98・殴ってやりたい(第三者視点)
「初代皇帝がなんのために妹皇女を使ってまで、沼の王を地下に封じたのかはわからぬ。……想像はつくが」
レシェフモートはそう言うが、ヴォルフラムは想像などできなかった。いや、したくなかった。あれはどんな崇高な理念があろうと許されない所業だ。
予想はついたはずだ。王と呼ばれるほどの強力な魔獣を滅さず封印などすれば、いずれこんな事態に陥ることは。
その上で行ったのなら――初代皇帝は偉人などではない。ただの殺戮者だ。
「では……やはり、初代皇帝陛下がここに皇宮を建てられたのは……」
ヘルマンが青ざめる。彼もまた初代皇帝の血を引き、そのことを栄誉と思い生きてきたはずだ。幼いからこそ、突きつけられた事実は重くのしかかる。
「ブリュンヒルデ皇女によって封じた沼の王の、重石として……だろうな」
同じく初代皇帝の血を引き、同じ色彩も受け継ぎ、ヘルマンよりも帝位継承権の高いリュディガーが応じたことで、場の空気は凍りつく。
初代皇帝の末裔さえ知らなかった真実を、どうしてレシェフモートが知り得たのかはわからない。『北の王』――その呼び名に大きく関わっているのだろうけれど。
だが、なぜ知っていながらこんなことになるまで黙っていたのか。それはもはや考えるまでもない。
帝国の暗部にガートルードを関わらせないためだ。初代皇帝の真実を知ってしまえば、騒動が起きた時、彼女は否応なしに巻き添えにされる。形ばかりの妃にされた彼女の心によけいな負担をかけたくない、というのも大きかっただろうが。
いざ騒動が起きたなら、ガートルードだけを連れて逃げる。帝国などどうなっても構わない。むしろ帝国が混迷を極めてくれればいい。自国にも戻れないガートルードはレシェフモートにすがるしかないのだから。
大切に、大切に。
蜘蛛の意図で包み込んで。からめとって。
レシェフモートがいなければ身動きはおろか、呼吸すらできなくなるまで依存させる。
そのつもりだったにちがいない。
こんな事態に陥ってもなおガートルードを連れ去らないのは、彼女がそう望んだからだ。そのおかげでヴォルフラムは『不朽の屍櫃』を開けられるのだから、彼女には感謝と、巻き込んでしまった申し訳なさしかないが。
(この男は……)
悠然とたたずむレシェフモートの姿を見つめていると、ありとあらゆる負の感情が沸き起こる。
超アンドレアスが皇帝廟へガートルードを伴った時、レシェフモートも当然同行しただろう。その時点でレシェフモートはある程度予想がついたはずだ。超アンドレアスがなぜこのタイミングで、ガートルードに皇后すら存在を知らなかった『不朽の屍櫃』の暗号を託したのか。
――近いうちに『もう一人』が己の肉体を死なせ、新たな肉体に移るつもりだと悟ったからだ。
『もう一人』が己の肉体を死なせることで帝国が未曾有の混乱に陥ると、超アンドレアスは把握していた。だからこそ『ヴォルフラムと、これからの帝国に役立つもの』を『不朽の屍櫃』に隠したのだろう。『もう一人』の目を欺くために。
レシェフモートは超アンドレアス以上に正確に理解していた。超アンドレアスの死によってもたらされる混乱を。
その上で――リスクは承知の上でガートルードを関わらせた。彼女に不埒な思いを寄せる者たちが生まれながらに背負う闇と罪を、彼女の目の前で暴くために。
(……この男、は……!)
