11・転生ものぐさ王女、異形の獣に甘く侍られる
「フォルトナー卿」
ガートルードに眼差しを向けられ、リュディガーは反射的にひざまずき、こうべを垂れた。エルマや他の騎士たちも倣う。
「心配をかけてしまい、申し訳ありませんでした。わたしはこの通り無事です。怪我もしておりません」
「は……、それは重畳、ですが……、その、そちらのお方は……」
白銀の光はすでに収まっていたが、青年の発する猛々しいまでの覇気に圧され、うまく言葉を紡げない。
何度も腰の剣に手をかけようとしては引っ込める。
神の色をまとっていても、あの青年は危険な存在だと……斬るべきだとリュディガーの本能が警告していた。戦場で何度も命を救われたそれに、いつもなら迷わず従う。
今日に限ってできないのは、必殺の間合いで仕掛けようとあの青年を倒せるとは思えないからだ。
あの青年が誰かの手にかかり、命を落とす光景が視えない。視えるのは無数の屍ばかり。
「この方はレシェフモート。……女神シルヴァーナ様がわたしに遣わしてくださった御遣いです」
「女神の遣い……神使だとおっしゃるのですか?」
ガートルードは頷き、レシェフモートを見上げた。通じ合った者同士にしか流れない空気に、かすかな嫉妬を覚えたのはつかの間。
レシェフモートの長身はゆがみ、みるまに変化する。狼の胴体に蜘蛛の脚の巨大な獣――ガートルードを連れ去った異形へ。
「案ずるな」
嘲笑を含んだ声は、低く甘い人間の男のものだった。一瞬でさっきの青年の姿に戻ったレシェフモートが、人間たちを面白そうに見回す。
エルマや配下の騎士たちはその場にくずおれ、小刻みに震えていた。レシェフモートの発する尋常ではない魔力に気圧されたのだろう。
リュディガーが踏みとどまったのはほとんど意地だ。ガートルードに剣を捧げた自分が、ぶざまな姿をさらすわけにはいかない。この青年の前では、絶対に。
「私は我が女神ガートルード様にのみお仕えする者。我が女神のご命令なき限り、塵芥のごとき人の子に手を出すつもりはない」
「ちょっとレシェ、言い方!」
焦ったようにレシェフモートの袖を引っ張るガートルードは、年相応の少女に見えた。出逢って間もないのにそれだけの信頼を築いたというのか。
「こほんっ……、レシェフモートは他国へ旅立つわたしのため、女神シルヴァーナ様が遣わしてくださったのです」
「……女神がそう、おっしゃったのですか?」
ガートルードはあいまいに微笑んだ。神の言葉はすなわち神託だ。軽々しく明かせるものではないということだろう。
(……では姫君は神域に招かれ、神託をたまわった上、神使まで与えられたということか)
冷や汗がリュディガーの背中を伝った。
女神の血を与えられたシルヴァーナ王族直系でも、これほど女神の寵愛を受けた王女はいまい。
その王女を、帝国は故郷から連れ去るのだ。皇子の身体を瘴気から守らせる、それだけのために飼い殺しにする。
罪深い帝国に、いつか女神は神罰を下すのでは……。
「これからわたしの世話や警護は、このレシェが引き受けます。帝国から人を出して頂くには及びません」
「なっ……!? ですが……」
レシェフモートは男だ。幼くとも淑女たるガートルードの身の回りの世話などさせられるわけがない。それに帝国貴族のリュディガーとしては、ガートルードの周囲を帝国人で囲み、帝国に依存させたい腹積もりもある。
「人間ふぜいが、神の裁定に難癖をつけるか?」
「……っ」
金色の眼差しに射られ、リュディガーは反論を呑み込んだ。
そうだ、神に人間の理論など通用するわけがない。人間が地べたを這いずる虫の安否などいちいち気にかけないのと同じだ。
「フォルトナー卿は一刻も早くわたしを帝国へ連れて行きたいのでしょう? レシェがいれば周囲を警戒する必要も、わたしを気遣う必要もなくなりますよ」
「姫君……」
「良かったですね、フォルトナー卿!」
にっこり笑うガートルードに、リュディガーは改めて己の立場を思い知らされた。この小さな姫君にとって自分はあくまで帝国側の人間……相容れない存在でしかないのだ。
だからガートルードはリュディガーに頼らない。剣を捧げたのも、帝国へ連れて行くためのご機嫌取りとしか思われていないのかもしれない。
(……その意図がかけらもなかったと言えるのか?)
貴婦人たちに褒めそやされ、同性からは揶揄されるこの容姿を利用するつもりはなかったのか。幼い姫君もしょせんは女だと、侮る気持ちがなかったと?
