94・そして皇子はたどり着く(第三者視点)
なるべく戦闘を避け、ヴォルフラムたちは皇妃の宮殿を目指した。
最終的な目的地である皇帝廟に到達するまで、何度魔獣と遭遇するかわからないのだ。魔力も体力も、可能な限り温存しておきたい。
(魔獣とは、なんなのだろう?)
考察せずにいられないのは、使用人を捕食したばかりとおぼしき魔獣に遭遇してしまったせいだ。
ヴォルフラムが見掛けた魔獣は総じて野生動物を一回り大きくしたサイズだったが、その魔獣は通常と変わらないサイズの鹿の姿をしていた。ねじ曲がった三本の角と赤い目、全身を覆う鱗を除けば、普通の鹿に見えなくもなかった。
その鹿の魔獣の周囲には『食べかけ』……残された衣服からして不運な使用人たちの骸の一部が散乱していた。ヘルマンは必死に嘔吐を堪え、リュディガーもさすがに美貌をゆがめていたが、ヴォルフラムが注目したのは散乱する骸の一部の量だった。
(……少なく見積もっても、五人は喰っている)
魔獣は頑丈な歯で人間を骨ごと喰らう。だが成人五人分の肉は、通常サイズの鹿の胃にはとても収まらない。
もちろん魔獣だから、野生動物とは消化器の仕組みも処理能力も大きさも異なる可能性はある。だが前世の知識に照らせば、あのサイズの生き物があれだけの量の肉を一度に摂取するのは異常だ。
生き物はなんのために食べるのか。決まっている。生きるため、エネルギーを補給するためだ。許容量を超えて食べても、消化できず苦しむだけである。
魔獣の喰い方はエネルギー補給ではなく、まるで喰うことそのものが目的のような……。
「殿下、お疲れではありませんか?」
背後からヘルマンに問われ、ヴォルフラムは我に返った。ともすればすぐ思考の沼に沈んでしまうのは前世からの悪い癖だ。
「大丈夫だ。ヘルマンこそつらくないか?」
「私も平気です。……魔獣どもにはまだ慣れませんが」
振り返れば、ヘルマンは少しやつれた顔に苦笑を浮かべていた。そこに今までの嫌味や軽侮はない。
魔獣どもとの遭遇は、ヘルマンの意識に大きな変革をもたらしたようだ。特にヴォルフラムに対しては、むごたらしい光景にも動じない胆の太さに『ただ者ではない』と感嘆したらしい。前世の職業柄、慣れているだけなので少々後ろめたいが。
「もうすぐ、さく……皇妃殿下の宮殿だ。あそこには魔獣も近づけないだろう」
「そうですね、だんだん魔獣の数も減ってきましたし……そんなすごいお力をお持ちの皇妃殿下に、私はとんでもないことをしてしまったんですね。かばって頂きながら、お礼もお詫びもせず……」
傲慢さの抜けた幼い顔に罪悪感が広がる。
ヘルマンはガートルードへの接近を禁じられてしまったため、礼も謝罪もできなかったのは仕方ないのだが、もし可能だったとしても、今までの彼なら行動しなかっただろう。
ヘルマンを皇妃の宮殿に伴うのは接近禁止の取り決めに反するが、この非常事態だ。大目に見てもらえるはずである。
「この騒動が落ち着いたら、お礼とお詫びをすればいい。近づけなくても手紙を書くことはできる。皇妃殿下はきっと受け入れてくださるはずだ」
「はい……、必ず」
真剣な顔のヘルマンとヴォルフラムに微笑ましげな視線を送り、リュディガーが促した。
「間もなく皇妃殿下の宮殿です。急ぎましょう」
少年二人は頷き、足を速めた。瀟洒な宮殿が見えてくるにつれ、ヴォルフラムの胸も高鳴る。
(櫻井さん……)
前世からずっと心の支えだった少女。今生でもまた彼女に救われたのは、きっと偶然ではないはずだ。
彼女と自分は切っても切れない縁で結ばれている。そう思いたい。
「っ……!?」
宮殿に足を踏み入れた瞬間、すさまじい重圧がのしかかり、ヴォルフラムはよろけた。同時にまた胸の奥の硬い感触が疼き始める。
「殿下!?」
すかさず支えてくれるヘルマンは、なんの異常も感じてはいないようだ。駆け寄るリュディガーも心配そうではあるが、影響を受けた様子はない。
