97・蜘蛛の意図(第三者視点)
「ヴォルフラム殿下……?」
ガートルードがレシェフモートの腕の中できょとんと目を丸くした。
きっと考えたこともないのだろう。忠誠を尽くす神使が、自分を偽るなんて。
「……なぜ、私がアレを知っていたと?」
レシェフモートが問い返した時点で、自分は正鵠を射たのだと確信した。間違っていれば良くて黙殺、悪ければ殺されていたはずだから。
「『北の王』」
「……」
「あ……!」
ヴォルフラムが告げた言葉にレシェフモートはかすかに唇を震わせ、ガートルードがはっとする。彼女もなにか心当たりがあるらしい。
リュディガーやモルガンたちはもの問いたげではあるものの、沈黙を保っている。それぞれ立場は違えど、これから始まる問答がこの状況に大きく関わってくると察しているらしい。
「皇妃殿下のお身体に触れた時、聞こえたのです。神使様が『地下のアレ』と呼ばれる者の声が。あの者が『邪魔をするな』と警告していた『北の王』は、貴方なのでしょう?」
「……」
「もう一人、女性の声も聞こえました。内容から察するに、その女性があの者を地下に留めようとし、あの者は女性の支配から必死に逃れようとしているようでした。その証拠に……」
ヴォルフラムはいったん言葉を切り、呼吸を整えた。垣間見ただけでも記憶に焼きつき、忘れられなくなるあのおぞましい光景。ずっと見せられ続けていたガートルードが哀れでならない。
「……全身を、女性の四肢にからめとられ、もがく男の姿も見えました」
「っ……、ヴォルフラム殿下も、見たのですか!?」
ガートルードが驚愕をあらわにする。自分以外に見える者がいるとは思わなかったのだろう。
ヴォルフラムは頷いた。
「もがく男は女性から逃れるため、地下から這い上がり、皇妃殿下に助けを求めようとしている。そして女性はなんとしてでも男を阻止しようとしている。『お兄様』のために」
『駄目よ、逃がさない』
『逃がさない逃がさナい逃ガさナイ』
『お兄様の、ために!』
「今、皇宮に起きている一連の異常現象……やまない地震、魔沼と魔獣の発生……これらはあの者と女性のせめぎ合いにより引き起こされたのではありませんか?」
「レシェ……」
ガートルードがレシェフモートの胸元をきゅっと握る。困惑ににじむ悲しみが痛々しかった。彼女は覚悟しているのだ。神使の偽りを。
「神使様はそれをご存知だった。その上で皇妃殿下を謀られた。だからあの者を必死に止めていらしたのではありませんか? ……皇妃殿下に対する、罪滅ぼしも兼ねて」
「ヴォルフラム殿下!」
ぐい、とリュディガーがヴォルフラムを片腕で引き寄せた。
リュディガーに見えたものは、ヴォルフラムには見えない。おそらく他の誰も。
だが、なにが起きたのかはわかる。ついさっきまでヴォルフラムが立っていた位置の床が抉れていたから。
狼蜘蛛の姿を思い出し、ぞくりと背筋が寒くなる。あの四対の蜘蛛脚。あれがヴォルフラムにくり出されたにちがいない。リュディガーが引き寄せてくれなかったら、ヴォルフラムは今ごろ死んでいた。
「レシェ、なんてことを!」
血相を変えたガートルードが悲鳴を上げるが、ヴォルフラムは恐怖よりも歓喜と手応えを感じた。
ガートルードの前でさえ手を出さずにはいられなかった。それほどまでにレシェフモートを追い詰めたということは、自分の考えは限りなく真実に近いということだから。
「……誓って、我が女神を謀ったわけではない」
重い口を開いたレシェフモートの全身から魔力が立ちのぼり、煙のようにたなびき、蜘蛛の八本の脚をかたどっては揺らぐ。
「私は我が女神をありとあらゆる危難から遠ざけ、守り、愛と快楽だけを捧げ、奉仕する存在。ゆえにその存在意義に従って行動しただけのこと」
「……地下のあの者と女性について偽ることが、皇妃殿下の安全につながるとおっしゃるのですか?」
無意識に帯びた糾弾の気配を、レシェフモートは察知したらしい。
「異なことを」
蠱惑的な唇が皮肉にゆがめられる。
かさかさ、かさかさ。
全身を這い回る無数の蜘蛛の足音を、ヴォルフラムは聞いた。冷や汗が背筋を伝い落ちる。
追い詰めたと思っていた。
だが……追い詰められていた?