ガートルードの背後から、レシェフモートが侮蔑の笑みを向けた。
あの神使はきっと悟っている。虫けらのような人間の心に巣食う葛藤に。
「何もかもうまくいったわね」
「おっしゃる通りです、我が女神」
一時間ほど後。
改めて帝国へ向け出立した馬車の中には、ガートルードとレシェフモートの姿があった。
ガートルードは馬車の座席に座ったレシェフモートの膝を椅子代わりにちょこんと腰かけ、背後から長い腕に抱き込まれている。小さな身体は、レシェフモートの長身にほとんど埋もれているだろう。
(極楽、極楽)
筋肉質な男の膝なんて硬いだけだと思っていたが、魔力で感触を変化させているというレシェフモートの膝は硬すぎずやわらかすぎず、ふんわりとガートルードを受け止めてくれる。
きっと前世の高級寝具にも劣らないだろう。使ったことがないから、完全に想像だけど。
それに、誰かを抱っこしたりおんぶしたりしたことは前世で数えきれないほどあっても、ガートルード自身が誰かの膝に乗せてもらうのは初めてだ。
(人の温もりって、心地いいのね)
体温の高い赤ん坊や子どもとは違う温もりは、包まれていると安心して眠たくなってしまう。元魔獣のレシェフモートを人と定義するのは、間違っているけれど。
『レシェフモート。貴方もわたしと一緒に帝国へ行って』
神域でガートルードはそう切り出した。
帝国はガートルードが皇宮にいてくれさえすればいい。
レシェフモートは邪魔の入らない環境で、ガートルードを徹底的にお世話したい。
両者の目的は両立すると踏んだのだ。
どうせ皇宮に着けば離宮かどこかに閉じ込められ、誰にも構われず飼い殺されるだけの暮らしである(と、ガートルードは信じている)。帝国の人間も、お飾り皇妃になど関わりたくないだろう(と、ガートルードは信じている)。
ならばレシェフモートとて好きなだけガートルードの世話を焼けるし、邪魔する者もいないはずだ。
帝国という極太スポンサーに生活を保証され、レシェフモートという完璧なお世話役にお世話される。相手がレシェフモートなら何の気兼ねも要らない。
最高の食っちゃ寝ライフではないか……!
レシェフモートも異存はなく、にわか主従は細かな打ち合わせを済ませてからリュディガーたちのもとへ戻った。
レシェフモートは他国へ出される王女のため、女神シルヴァーナが遣わした神使だということにした。女神の血を与えられたレシェフモートは神使と言っても間違いではないし、どうせ女神シルヴァーナは始まりの乙女のいない世界に降臨しないのだから、バレる恐れもないだろう。
レシェフモートは異形の獣バージョンから上半身だけ人間バージョン、完全なる人間バージョンと姿を変えられるので、皇宮でも問題なく過ごせる。
都合の悪いことはすべて『女神シルヴァーナ様の思し召し』で押し通す。ガートルードの破邪の力にすがろうとしている帝国は、絶対に反論できないはずだ。
実際、その通りになった。リュディガーが山ほど突っ込みたそうな顔をしつつも、ガートルードとレシェフモートが二人きりで馬車に乗ることも、お世話役をレシェフモートだけにすることも認めてくれたのだ。
……たとえ反対したところで、レシェフモートに引き裂かれておしまいだっただろうが。
「我が女神」
ちょっと小腹が空いたかな、と思ったとたん、レシェフモートがどこからか取り出したタルトを口に運んでくれた。ガートルードの小さな口でも一口で食べられるサイズのそれは苺のクリームがたっぷり詰められており、ほどよい甘さが口の中に広がる。
「おいしい!」
「良うございました。たくさん召し上がってくださいね」
レシェフモートはとろけるように微笑み、次々と一口タルトを食べさせてくれる。カスタードクリームだったりラズベリーだったりセイボリー系だったりと、どれも違う味な上、手が込んでいておいしい。
「我が女神に、私の作ったものを召し上がって頂ける日が来ようとは……夢のようです……」
いつか女神シルヴァーナが約束を守ってくれると信じ、レシェフモートは家事の腕を磨いていたそうだ。特に得意なのは料理だそうで、食っちゃ寝ライフが一気に充実しそうな予感がする。
「わたしも、わたしのために誰かが作ってくれたご飯を食べられて嬉しい」
前世のガートルードはいつだってご飯を作る側だった。姉ちゃんお腹減ったと騒ぐ弟妹たちのため、台所で髪を振り乱しながら料理していた。
自分の食事は途中で素材をつまむか、弟妹たちの食べ残しをかきこむくらい。落ち着いて食事を楽しめた記憶がない。両親に食事を作ってもらった記憶も。
ガートルードになってからは王宮のシェフが腕を振るってくれたけれど、あくまで王女のためであり、ガートルードのためではない。
「……我が女神」
ぎゅ、とレシェフモートが強くガートルードを抱き締めた。そういえば姉王女たち以外の誰かに抱き締められたのも初めてだ。
「誓います。これより先、このレシェフモートが御身を満たし続けると」
「うん。……ありがとう、レシェ」
ガートルードだけに許された愛称を呼べば、つむじにちゅっと唇を落とされた。
成人(?)男性の膝に乗せられ、前世なら危機感を覚えるべき状況だが、不安はまるで湧いてこない。この身体が幼いからか、レシェフモートの手がどこまでも優しく、いやらしさのかけらもないせいか。
お腹が満たされると、とたんに眠気が押し寄せてくる。
うとうとするガートルードの頬を、レシェフモートがあやすように撫でた。
「お眠りください。今日はお疲れでしょう」
「う……、ん……」
頷くそばから眠りに引き込まれてしまう。
くたりと力の抜けた小さな身体を横向きに抱え直し、レシェフモートは蜜よりも甘くささやいた。
「おやすみなさい、我が愛しの女神」