90・疑惑の初代皇帝(第三者視点)
リュディガーが襲いくる魔獣の群れを倒して開いた血路を、ヴォルフラムは必死に走り抜ける。
「……後方、左! 羊の魔獣!」
ヘルマンの合図にリュディガーはくるりと向きを変え、長剣を振り抜いた。すぱん、と爽快な音がしそうな鮮やかさで、全身鱗と白い毛に覆われた魔獣は首と胴を切断される。
ヘルマンはアッヘンヴァル侯爵に装備させられた少年用の剣を構え、リュディガーの目が届きにくい後方を警戒している。
剣を振るって魔獣と戦うにはとうてい力不足だが、ヘルマンの警告は何度もヴォルフラムの危機を救ってくれた。動体視力がずば抜けているのだろう。リュディガーも感心しているようだ。
しかし、なんといっても殊勲はリュディガーである。
「ブギィィヤァァァァ!」
「ヒィ、ヒィイイイイン!」
豚の魔獣と馬の魔獣――どちらも本来の倍はありそうな二頭を、閃光のごとく放たれた斬撃が同時に両断する。その周囲には黒い肉片の山が積み上げられていた。
(魔法って、間違いなくこの世界のチートだな……いや、チートなのはフォルトナー卿か)
ついさっきの出来事を思い出すだけで、ヴォルフラムは背筋が寒くなる。
ヴォルフラムとヘルマン。柔らかい肉の主を喰うにはリュディガーが最大の障害だと判断したのか、階段を下りるなり、魔獣の群れはリュディガーに殺到した。まがまがしい空気と、強烈な潮の匂いをまとって。
やられる、と思った。
衆寡敵せず、である。どんなに強い騎士でも、何十倍もの敵……それも異常極まる魔獣どもに囲まれれば、なすすべはない。
はず、だったのだが。
『二人とも、下がっていてください』
リュディガーは子どもたちを気遣う余裕すら見せ、翡翠色の双眸を光らせた。
次の瞬間、勝利を確信していただろう魔獣どもはばらばらに切断され、細かな肉片の山と化していたのである。ごていねいにも、リュディガーを避けるように半円を描いて。
なぜかあたりに降り注ぐ水滴が光を反射し、リュディガーの後光のごとく輝く。
『み、……水、魔法? 水魔法で、あんなことができるなんて……』
ヘルマンがぼうぜんとつぶやいてくれたおかげで、ヴォルフラムもやっと理解できた。リュディガーがなにをやってのけたのか。
魔獣どもが殺到した瞬間。
リュディガーは水魔法を発動させ、生じさせた魔力の水を無数の刃に変じて放ったのだ。魔力ですさまじい圧力をかけられた水刃は剣の何倍もの威力を発揮し、魔獣どもを切り裂いた。
(前世のウォーターカッターを、自力で発動させたのか)
鋼鉄さえ切断するウォーターカッターなら、魔獣くらい簡単に切り裂けるだろう。
しかしこの世界において水魔法は殺傷能力の低さから、あまり人気のない魔法だと書物には記されていた。上級魔法になれば小規模な津波を起こすことも可能らしいが、火魔法なら下級魔法でもそこそこ威力の高い攻撃魔法がいくつもあるので、とにかく燃費が悪い。魔力量が高いとは言いがたい帝国人には、ますます忌避される。
その水魔法も適性がなければ使えないものではあるが、リュディガーはすべての属性魔法の適性があると聞いている。
つまり、もっと魔力消費が低く威力を出しやすい火魔法でも、それに準じる風魔法でも使えたはずなのだ。
なのに、わざわざ魔力消費の大きい水魔法を使ったのは。
(……私たちのため、だ)
ヴォルフラムたちを巻き込まないため、あえて水魔法を選んだ。威力の消えた水魔法は、単なる水だ。火や風と違い、かかっても濡れるだけで傷つく恐れはない。
そんな配慮をしつつ高難度の魔法を放ちながら、己自身の剣でも魔獣を倒してのける。これを反則と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
