93・転生ものぐさ皇妃は助けたい
その後、偵察に出たエルマとモルガンにより、皇妃の宮殿の外のいたるところにまがまがしい泥の沼が湧いていることが判明した。
沼からは次々と魔獣が這い出し、うろつき回っているそうだ。
魔獣を生み出す沼といえば、不入の土地に湧いては対魔騎士団によって討伐される魔沼しか考えられない。
『あまり遠くまでは行けませんでしたが、あの様子では表の宮殿も中の宮殿も、奥の宮殿も……おそらくは皇宮全域に魔沼は湧いているものと思われます』
エルマの報告を、モルガンが補う。
『私たちが視認できた範囲に、皇宮の使用人の姿も貴族の姿もありませんでした。代わりに血痕や、……骸の一部が散乱しておりました』
白皙の美貌によぎる陰が、外の惨状を物語っていた。ガートルードを慮り、だいぶ控えめな言い方をしているだけで、実際はさらにひどいのだろう。
『皇宮警備隊は……騎士たちは、なにをしていたのでしょう……』
ずっとガートルードに付いていてくれるロッテがもどかしげに唇を噛んだ。彼女は武門の名家、アッヘンヴァル侯爵家の係累だ。親族が騎士として皇宮勤めをしているのかもしれない。
『魔獣との戦いは、人間相手のそれとはまるで勝手が違います。対人戦しか経験のない皇宮騎士には荷が重いはず。さすがに全滅はしていないでしょうし、中の宮殿を警備する近衛騎士団と対魔騎士団は無事だと思いますが』
冷静に分析するモルガンは、シルヴァーナ貴族男性の通過儀礼として、他国へ派遣される魔獣討伐部隊に参加した経験がある。理性のない、ただ人間を喰らうことしか頭にない魔獣との戦いの厄介さを、身をもって理解しているのだ。
『この宮殿だけが無事なのは、我が女王のお力の賜物でしょう。しかし……』
魔沼こそ湧かないものの、地下からの震動はいまだに続いている。狼蜘蛛姿のレシェフモートが全力で抑え込んでいるが、レシェフモートの魔力が途絶えれば、地下の男は一気に地上へ……ガートルードのもとへ這い上がってくるだろう。宮殿を粉砕しながら。
外には魔沼と魔獣。
内では地下から這い上がろうとする男。
逃げ場のない中、ガートルードは自身も絶え間ない頭痛と悪寒に悩まされ……今にいたる、というわけだが。
(このままじゃ、駄目だわ)
苦痛にさいなまれながらも、ガートルードは必死に考えていた。
転生してからこちら、王女の身分のおかげで生活の苦労などなく、レシェフモートと出逢ってからは苦痛とはほぼ無縁の日々だった。だからすっかり忘れていたけれど……思い出した。平穏より、苦痛の方が馴染み深かったことを。
毎朝、誰よりも早く起きて。
両親ときょうだいの朝食を作りながら何度も洗濯機を回しては干し、起きてくる小さなきょうだいたちをあやし、なだめ、おむつを換え、粗相の始末をし、かんしゃくを起こされては泣き叫ばれ、困り果てても誰も助けてくれず。
起きてきた両親に『クソガキどもがうるさくて眠れなかった』『もっとちゃんとしつけろ』と叱られ、その剣幕に泣き出した子どもたちをまたなだめるのに追われ、どうにか学校へ行く年長のきょうだいたちを送り出せば、就学前のきょうだいたちの面倒をみて、彼らの昼食を作り、日によってはきょうだいたちの学校に呼び出され、両親の代わりにお叱りを受け、当人たちからは『姉ちゃんはウザイ。もっと優しいお姉ちゃんが良かった』とうっとうしがられ。
両親のくれる生活費だけでは食べ盛りのきょうだいたちを養えず、いくらお願いしても増額してもらえなかったから、中学卒業後はパートに出ざるを得なかった。多くはない稼ぎはすべてきょうだいたちの食費やお小遣いに消え、自分のものなどなに一つ買えず、妹たちからは『もっと見た目に気を使ってよ、恥ずかしい』と罵倒される始末。
