119・転生ものぐさ皇妃と灰簾石
「貴様っ……」
ガートルードがなにをしようとしているのか、察したのだろう。駆け寄ろうとした初代皇帝の前に、モルガンとジークフリート、そしてヴォルフラムまでもが立ちはだかった。
「我が女王の邪魔はさせません」
「我が貴婦人の剣として、いかなる危機をも斬ってみせよう」
「……私は……」
ヴォルフラムはなにも持たぬ手をぐっと握り、初代皇帝を睨み据えた。
「私だって、この身を盾にすることくらいはできる」
「……小僧が……殺されたいのか?」
「やってみればいい」
ガートルードに向けられた小さな背中が、強い覇気と魔力を放つ。
ガートルードにはわかった。ヴォルフラムが本気で我が身を盾として、ガートルードを守ろうとしてくれていることが。
「フォルトナー卿の次は、その『小僧』の肉体を器にしなければ存在すらできず、妹皇女に怯える変態ジジイにできるものなら」
「この、……!」
いきりたった初代皇帝の魔力が膨れ上がった。だが振り上げた拳から攻撃魔法が放たれる前に、ひゅんっ、となにかが飛んでくる。
金色の、蔦……ではない。
ぎらぎらと翡翠の瞳を光らせるブリュンヒルデ皇女の金髪が一瞬で伸び、初代皇帝の腕をからめとろうとしたのだ。
「お兄様ぁぁぁぁん、どうして、そんな子を構うのぉぉぉん……?」
すんでのところで避けた初代皇帝を、ブリュンヒルデ皇女は四肢をくねくねさせながらなじる。煮詰めて腐らせた糖蜜のような甘さと、毒々しさで。
「わたくしだけを見て、わたくしだけを構ってくださるって、約束、したのにぃぃん……」
「く、……う、……うぅっ」
「お兄様はわたくしだけのもの、なのにぃぃぃぃん!」
ぶんぶんと唸りを上げながら髪を振り乱すブリュンヒルデ皇女はメドゥーサのようだ。前世の神話に登場する蛇髪の化け物。
ぞくりとするガートルードへ、ヴォルフラムが肩越しに視線を投げかけてくる。今のうちに、と唇の動きだけで告げられ、ガートルードはこくんと頷いた。
ブリュンヒルデ皇女が初代皇帝に夢中になっているうちに、なすべきことをなすのだ。
「沼の王」
ガートルードはすっと手を伸ばした。相変わらずブリュンヒルデ皇女の狂乱ぶりになんの反応も示さぬまま、泥の水柱の上でただ静かに立ち尽くす魔獣の王へ。
「わたしは聞いていたわ。貴方の声を。必死に助けを求める、貴方の声を」
帝国の領土を荒らし回り、あまたの民を苦しめ虐殺したゆえ、偉大なる初代皇帝によって討伐された悪辣なる魔獣の王。
それが沼の王だ。ソベリオン帝国の民はもちろん、他国の民もなんの疑いも持たずそう信じているだろう。
でも真実は逆だった。
沼の王は自分の領域で群れを率いていただけだった。そこへ初代皇帝がブリュンヒルデ皇女を伴い、攻め込んできた。沼の王からしてみれば、帝国軍の方が侵略者だ。反撃するのは当然のこと。
結果として沼の王は敗れた。それだけなら自然の摂理だ。沼の王も当然の定めとして、死を受け入れただろう。
けれど初代皇帝が与えたのは死ではなく、ブリュンヒルデ皇女の四肢につながれ、魔沼を生み続けさせられる地獄の日々だった。
終わりなき苦しみのつらさは、ガートルードもよく知っている。
(わたしと、同じ)
なに不自由ない贅沢な暮らしを望んだわけじゃない。ただ毎日学校へ通い、授業を受け、休み時間には友達と笑いながらおしゃべりをして、許されるなら部活なんかもしてみたかった。
それだけ。
……それだけなのに、なにひとつ叶わなかった。
沼の王はもっとひどい。太陽の光すら差さない地底に閉じ込められ、誰とも会えず、話せず、本来の居場所から遠く引き離されて……しまいには核を汚され、名前まで忘れさせられて……。
