120・転生ものぐさ皇妃と誰にも奪われないもの
悲しいほど薄い背中に腕を回し、小袖の胸元におでこをくっつけたとたん、ガートルードは寒気に襲われた。沼の王の左胸――人間なら心臓のあるあたりから、本能的に避けたくなる気配が伝わってきたせいで。
まがまがしい、と表現するだけでは生ぬるい。
おぞましい、穢らわしい、おどろおどろしい……ガートルードの知る言葉ではとうてい表現しきれない。それでも敢えてたとえるなら、そう……人の悪意を大釜で煮込み、どろどろのエキスにして邪気と悪魔の血を混ぜ合わせたような。
沼の王のものではない。
ブリュンヒルデ皇女が百年以上かけて熟成させた呪い。人間であれば同じ空間にいるだけでまたたく間に骨まで溶かされてしまうだろうそれが、沼の王の核を覆っている。
こんなものに侵され、命を保てたのは魔獣の王だからだ。低級の魔獣なら今ごろ跡形もなく消滅していた。
(……ひどい。ひどいわ……)
一刻も早く解放してあげたいけれど、よく目を凝らせばブリュンヒルデ皇女の呪いは何本もの黒い糸のようなそれが複雑に絡み合っている。力任せに引きちぎれば沼の王の核も無事では済まないだろう。
どこからどうほどいていけばいいのか。
――落ち着いて、佳那さん。
知らないのに懐かしい声が響いた。
――思い出して。譜面と同じだよ。
ふわふわと、どこかから浮かんでくる記憶のかけら。午後の日差しがやわらかく差し込む音楽室。ピアノの前に座るセーラー服の少女と、その横から譜面台の楽譜を眺める開襟シャツの少年。
『これは#。半音上げる、という意味。だからここのファの音は半音上がって、ここ』
ポーン、と長い指が黒鍵を叩く。
『次のファは♮がついているから、元の音に戻る。そしてミ、レ、ド、シ、ラ』
やってごらん、と促されるがまま、少女は少年の示す鍵盤を叩いていく。少年とはまるで違う初心者丸出しの運指だったが、かなりぎこちなくはあるものの、さっき少年が弾いてくれたのと同じ旋律が紡がれる。
『すごい! 本当に弾けた!』
目をきらきらさせる少女に、少年は微笑んだ……のだと思う。だがその顔は逆光に照らされ、白く塗りつぶされている。
『この曲は初心者向けだからまだ単純だけど、難易度の高い曲になればなるほど譜面も複雑になっていく。でも、基本は同じだよ。音符と記号を読み解いていけばいい』
『それが難しいんだよお……』
『でもそれができるようになれば、君はいつでも好きな時に好きな音楽に触れられる。自分で曲を作ることもできる。そして身につけた知識は、誰にも奪われない。君だけのものだ』
君だけのもの。
誰にも奪われない。
同年代らしからぬ穏やかな物腰に時折ちらつく陰に、少女は共感していたのかもしれない。
彼は、同じだと。
彼は……、……。
(……誰、だっけ?)
