番外編1・夢の後に待つ現実(フローラ視点)
少しですが汚物の表現があります。
フローラの人生は生まれた時から栄華に彩られていた。
女神シルヴァーナの血を受け継ぐシルヴァーナ王国の王族、それも直系女子に生まれた。一番上の姉クローディアの気高さも、二番目の姉ドローレスの凛々しさも、三番目の姉エメラインの聡明さも持ち合わせなかったが、姉妹の中でもずば抜けて華やかな美貌に恵まれた。
家族は末娘のフローラをことのほか可愛がってくれたし、令息たちはちょっと微笑んでやればすぐに落ち、フローラの下僕になった。
一点の曇りもなかったはずの人生にかげりが生じたのは、妹の第五王女ガートルードが生まれた時だ。
フローラよりさらに幼く、美貌をうたわれた祖母にそっくりだというガートルードに家族はたちまち夢中になった。今までフローラが独占していた両親の愛情も関心も、すべてガートルードがさらっていってしまう。
だからフローラはガートルードが嫌いだった――いや、妬んでいたのだと今ならわかる。だって今、フローラの心を占めるのはしてやった満足感でも、母になる幸福でもない。
虚しさと後悔だけだ。
「ガートルード姫様は先ほど出立なさいました。別れを惜しむ貴族たちが押し寄せ、それは賑々しくも華やかな門出でしたわ」
フローラの部屋に入ってくるなり、中年の侍女はほうっとため息をつきながら報告した。そんなこと聞いてもいないし、さっきから何度呼んでも来なかった詫びがないのはどういうことだ。
「……ふうん。これでやっと静かになるわね」
フローラはほんの少しふくらんできた腹をさすり、ベッドの上で寝返りを打った。それだけでさっきからまとわりついているめまいと吐き気が強くなる。
まるでずっと馬車に揺られているかのようだ。この何とも言えない気持ち悪さをどうにかして欲しくて、枕元のベルを鳴らし続けていたのに。ガートルードの見送りに加わっていたなんて!
「左様でございますね」
侍女の声がかすかにざらついた。
「ガートルード姫様がいらっしゃらない王宮は、月のない夜のようなもの。みなが沈み込んでしまうことでしょう」
「……、ガートルードのことはどうでもいいわ。それより香草茶を淹れて、治癒師長も呼んでちょうだい。さっきからずっと気持ち悪くてたまらないの」
フローラがお願いすれば、今までの侍女はすぐにフローラの願いを叶えるべく行動してくれた。フローラの宮に仕える侍女はみな美しい王女を慕う若い貴族令嬢……つまりフローラの取り巻きばかりだったから。
だが妊娠が判明し、ガートルードがフローラの身代わりで帝国へ差し出されることが決まってすぐ、フローラは姉女王の宮殿へ移された。
腹心の侍女たちは実家に返され、代わりに付けられたのが姉女王に仕えるこの中年の侍女だ。
「香草茶はすぐご用意いたしますが、治癒師長様はお招きしかねます」
「なんで?」
「フローラ殿下を苦しめているのは悪阻でございます。病気ではない症状を治癒の魔術で癒すことはできませぬゆえ、お呼びしても無駄でございましょう」
姉女王に長く仕え、出産経験もある侍女はこともなげに言い放ち、手早く香草茶を淹れてくれた。さわやかな香りは一瞬気持ち悪さを打ち消してくれるが、すぐにまた吐き気が襲ってくる。
「ううっ……」
「殿下、こちらを」
口元を押さえたフローラに、侍女はさっと銀の深皿を差し出した。
羞恥を覚える余裕があったのは数秒。フローラは何度も背中を震わせ、胃の中のものを深皿に吐き出す。
「こちらでお口をお拭きください」
侍女は濡らした布をフローラに渡し、深皿を処分していく。淡々とした態度に嫌悪は感じられない。下働きのメイドを呼ばないのも、フローラへの配慮だろう。
けれどフローラは羞恥と屈辱に震えずにはいられなかった。社交界の華とうたわれたこの自分が、人前で吐き戻すなんて。
「……もう嫌よ!」
フローラは濡れた布を壁に叩きつけた。
「どうしてわたくしがこんなに苦しまなければならないの!? わたくしは誉れ高きシルヴァーナの直系王女なのに!」
こんなはずではなかった。
フローラの一生は栄華に包まれているはずだった。
姉たちほどの重責は負わず、周囲の崇拝と賛美を受け、いずれは信奉者の中で最も地位の高い令息に望まれて輿入れする。
誰もが最高の貴婦人たるフローラに憧れ、崇めたてまつる。
そのはずだったのに。
ソベリオンの皇帝が身勝手な申し出をしてきたせいで……ガートルードがよけいな真似をしたせいで……!
