92・転生ものぐさ皇妃と迫りくるモノ
『……やっぱり、今の陛下と超アンドレアスは別人だったのね』
ぽつりとつぶやいたガートルードに、全員が注目した。
ガートルードは説明する。超アンドレアスとは、同じ名を持つ初代皇帝と区別するため自分がつけた呼び名であること。いつもと様子の違う彼と皇帝廟におもむき、『不朽の屍櫃』と呼ばれるアダマン王国時代からの宝物を見せられたことを。
超アンドレアスという不敬な呼び方を、笑って許してくれた。本当は親しみやすい人なのかもしれないと思ったけれど、後に対面したアンドレアス……コンスタンツェの言動をたしなめようともせず、ガートルードは本能的に察したのだ。
超アンドレアスはどこにもいない。今のアンドレアスは同じ姿をした別人だと。
――覚えておいて欲しい。もしも……。
それに、皇帝廟で超アンドレアスはガートルードに言ったのだ。
――もしも俺の身に変事が起きた時は、一番最初に声を上げた者を疑って欲しい。その者こそが首謀者の傀儡だ。
あの時は、超アンドレアスがなにを言いたいのかまるでわからなかった。わからないまま、彼の願いに頷いた。
帝国の頂点に立つ身分でありながら、超アンドレアスが願いを託せる相手は形ばかりの皇妃しかいない。その事実があまりに悲しかったから。
『あの時、皇后以外で真っ先に声を上げたのはブライトクロイツ公爵だった……それもあって、我が女王はあのような行動を取られたのですね』
モルガンが納得したように頷き、すぐに首を傾げる。
『では、皇帝の身体には我が女王が超アンドレアスと呼ばれる魂と、もう一つの魂が存在するということになりますが……いったい誰の……』
『っ……、我が女神!』
レシェフモートが息を呑み、ガートルードを腕の中にきつく抱き込んだ。その直後だ。地の底からすさまじい質量のエネルギーが突き上げてきたのは。
『……嫌ぁぁぁっ! 助けて、お兄様!』
ゴオオ、オ、オオッ……。
女の叫びが轟音に混ざり合った瞬間、ガートルードの脳裏に描き出される。
右腕が。
左腕が。
右脚が。
左脚が。
もつれ合って。
絡み合って。
ぶつかり合って。
せめぎ合いながら。
――泥沼の中でもがく男を、がんじがらめに捕らえている光景を。
(……な、……に、これ……)
吐き気を催すほどおぞましい地獄絵図に、脳内が内側から揺さぶられる。
見たくない。
……見てはならない。
本能が警告するのに、意識は吸い寄せられてしまう。暗くよどんだ男の瞳に。
『やっと、見て、くださった』
ゆっくりと吊り上げられた男の、泥にまみれてもなお、なまめかしい唇の紅さ。
しまった、と思った時には遅かった。残された最後の力をこめ、男は絡みつく四肢を……白くほっそりとした左腕を振りほどく。
『ぎゃああああっ! お兄様、お兄様!』
女の悲鳴が響くと同時に、ガートルードも絶叫した。
『嫌ぁぁぁぁ!』
『……、……が、……女神!』
深い沼底から引きずり上げられるように、周囲の音が鮮明になっていく。
『我が女神、お気を確かに……アレに引き込まれてはなりません!』
『……レ、シェ?』
うまく回らない口をどうにか動かせば、レシェフモートは悲壮にゆがんでいた美貌をわずかにゆるめた。周囲には離れて座っていたはずのエルマやロッテ、モルガンが集まり、みな心配そうにガートルードを覗き込んでいる。
それでようやく悟った。自分はつかの間、意識を失っていた……いや、あの男に引きずり込まれかけていたのだと。
『う、……あ……っ!』
心配かけてごめんなさい、と言いかけたとたん、再び地の底から突き上げてくる。
その正体が、ガートルードには見えた。否、脳内に描き出された。