(あのころは、つらかったなあ)
つらいことしかなかった日々で、一番つらかったのは誰も助けてくれなかったことだ。
一番上の妹の佐那や年長の弟妹たちは、成長するにつれ姉の大変さを理解したのか、だんだん態度もやわらかくなっていったし、社会人になってからは時折手伝いに来たり、生活費を援助してくれるようになった。おかげでとても楽になったけれど。
ガートルードが一番つらい時期、生意気な思春期やイヤイヤ期の手のかかるきょうだいたちに囲まれていた間は、誰も手を差し伸べてはくれなかった。
……たぶん、佐那たち上のきょうだいはわかっていたのだと思う。一度手伝えば、ずっと手伝わなければならなくなると。自分もガートルードと同じ義務を背負わされてしまうと。
姉一人を犠牲にすれば、自分たちは世話をされる側でいられる。
だから見て見ぬふりをした。後ろめたさにさいなまれながら、一番最初に生まれなかった幸運を噛み締めながら。
(でも、今は違う)
エルマもロッテもモルガンも、未知の恐怖にさらされながらガートルードを守ろうとしてくれている。レシェフモートだって、出逢ったばかりのころなら迷わずガートルードだけを連れて逃げただろう。残された人々がどうなろうともお構いなしに。
なのに踏みとどまり、全身全霊で震動を抑えているのはガートルードのためだ。そこに偽りがあるとしても、ガートルードを思う気持ちにきっと嘘はない。
(……食っちゃ寝ライフさえ送れればいいって、思ってたのに)
現状は食っちゃ寝ライフとはほど遠い。なにが起きているのかわからない。命の危険さえあるのに。
(なのに、わたし……ちっともつらくないわ)
身体はしんどくても、心はぽかぽかと温かいから。そばにいて、手を差し伸べてくれる人たちがいるから。
だから、……だから。
(わたしも助けたい。助けたいよ……!)
――助けるから。
もどかしさに歯噛みした時、あの魔獣の王とは違う声が聞こえた。……見えてくる。懐かしい前世。アスファルトの道路に力なく倒れた、喪服姿の青年が。
青年のかたわらでは、少女が泣きじゃくっていた。ガートルードが……櫻井佳那が通っていた中学校と同じ制服をまとい、ポニーテールを揺らして。
ズームされていく少女の顔が、少しずつ変化する。ぼやけながら、にじみながら。ガートルードは悟った。これは倒れた青年……少女をかばい、死にゆこうとする彼の最期の視界なのだと。
やがて現れたのは、ガートルードにとって最も馴染み深い顔だった。
(……わたし、だ)
中学生のころの櫻井佳那。かろうじて通学を許され、子どもでいられた最後の日々の佳那が、ごめんなさい、ごめんなさいと嗚咽している。
――次があるなら、絶対に間違えないから。
佳那の姿を焼きつけようと、必死に保たれていた青年の視界がゆっくりと狭まってゆく。
――次は、きっと……助けるから。
青年のまぶたが完全に閉ざされる前、佳那の姿がまた変化した。銀髪とまだらに金の散った碧眼の、幼くも美しい少女へ……ガートルードへ。
(……貴方、は)
のろのろと、ガートルードは手を伸ばす。
すると青年の視界の中のガートルードも手を伸ばした。くるん、と視界が入れ替わり、今度は青年の姿が映し出される。
血に汚れてもなお端整な顔に強い既視感を覚えた。
この人を知っている。遠い遠い昔、たった一度だけ話した。それきりいなくなってしまった、彼。あのころは触れれば壊れてしまいそうな危うさを漂わせていたけれど。
(……完璧……、くん……?)
「……、さん」
答える声と共に、伸ばした手がぐっと握り締められる。この温かさと力強さは、幻じゃない。本物だ。
「櫻井さん、……櫻井さん!」