「……そのお言葉は、ガートルード姫様こそおっしゃりたかったでしょう」
床に落ちた布を拾う侍女がつぶやいた。その声の冷たさに、沸騰しかけていたフローラの頭は一瞬で鎮まる。
「誉れ高きシルヴァーナの直系王女なのに、どうして帝国へやられなければならないのか。苦しまなければならないのかと」
「え、あ……」
「けれどガートルード姫様は帝国の馬車に乗り込まれる最後の瞬間まで弱音を吐かれず、女王陛下をいたわってさえおいででした。その気高きお姿こそ王女にふさわしいと、誰もが感服したのですよ。帝国のフォルトナー卿など、姫様に剣を捧げられたくらいです」
「……フォルトナー卿ですって!?」
フォルトナー卿……リュディガー・フォルトナーといえば皇帝アンドレアスの親族であり、順位は低いものの帝位継承権を有し、何よりその卓越した剣の技量と帝国人らしからぬ華やかな美貌で近隣諸国に鳴り響く有名人だ。
むろんフローラも知っている。野蛮な帝国人でも彼なら取り巻きの一人くらいにしてあげてもいいわ、と思っていた。アンドレアスからあんな申し出があるまでは。
(フォルトナー卿があの子に……ガートルードに剣を捧げた?)
どんな美姫に言い寄られても見向きもしなかったという男が、なぜガートルードなんかに?
「ガートルード姫様は聖ブリュンヒルデ勲章を与えられたお方。アンドレアス陛下は信頼篤きフォルトナー卿をお迎えに差し向け、敬意と謝意を示されたのでしょう」
「……、わたくしは……」
馬鹿なことなど企まず、あのまま帝国へ差し出されていれば、リュディガーに剣を捧げられていたのは自分だったのかもしれない。
すがるように妄想するフローラを、中年の侍女は冷ややかに見つめる。
「貴方は生まれ育った故郷で療養し、具合が悪くなれば馴染んだ治癒師長に診てもらい、家族に会うこともできる。……ですがガートルード姫様はそのすべてが叶いません」
「っ……」
「二度と帰れないのは哀れだからと、姫様は侍女の一人もお連れにはならなかった。姫様の周りにいるのは帝国の人間だけです。どんなに望んでも、二度と女王陛下や姉王女がたには会えないでしょう。……そのことの意味を、今少しお考え頂きたく存じます」
侍女は一礼し、出ていった。部屋に残されたのはフローラだけだ。
(どうして、こんなことになってしまったのだろう)
念願叶って、帝国へは行かなくてよくなった。憎らしいガートルードはいなくなった。
なのにちっとも嬉しくないのは、みなが冷たいから? 腹の子を産んだらすぐ、修道院へ入れられてしまうから?
じわりとあふれてきた涙を拭おうとしたとたん、また吐き気がこみ上げてくる。侍女が枕元に置いていってくれた香草茶を飲めば、どうにかこらえられた。
この香草茶は姉女王が二人の子を産む時、悪阻がつらい時期に愛飲していたものだそうだ。これほどのことをやらかしても、姉はフローラを見捨てない。
修道院へ送るのは、罰と同時に今や王国中の侮蔑の的となったフローラを守るためでもあるのだろう。
フローラは身内の情けに生かされている。
でも、ガートルードは。
フローラがこうして安穏と身を休めていられるのは、あの子が身代わりとなり、皇帝の怒りを鎮めてくれたからなのに。
波のように寄せては引く吐き気をこらえ、フローラは腕を持ち上げる。わずかな間に肉は落ち、みずみずしかった肌は荒れてくすんでしまった。
自慢の長い銀髪はぱさぱさだ。お腹の子が栄養を吸い取っているのだろう。
『悪阻がつらい? ですが子を産むというのは、そういうことですよ』
あまりのつらさに泣くフローラを、姉女王は困ったように見つめていた。
『貴方は承知の上で、子を授かったのではないのですか?』
そんなわけがない。子どもなんて十月十日経てば腹からするりと出てくるものだと思っていた。
その間お腹が大きくなって可愛いドレスが着られなくなるのは嫌だけど、帝国へ行かなくて済むなら我慢しよう。考えていたのはそれくらいだ。
フローラから生まれるならきっと女の子だから、姉女王にも大切にしてもらえるはずだと。
お腹に子がいるだけでこんなにつらいなんて、誰も教えてくれなかった。
でもこの苦しみこそ、フローラにくだされた本当の罰だ。
「……ごめんなさい……」
知らない大人だらけの馬車に揺られ、泣いているだろう幼い妹を思い浮かべ、フローラは懺悔した。
数ヶ月後、フローラは玉のような男児を出産し、間もなく修道院に入った。
王位継承とは縁がなさそうなこの男児が、遠からずシルヴァーナ王家に波乱をもたらすことになる。