右腕と右脚、左脚を絡みつかせ、泥沼をかき分けながら這い上がってくる男。その肩に乗せられたなにかから伸びた無数の金色の糸が、だんだん透明度を増してゆく泥水に広がる。
(ああ)
わかった。
……わかってしまった。
(あの男は、わたしを目指しているんだ)
ガートルードのもとにたどり着きさえすれば、おぞましい四肢の拘束から解放されると信じているから。
拘束されてもなお尽きぬ男の魔力は、男の本質である水となって地下の土と混ざり合い……男がガートルードに迫るたび地上に湧き出てゆく。硬い岩盤すら突き破って。
新たな魔獣を生み出すほど強い魔力を含んだ泥溜まり……魔沼と化して――。
ゴゴ、ゴッ、ゴゴゴゴッ。
建設されたばかりのはずの宮殿が、迫りくる男によって地下から揺さぶられ、不気味に震動した。よろめいたロッテをエルマがすかさず支えるが、二人とも不安を色濃くにじませている。
『くっ、……下僕!』
『はっ!』
苦渋の表情を浮かべたレシェフモートの呼びかけに素早く応じ、モルガンがレシェフモートからガートルードを受け取った。ガートルードは碧眼をしばたたく。あのレシェフモートが、自らガートルードを他人に渡すなんて。
『しばしおそばを離れる不忠をお許しください。罰は後ほど、いかようにも』
悲しげに美貌をゆがめ、レシェフモートは狼蜘蛛の姿に変化した。大舞踏会の会場を飛び出した時よりもさらに大きく、高い天井をぶち破りそうなほどの大きさで。
『グオオオオオオオオオッ!』
ぐるりと首をめぐらせながら、レシェフモートは咆哮する。びりびりと空気が痺れるように揺れ、宮殿の震動を抑えつけ、相殺する。
『……地震が、おさまった……?』
ロッテと手を握り合っていたエルマがきょろきょろとあたりを見回した。胸を撫で下ろした彼女を嘲笑うかのように、ぐらり、と床が揺れる。
『嫌っ……!』
消えたはずのおぞましい光景が脳裏に浮かぶ。
『我が女王……』
モルガンが震えるガートルードを痛ましそうに見下ろし、近くの長椅子にそっと横たえると、魔力を発動させた。ひんやりした清浄な空気に包まれ、今にもえずいてしまいそうなほどの気持ち悪さが和らぐ。
『……ブラックモア、卿……』
『大丈夫です、我が女王。私が付いております』
微笑むモルガンに、きゅっと胸が疼いた。おみ足だの女王だのわけのわからないことばかり言っても、この男がガートルードに寄せてくれる真心は本物だ。
『私もおります』
『私もです、殿下!』
ロッテがガートルードに毛布をかけ、エルマが長椅子のそばで剣の柄に手をかける。二人とも帝国人で地震が恐ろしくてたまらないはずなのに、泣きわめきも、逃げようともしない。
『ロッテ……エルマ……』
じわ、ぽわ。
胸の内側がほんの少し温かくなり、脳内のおぞましい光景も薄らいだ。
けれど、宮殿の震動はおさまらない。レシェフモートが本来の姿で魔力を全開にしているのに、相殺しきれないなんて。
(……這い上がってこようとしているのは、本当に、生まれたばかりの魔獣の王なの?)
シルヴァーナの王女でありながら、ガートルードは魔獣の生態に詳しくはない。でも女神の血まで与えられ、『北の王』と呼ばれ畏れられていたレシェフモートが、生まれたての王を抑え込めないなんてありうるのだろうか。
ましてやあちらは、見るもおぞましい四肢の拘束を受けているというのに。
――罰は後ほど、いかようにも。
レシェフモートの言葉が気になって仕方なかった。あれはそばを離れることに対して、だけではなく。
(……嘘を、ついたから?)
そしてその嘘が、今の状況を招いてしまったから……?