誰かを殴ってやりたいと思ったのは、前世から数えても初めてだった。今のヴォルフラムが襲いかかったところで、指先で弾き飛ばされておしまいだろうが。
「……、じゃあ、今も皇宮の地下では、沼の王が生きているということ……? ブリュンヒルデ皇女の四肢に拘束されて……」
ぶるりと震えるガートルードは、思い出してしまったのだろう。あのおぞましい光景を。
「『お兄様』……って、あの四肢の主は……ブリュンヒルデ皇女は、何度も言っていたわ。皇女は兄、初代皇帝のために、あんな姿になってまで……」
かすれる声に混じる哀れみが、ヴォルフラムの荒れ狂っていた心をなだめていく。
自分が一番苦しめられてさえ、ガートルードは元凶とも言える存在を思いやれる。その強さと高潔さにこそ惹かれたのは、ヴォルフラムだけではない。この場にいる全員だ。
「……だから私は、貴方に穢らわしい真実など教えたくはなかったのです」
レシェフモートが金色の双眸を切なく細める。その奥に宿る狂おしい光が、前世の留学先で見上げた三日月を思い出させる。
かの国で、月は神聖なものではなかった。人を惑わし狂わせる禍の象徴だった。
「貴方は我が女神。我が唯一絶対のお方。いかなる危機とも穢れとも無縁でなければならない貴方が、人間どもの身勝手な欲望の成れの果てにわずらわされるなど、許すわけにはいかなかった」
「レシェ……」
「私ならなにも知らせないまま、完璧に貴方をお守りできると思っていました。ですがその思い上がりが、貴方を危機にさらしてしまった。……私は、罰されなければなりません」
ガートルードがふるふると首を振り、レシェフモートの頬に手を伸ばす。
「貴方を罰することなんて、わたしにはできないわ。貴方はわたしを守ろうとしてくれたのに」
「我が女神……」
「でも、約束して欲しいの。たとえわたしのためであっても、これからは嘘をつかないって。……わたしは、わたしを守ろうとしてくれる人が、わたしの知らないところでつらい思いをするのが一番苦しいから」
「……我が、女神……」
感動に打ち震えながら、レシェフモートがガートルードの小さなてのひらに頬を擦り寄せる。
幼くも気高く美しい少女と、人ならざる美貌の男。背徳的でありながら惹きつけられずにいられない光景に、ヴォルフラムは必死に拳を握り締める。
(今はまだ、駄目だ)
その男は神使どころか君を喰らい尽くそうとする悪魔だと、どんなに叫んだって彼女には届かない。絡みつく蜘蛛の糸も脚も引き剥がせない。
もっと強くならなければ。
弱者の言葉など、誰にも聞いてはもらえないのだから。
「……沼の王が今になってブリュンヒルデ皇女の拘束を振りほどいたのは、たぶん、わたしのせいだわ」
レシェフモートの頬を撫でながら、ガートルードは眉を寄せた。
「沼の王は、わたしを目指して這い上がっている。ブリュンヒルデ皇女は沼の王を逃すまいと必死に絡みついている。二人の衝突が地震と魔沼を生み出し……たくさんの人たちが……」
「違います、我が淑女。貴方のせいではありません」
リュディガーが厳しい表情で首を振った。
「もとはと言えば、我らの祖が元凶なのです。貴方は不運にも巻き込まれてしまっただけ」
「……果たして、そうでしょうか?」
思案げにつぶやいたのはモルガンだった。指先で顎をなぞりながら、記憶を探っているようだ。
「ここまでの情報を整理すると、まず一連の魔沼や地震を発生させていたのは皇宮の地下に『敢えて』封じられた魔獣の王、すなわち沼の王だった。沼の王はブリュンヒルデ皇女の四肢を呪具として封じられている。ここまではいいでしょうか?」
順繰りに視線を投げかけられ、ヴォルフラムも他の全員も頷いた。これはもう揺らぎようのない事実だ。誰も異存はあるまい。
「ブリュンヒルデ皇女は『お兄様』のため、沼の王を封じるための呪具となった。ブリュンヒルデ皇女の『お兄様』は一人しか存在しません。初代皇帝アンドレアス陛下です」
これにも全員が頷く。