「最初に偽ったのは貴様らではないか。正確には、貴様らの祖先だが」
「祖先……?」
レシェフモートの金色の目が、ヴォルフラムとリュディガーに向けられる。
二人の共通の祖先と言えば。
「偉大なる建国帝、初代皇帝アンドレアス」
ヴォルフラムより先に、レシェフモートが答えを告げた。また幻覚の蜘蛛がぞろぞろと全身をうごめく。
「貴様らが誇るその男は、かつてこの地を荒らし回っていた魔獣の王を討伐した。妹のブリュンヒルデ皇女の四肢と引き換えに……だったか。笑わせてくれる」
蜘蛛が。
あぎとを開き。
「初代皇帝は魔獣の王を討伐しなかった。それが可能だったにもかかわらず地下に封印し、ブリュンヒルデ皇女の四肢を呪具と化して縛りつけた」
がぶり、と咬みついた。
「――――!?」
蜘蛛のひと咬みはヴォルフラムのみならず、居合わせた全員に……ガートルードにまでも衝撃をもたらした。
それもそのはず。
魔獣の王を討ち、苦しめられていた民を救った初代皇帝アンドレアス。そのために四肢を犠牲にした妹ブリュンヒルデ皇女。
尊い偉業を成した二人の兄妹は帝国の民にとって尊崇の的であり、皇族にとっては統治と支配の拠り所だった。偉大なる建国帝の血を引く直系。その事実が代々の皇帝に正統性を与えていた。
だがレシェフモートの言葉が真実なら、すべてはくつがえされてしまう。
ぎりぎりのところで力及ばず、ブリュンヒルデ皇女の四肢を用い魔獣の王を封印せざるを得なかった。無用の混乱を避けるため、公には討伐したと発表した。
それなら、まだ良かった。すべては民のためだと言い繕える。初代皇帝の偉業とブリュンヒルデ皇女の犠牲は称えられる。
けれど討伐可能だったにもかかわらず、敢えて地下に封じたのなら、状況はまるで変わってくる。
なぜなら今、ヴォルフラムたちが直面している危機は。
「『沼の王』……」
つぶやいたのはモルガンだった。ガートルードの姉、第三王女エメラインが破邪魔法と魔獣研究の第一人者である影響により、シルヴァーナ王国貴族には魔獣の知識が豊富な者が多い。
「かつて初代皇帝とブリュンヒルデ皇女によって討伐されたと伝わる魔獣の王は、沼の王と呼ばれていたのでしたね。……魔獣の王につけられる二つ名は、地名でなければその王の性質を表すことが多いのです」
「沼……」
思案げに眉をひそめるリュディガーだけではない。誰もが頭の中で結びつけたはずだ。
皇宮のいたるところで湧いた魔沼。
……魔の王と、魔獣を生み出す、沼。
「……では、初代皇帝アンドレアス陛下は敢えて魔獣の王を……沼の王を地下に押し込め、ブリュンヒルデ皇女の四肢で封印したと……今の状況はすべて我らが祖先の行いが招いたと……?」
(なんのために、そんなことを!)
強烈な怒りと嫌悪が、ヴォルフラムの全身を震わせる。
次々と頭の中にフラッシュバックするのは、ここにたどり着くまでに目撃してきたむごたらしい光景だ。魔獣どもに生きながら貪り喰われた人々。身分も年齢も性別も関係なく降り注いだ死の驟雨。
あの光景を作り出したのが初代皇帝アンドレアス――ヴォルフラムの祖先かもしれない。その事実に吐き気を覚える。
(……『かもしれない』? なにを今さら)
この期に及んで保身に走ろうとする自分のなんと愚かしいことか。
どうあがいても逃げられないというのに。
全身を這い回る蜘蛛からも……妖しく光る金色の瞳からも。