「かわいそう」
もっと理路整然と説得しようと思っていたのに、ぽろりと漏れたのは紛うことなき本音だった。熱いなにかが喉奥からこみ上げ、小さな身体がふるふると震えだす。
「かわいそう。……貴方は、とても、かわいそうだわ」
まなじりから溢れた涙が白くまるい頬を伝い、ぽたぽたと床に落ちる。泣いている場合じゃないのに、嗚咽が止まらない。
「……、……で」
天女がつま弾く琴のような美声でささやいたのは狼狽したモルガンでもジークフリートでもヴォルフラムでも、もちろん初代皇帝でもない。
「……泣かない、……で」
沼の王。
自我すら奪われたはずの魔獣の王が、ゆっくりと、ゆっくりと手を伸ばす。
「……な、……んでぇぇ? 全部、ぜぇぇんぶ、ぼろぼろにした、はずなのにぃぃん……」
ブリュンヒルデ皇女が初めて戸惑いの色をにじませるが、沼の王は一顧だにしない。黒髪の向こうの瞳は、ガートルードに……泣きじゃくる少女だけに注がれている。
泥の水柱にたたずむ沼の王がどんなに手を伸ばしても、ガートルードには届かない。
だがガートルードが再びしゃくり上げた時、溢れた涙はきらきらと輝きながらまたたく間に作り上げる。沼の王とガートルードをつなぐ階を。
「……泣かないで……」
「っ……や、やめなさぁぁぁい!」
ぎりぎりと食い込むブリュンヒルデ皇女の四肢を絡めたまま、沼の王はするすると階を降りてくる。魚の下肢をわずかに浮かせて。
やがて触れられるほど近くまで沼の王が降りてくると、ガートルードはまた大粒の涙を流した。目の当たりにしてしまった呪術の傷痕が、あまりに痛々しくて。
白くみずみずしかっただろう肌はブリュンヒルデ皇女の四肢が密着したあたりから黒く腐り、ただれていた。小袖から覗く胸元にも無数のうじゃじゃけた傷が刻まれ、ブリュンヒルデ皇女に噛みつかれていた肩口の肉はほとんどえぐり取られてしまっている。
「やめろっつってんだろぉぉがぁぁぁ、このクソがぁぁぁん!」
四肢と共に引き寄せられてきていたブリュンヒルデ皇女が牙をむき出しにして怒鳴り、沼の王の首に噛みつこうとする。
「……駄目ぇっ!」
傷つけさせない。もう二度と、こんな女に沼の王を傷つけさせたりしない!
叫んだガートルードの全身から白い光が放たれ、ブリュンヒルデ皇女の首を弾き飛ばした。ぶわりと吹き抜けた風が沼の王の髪まで巻き上げる。
あらわになったのは、半分以上肉が腐り落ち、白い骨をさらした無惨な顔だった。もとの容貌など想像の余地すらない。
だが奇跡的に無事だった双眸に、ガートルードは惹きつけられた。
わずかに紫がかった、宵空を映した海のような澄んだ蒼い瞳。
ガートルードは前世、学校の図書室で眺めていた鉱石図鑑を思い出した。エメラルドもサファイアもきらきらして素敵だったけれど、一番惹かれたのは不思議な蒼い宝石。ごく限られた地域でしか産出されず、ほんの二十年ほどで採れなくなってしまうため、ダイヤモンドよりも貴重だと言われていた。
タンザナイト。
日本では灰簾石と呼ばれた、稀なる宝石と同じ色彩を持つ魔獣の王。
彼が名前を忘れてしまったというのならば。
「……『カイレン』」
ぴく、と沼の王の頬が震えた。
「『カイレン』。……わたしは貴方をそう呼ぶわ」
カイは海、レンは蓮でもある。
海の瞳を持つ魔獣の王に、海のように広い世界で、泥の中でも清らかに咲き誇る蓮の花のように美しく、たくましく生きて欲しい。
懐かしい故郷の言葉に、この世界では自分にしかわからない願いを込めて。
なんのためらいもなく、ガートルードは沼の王の胸に飛び込んだ。