「二人とも、大丈夫ですか?」
振り返るリュディガーには傷一つなく、きらきらと光り輝いてさえ見える。まるで王子様みたいだ。いや、みたいもなにも、血筋的には立派な皇子様なのか。
ヴォルフラムはリュディガーが同性から疎まれる理由をなんとなく察してしまった。これほどの強さと美貌、高貴な血筋まで揃った男に惹かれない女性はいないだろうから。
(……きっと、彼女も)
リュディガーがシルヴァーナ王国へガートルードを迎えに参上した際、個人的に剣を捧げ、彼女を『我が淑女』と呼んでいることはヴォルフラムももちろん知っている。
リュディガーほどの男にひざまずかれ、忠誠を捧げられれば、ガートルードとて悪い気はしないだろう。小さな胸をときめかせたかもしれない。
「……大丈夫だ。守ってくれてありがとう、フォルトナー卿」
「お、……私も問題ありません」
ヴォルフラムはかすかな嫉妬の炎を無理やり消し去って頷き、ヘルマンも同意する。彼も他の帝国人男性同様、魔法に長けたリュディガーを軽視する傾向があったが、すっかり見る目が変わったようだ。リュディガーがヘルマンに向ける眼差しも、少しやわらかくなっている。
「それにしても……」
ヴォルフラムはたった今、リュディガーの剣に切り裂かれたばかりの魔獣の骸を観察する。眉をひそめつつも逃げないあたり、ヘルマンもわずかな間に胆が据わったらしい。
「形態はばらばらだけど、どれも鱗が生えているな。それに、潮の匂いがする……」
「潮?」
ヘルマンがきょとんとした。内陸の帝都から出たことのない貴族子弟が、潮の匂いを知らないのは当然だ。
海の水が放つ匂いのことだ、と簡潔に教えてやると、ヘルマンは目を見開いた。
「海、ですか。地の果てに広がっていると家庭教師から教わった覚えがありますが、ではアレは、海までつながっているということか……、ですか?」
茶色の目が数メートル向こうの床に湧いた黒い泥溜まりを捉えた。強烈な潮の匂いは、ぼこぼこと泡立つ泥からも漂っている。
ヴォルフラムも実際に見るのは初めてだったが、アレこそが魔沼――魔獣を生み出すおぞましいモノだとわかった。あんなモノは今まで皇宮にはなかったし、それに。
(……また、……)
大人しくしていてくれたはずの硬い感触が、胸の奥でずきずきと疼いている。おそらくは……いや、間違いなく、魔沼から発散される瘴気に反応して。
「帝都は一番近い港町から馬でも数日かかる距離だから、それはないだろう。万が一地下水脈でつながっていたとしても、そんな軟弱な地盤に皇宮を建てるとは考えにくい」
それに、とヴォルフラムは痛みを思考で打ち消す。
「ブライトクロイツ卿によれば、魔沼は皇宮が建設される前から存在していたそうだ。皇宮をこの地に構えると定めたのは……」
初代皇帝アンドレアス。
皮肉にも、現皇帝でありヴォルフラムの父親と同じ名を持つ建国帝。
ソベリオン帝国では神のごとく崇められる名に、リュディガーとヘルマンは揃って息を呑む。
「っ……、それでは、まるで初代陛下が、魔沼を封印するため、ここに皇宮を建てたような……」
ヘルマンの語尾がだんだん弱々しくなっていったのは、不敬をとがめられると危ぶんだせいか。
だがリュディガーも、もちろんヴォルフラムもとがめるつもりはない。おそらく二人とも、ジークフリートの言葉を聞いた時からずっと同じ疑問を抱いていた。
(この事態には、初代皇帝が関わっているのではないか)
帝国人なら、庶民の子どもでも知っている。ヴォルフラムももっと幼いころ、乳母に読んでもらったおとぎ話がよみがえる。
『むかしむかし、偉大なる初代皇帝陛下は妹ブリュンヒルデ姫様と共に、邪悪な魔獣の王を倒されました。姫様の手足と引き換えに――』