「顔色が……ずいぶん魔力の流れが乱れているようですね」
ヴォルフラムの額に触れ、リュディガーは眉根を寄せた。
「魔力の、流れ?」
「個人差はありますが、通常、魔力は体内を一定の速度で循環しています。消費魔力の大きい魔法を連発した場合などに、多少乱れることもあるのですが」
ヴォルフラムの魔力の流れは、帝国随一の魔法使いでもあるリュディガーでも異常だと感じるほど乱れているようだ。
「皇帝陛下のために治癒魔法を使われたからではありませんか?」
推測するヘルマンに、リュディガーは首を振った。
「あの程度でここまで乱れるのは考えにくい。そもそも治癒魔法は相手と魔力の流れを重ね合わせ、整えてやる魔法だ。技術の拙い治癒魔法使いの治療を受けた患者の方が、魔力の流れを乱されることはまれにあるが……」
「……確かなのか?」
ヴォルフラムが強く惹かれるものを感じて問いかければ、リュディガーはやや面食らいつつも答えてくれる。
「はい。かつて私がアルスリア進攻に参加した折、仕官したばかりの従軍治癒魔法使いが負傷兵に治療を施したところ、怪我は治ったのに重度の魔力中毒に陥ってしまったのです」
魔力中毒とは魔力の流れが滞ったり、乱れたりすることで陥る一時的な体調不良だ。症状を聞いた限り、急性アルコール中毒に似ている。
軽度なら安静にしていれば治るが、重度になるとベテランの治癒魔法使いに再度治癒魔法をかけてもらい、乱れた魔力の流れを整えてもらう必要があるそうだ。ヴォルフラムが読み漁った文献にはなかった情報である。
「それは、よく起きる症状なのか?」
「いえ、私の知る限りはその一件のみです。他でも聞いた記憶はありませんから、本職の治癒魔法使いでも知らない者は多いと思います」
ならば文献に載っていなかったのも頷ける。そもそもこの世界では、まだ一定範囲の知識を系統立ってまとめるとか、知識を共有し発展させるという発想がないのだ。今回、この情報を得られたのは幸運だった。
(治癒魔法で、患者の……対象の魔力の流れを乱すことができる。それはつまり……)
疼き続ける胸の奥の硬い感触を、ヴォルフラムはそっと押さえる。
(この感触にも、干渉できるということなのか……?)
こちらの世界の医療技術では手も足も出ないと諦めかけていたが、希望の光が見えた。しかし今は、ガートルードとの合流が優先だ。
「心配させてすまなかった。私は大丈夫だから、先を急ごう」
「……承知しました。ご気分が悪くなったら、すぐおっしゃってください」
まだ顔色は戻っていないはずだが、リュディガーは即座に頷いた。魔力が乱れていても、この場にヴォルフラム以外の治癒魔法使いがいない以上、どうしようもない。ならば進んだ方がいい。やはりリュディガーの割り切り方は尋常ではない。
気を取り直し、三人は皇妃の宮殿を進んでいく。
予想通り魔沼も魔獣の姿もなく、そういう意味では安全だったが、進めば進むほどヴォルフラムの感じる重圧は大きくなっていった。
そして。
「……、また、揺れた……」
ヘルマンが不安そうにつぶやく。
皇妃の宮殿に入ってからというもの、時折、宮殿全体が軋むように揺れるのだ。ヘルマンも感じるのだから、これは胸の奥の硬い感触のせいではない。
「急ぎましょう。また、新たな魔沼が発生する兆しかもしれません」
足を速めるリュディガーには迷いがない。彼はガートルードの魔力の波動と気配を覚えており、それをたどっているのだ。おかげでたくさんの部屋をしらみ潰しに探さなくて済む。
また胸の奥が疼き、ヴォルフラムは嫌な予感に襲われる。
あの神使が、少しでも危険のある場所にガートルードを置いておくだろうか。ガートルードがまだこの宮殿にいるというのなら、それは動かないのではなく、動けないのでは――。
嫌な予感は的中してしまった。
やっとの思いでたどり着いた部屋では、エルマやロッテ、モルガンたちに囲まれたガートルードが、顔面蒼白で長椅子に横たわっていたのだから。