黒く変色した四肢をカイレンの魔力に拘束されてもなお、初代皇帝だけを呼び続けるブリュンヒルデ皇女の生首は、魔獣の王たるレシェフモートさえ吐き気を催さずにはいられないモノだった。この世の醜悪さのすべてを集め煮詰めても、これほどおぞましい代物にはなるまい。
(首と四肢……、……胴体は……)
人間には見えない呪術の痕跡も、魔獣の王の目にはくっきりと映し出される。レシェフモートは黄金の瞳をひときわ立派な棺……初代皇帝のそれに留め、唇を嫌悪にゆがめた。カイレンがどのような返しの風を吹かせるか、予想がついてしまったせいで。
どこまでも趣味が悪い、と辟易するレシェフモートはもちろん自覚などない。予想がついてしまう時点で、レシェフモートもまたカイレンと同じ程度には趣味が悪いのだという――。
「愚かな男よ」
カイレンの冷ややかな呼びかけに、ブリュンヒルデと同じく魔力で拘束された初代皇帝は押し黙ったままだった。ことここに至り、もはや逃れられないと観念したようにも見える。
だが、レシェフモートは見逃さなかった。老人のごとき顔に漂う、かすかな希望を。
むろん、カイレンも。
「妾を長きにわたり縛り、苦汁を飲ませた報い。今こそ受けよ」
「……」
グオォォォォォッ!
呪いの竜が哭いた。
吐き出された呼気が呪いの風となり、吹き荒れる。