ガートルードはぱちぱちと目をしばたたくが、てのひらをすり抜けていった記憶のかけらが戻ってくることはない。
でも、残ったものもある。
複雑に絡み合うモノの読み解き方。
指の……魔力の、動かし方……。
ごくん、と息を呑み、ガートルードは己の魔力を練り上げていった。卵をふんわりと握っているような、手の形に。
そして魔力でできたその手を、そっと、そっと伸ばしていく。ブリュンヒルデ皇女の呪いに覆われた、沼の王の核へ。
一本目。
一番外側に絡みついた呪いの糸をほどく。
『……わたくし、絶対、お兄様の花嫁になるわ。王妃として、共にアダマン王国を輝かせるの』
ギリシャ神話の女神を連想させる古風なドレスをまとい、うっとりと頬を染める金髪に翡翠の瞳の姫君が脳裏に浮かんだ。
この呪いの主――ブリュンヒルデ皇女だ。彼女は兄の初代皇帝がソベリオン帝国を建国するまでは、前身であるアダマン王国の王女だった。
妹が兄を慕うがゆえの、無邪気な発言ではない。
古来、アダマン王国では近親婚が推奨されていた。父と娘、おじと姪、姉と弟、兄と妹……血が近ければ近いほど良いとされていた。
同じ母王妃から生まれたブリュンヒルデ皇女と初代皇帝は、将来、夫婦になるものだと誰もが信じていた。
もちろん、ブリュンヒルデ皇女も。
二本目。
『お兄様!? どこへ行ってしまわれたの、お兄様!』
ブリュンヒルデ皇女が狂乱し、王宮中を駆け回っている。兄が突然姿を消してしまったのだ。数人の供だけを連れて。
残された書き置きには、王位継承権を永遠に放棄すること、二度と王国には戻らないことだけが記されていた。かどわかされたのではなく、自らの意志で出奔したのは明らかだ。
ブリュンヒルデ皇女はわけがわからなかった。
間もなく兄妹は華燭の典を挙げ、晴れて夫婦になるはずだったのだ。まさに幸せの絶頂。兄が王国を捨ててまで出奔する理由などなにひとつないはずなのに。
三本目。
『お兄様! お兄様お兄様お兄様ぁぁぁぁん!』
ブリュンヒルデ皇女は感涙にむせびながら愛しい兄の腕に飛び込んだ。ぼろぼろに汚れた旅装で。
突如現れた大魔法使いが在野の才能を集め、挙兵し、またたく間に一大勢力をまとめ上げ、国と呼ばれるまでに成長させたと噂に聞いた時、兄にちがいないと思った。だから姫の身で王宮を飛び出し、ほうぼうをさすらい、やっと兄のもとまでたどり着いたのだ。
四本目。
『やりましたわね、お兄様ぁぁぁん! これでお兄様は皇帝、わたくしは皇后ですわぁぁぁん!』
自身もまた優れた魔法使いであったブリュンヒルデ皇女は兄の覇道に献身し、あまたの国々を呑み込み、とうとうソベリオン帝国を建国した。ブリュンヒルデ皇女は天にも昇る思いだった。
これでやっと兄の妻になれる。
しかも王妃よりも格上の皇后に。
兄はブリュンヒルデ皇女をこの世の誰よりも尊い妻にするため、帝国を打ち建ててくれたのだ。
五本目。
『お兄様のためなら……、喜んでこの身を捧げますわぁぁぁ……』
沼の王を帝国に富をもたらす装置とするため、地下に生かさず殺さず封じたい。そのための呪具になって欲しい。
愛しい兄の願いを、ブリュンヒルデ皇女は一も二もなく受け入れた。そうすれば兄の一番になれると信じたから。
……兄が打ち建てた帝国では、近親婚は認められていなかった。
いや、近親婚を推奨するアダマン王国の方が稀有だったのだ。兄には建国に貢献した貴族たちがこぞって妃がねを差し出し、妹を皇后にすることに強い拒否感を示していた。
けれど我が身を呪具としてまで貢献すれば、今度こそ兄はブリュンヒルデ皇女を皇后にしてくれるはずだ。
四肢などなくても子は作れる。
兄の子をたくさん産もう。
ブリュンヒルデ皇女と兄の子孫が、富める帝国を受け継いでいくのだ。
(……ああ……)
六本目。七本目。八本目。
呪いの糸をほどくたび流れ込む記憶に、ガートルードは複雑な気持ちにさせられた。
(たぶん初代皇帝は、ブリュンヒルデ皇女を妻にするつもりなんてなかったんだわ。それどころか……)
――まるで、『ブリュンヒルデ皇女を呪具とする』。その手段にこそ、意義があるようだ……と。
モルガンの推察は、正鵠を射ていたのだ。
皇后になれると信じて疑わないブリュンヒルデ皇女を突き放すため、初代皇帝は彼女の四肢を呪具とした。もしかしたら故国を飛び出し、ソベリオン帝国を建国したのすら、ブリュンヒルデ皇女から逃げるためだったのかもしれない。
けれど彼女は追いかけてきた。
どこまでも、どこまでも。
たとえひと思いに殺しても、怨霊と化して取り憑かれてしまうかもしれない。そうなればもはや逃げ場はない。
どうすれば逃げられるのか。
懊悩する初代皇帝に、悪魔はささやいたのではないか。
『やってしまいましょう』――と。




