110・転生ものぐさ皇妃は下僕の戦いを見守る
「さて、痴れ者。我が女王のご命令です。その卑賤なる魂を、我が女王の輝かしく無垢な光に照らして頂ける僥倖を噛み締めなさい」
初代皇帝に向き直るモルガンは丸腰で、貴族男性としては鍛えられてはいるが、リュディガーに比べれば細身である。鎧のたぐいは一切身につけていない。前世のゲーム風に言うなら、紙装甲の魔法使いを前線に出して戦わせるようなものだ。
「……黙って聞いておれば、わけのわからぬことばかりほざきおって……」
怒りの魔力を放つ初代皇帝の手は、もはや震えてはいない。だがガートルードは信じていた。リュディガーはまだ完全に支配されてしまったわけではない。初代皇帝にあらがっているはずだと。
「さ、……皇妃殿下、なにをお考えなのですか?」
ヴォルフラムが小さな声で問いかけてくる。
ガートルードはその耳に唇を寄せ、ささやいた。初代皇帝には間違っても聞こえないように。
「もちろん、フォルトナー卿を助けることです。ついでに初代皇帝をめっためたのぎったぎたにすることも考えています」
あんなクズのような男とはいえ、仮にもヴォルフラムの祖先である。さっきはモルガンに爪先への口づけを許すところまで見られてしまった。ドン引きされても仕方ないと覚悟していたのだが、予想に反し、ヴォルフラムはくすりと笑う。
「君らしい」
「え……?」
ガートルードらしいとは、どういうことだろう。それに『君』? さっきから……『不朽の唐樋』を開けた時から、ヴォルフラムは少しおかしい。緑色の眼をした怪物のような空気はなりを潜めたけれど……。
「ではブラックモア卿にあんな命令をしたのは、そのためなのですね」
「は、はい」
いつものヴォルフラムに戻ったことに安堵したガートルードがそっと目を向けた先では、初代皇帝がモルガンに肉薄するところだった。尋常ではない速さは、身体強化魔法を用いたのだろう。
グオンッ!
身体強化魔法を乗せた斬撃はモルガンの肩をかすめたが、捉えることはできなかった。モルガンがまとった風の結界に受け流されて。
(すごいわ……)
先日の御前試合はもちろん、帝国への輿入れの道中でも、リュディガーの規格外の強さは見せてもらった。
上級魔法と剣術を同等に使いこなすリュディガーは、間違いなく帝国一の騎士だ。ジークフリートという、魔法すら歯牙にもかけない超人的な身体能力の主でもなければ互角にやり合うのは難しいだろう。
対してモルガンはそもそも戦闘が生業ではない。彼の本来の武器はその知能と、鋭い舌鋒だ。シルヴァーナ貴族は優れた魔法使いが多いけれど、騎士団に所属しない貴族が戦場に立つ機会は、通過儀礼の魔獣討伐が最初で最後になる。
ブラックモア侯爵家唯一の嫡男として生まれたモルガンも、こんなことにならなければ一生、自ら戦うことなどなかったはずだ。
そのモルガンが、強化魔法を使った初代皇帝に一方的に打ちのめされず、攻撃をかわし続けている。合間に放つ風の刃はすべて弾かれてしまっているが、初代皇帝の攻撃から逃れ続けているだけでも偉業だ。
「でも、どうして初代皇帝は身体強化魔法しか使わないのかしら?」
リュディガーは全属性魔法に適性があり、しかもすべての属性の上級魔法を発動させられるという反則級の魔法使いである。
ガートルードも輿入れの道中、そのすさまじいまでの威力を目にした。剣と攻撃魔法で同時に攻め立てられれば、モルガンとてひとたまりもないだろうに。
「場所と、私たちへの配慮でしょうね」
ヴォルフラムが冷静に分析した。
「この狭く密閉された空間で炎系の魔法を使えば、生かしておかねばならない私たちまで巻き込みかねない。水魔法は上級魔法でもなければブラックモア卿には通用しないでしょうが、上級魔法を展開すればこの場が水没しかねない。地下が不安定な今、大規模な土魔法は言語道断」
「なるほど……」
モルガンも行使している風魔法なら比較的危険は少なくても、モルガンを圧倒するにはやはり上級魔法をくり出すしかない。上級魔法の行使には膨大な魔力と精神力を消費する。
初代皇帝もまた優れた魔法使いだったそうだが、乗っ取ったばかりの肉体で上級魔法を放ちながら戦うには分が悪すぎると判断したのだろう。
(……たぶん初代皇帝がそう判断するって予想した上で、モルガンは立ち回っているのよね)
モルガンが時折放つ風の刃は、魔法の心得のないガートルードから見てもさほど威力はない。あれは初代皇帝の攻撃速度を鈍らせるための牽制だ……と思う。
モルガンの魔力の多くは風の結界に――防御に費やされている。風をまとい、右へ左へ、ひらりひらりと逃げ回る姿は優雅ですらあるが。
「そんなざまで、私を屈服させられると思うのか?」
初代皇帝がくり出した横薙ぎの一撃を、モルガンは大きく右に跳んでかわす。見事な動きだが、初代皇帝の言う通りだ。回避してばかりでは屈服などさせられない。
「ええ、……もちろん」
モルガンは不敵に唇をつり上げ、無数の風の刃を魔力で作り上げる。また牽制だと、初代皇帝は……きっとヴォルフラムも思っただろう。
ガートルードだけは気づいた。モルガンを追ってきた初代皇帝が、さっきモルガンが視線を送っていた壁を背にしていることに。
ならば、放たれた風の刃は牽制であるはずがなく。また牽制かと溜め息すらついて避けただけの初代皇帝の判断が、適切であるわけもなく。
「――助かった、ブラックモア卿」
風の刃によって亀裂の入った壁が外側から粉砕され、大剣を構えた偉丈夫が飛び込んできた。予想外の人物の登場に初代皇帝はもちろん、ガートルードとヴォルフラムと一緒に目を見張る。
「ブライトクロイツ卿!?」
オパールの左目をつかの間細め、ジークフリートは背後から初代皇帝に斬りかかった。想定外の強襲にも初代皇帝は、いやリュディガーの身体は機敏に反応し、振り返りざま剣でジークフリートの大剣を受け止める。
その行動をこそ、モルガンが待っていたとも知らずに。
初代皇帝の視界の外に逃れた瞬間、モルガンは太ももにくくりつけられていた鞭を取り外した。黒絹の礼装の長い裾に隠されていたそれはモルガンの手に振るわれるや、意志ある生き物のごとくしなり、剣を握る初代皇帝の腕に伸びていく。
「っ……!?」
音もなく絡みついた鞭に驚いた初代皇帝がとっさに振り払おうとするよりも、モルガンの流した魔力が電撃と化し、鞭を伝う方が早かった。
雷は風に比べれば適性を持つ者は少なく、希少とされる。敢えて風の刃のみを放ち続けたモルガンの初めての『攻撃』は初代皇帝の意表を突き、その腕を痺れさせ。
……ガキンッ!
身体強化魔法の切れた腕は力を失い、ジークフリートに押し負けた。へし折られた剣の刀身が宙を舞い、残された柄も初代皇帝の手から落ちる。
「リュー、……少し痛いぞ」
ジークフリートは初代皇帝の腹に拳を叩き込んだ。
普通の人間なら数メートルは吹き飛ばされかねない打撃を、どうにか踏ん張って堪えたのはさすがだ。
しかし。
「うっ……、あぁぁぁっ!」
そこへモルガンが絡まったままの鞭に再び電撃を流し、初代皇帝は絶叫する。身体の中を巡る電流は、身体強化魔法でも防ぎようがない。
たまらず膝を折った初代皇帝の首に、ジークフリートが大剣の切っ先を突きつけた。
リュディガーの反則ぶりは、書籍の書き下ろしエピソードにて語られています。お楽しみに!