89・変化の兆し(第三者視点)
本日は2話更新しております。
こちらは2話目です。
(でも、やっぱり自分が『欠陥品皇子』の使用人扱いされるのにも、それを止めない周囲にもイライラする。そんなところだろうな)
背中に突き刺さる視線をひしひしと感じながら、ヴォルフラムは溜め息をついた。
前世では子どもはおろか結婚すらしないまま死んでしまったが、子どもの患者には何度も関わったから、ヘルマンくらいの年ごろの思考パターンはなんとなく察することができる。
己の過ちを認め、受け入れ、挽回のために動ける人間は、大人でもそうそういない。ましてや子どもでは、自分がとんでもないことをしでかした、そのせいで周囲から責められている、ということはわかっても、幼い自分が冷遇されること自体は我慢ならないのだ。
だからといって、今はヘルマンの情操教育に割く時間も余裕もない。酷かもしれないが、自分の機嫌は自分で取ってもらうしかないのだ。
「では、これより一階に下り、魔獣を駆逐しながら皇妃殿下の宮殿を目指します。私が露払いを務めますので、殿下は離れないよう付いてきてください。ヘルマンは後方の警戒を」
一階へつながる階段の前で立ち止まり、リュディガーが真剣な顔で指示を出した。ヨナタンが用意した騎士服に着替え、実用的な長剣を佩いていてもなお、輝かしい美貌は隠しきれていない。
「わかりました。よろしく頼みます」
「どうして!?」
頷くヴォルフラムの背後で、かん高い悲鳴を上げたのはもちろんヘルマンだ。出立前、ガートルードの宮殿に向かうことはすでに伝えてある。
「皇宮には隠し通路があるんだろう!? どうしてわざわざ魔獣どもがうようよしてる地上を突っ切るんだよ!」
「……ヘルマン」
す、とリュディガーの翡翠の目が細められる。
「今のお前は一時的に私の指揮下にある。つまり私の部下だ。部下が上官に口答えすることが、許されると思うのか?」
「あ、だ、だって俺は……」
鋭く睥睨され、ヘルマンはもごもごと言葉を呑み込んでしまったが、肩越しにこっそり窺っていたヴォルフラムには見えた。ヘルマンの口が『伯父上』と動いたのが。
リュディガーはヘルマンの母ティアナの兄だから、ヘルマンの伯父に当たる。ヴォルフラムとリュディガーも血はつながっているが、ヘルマンに比べれば薄い。ならば少しは優しくしてもらえるのでは、と期待したのだろう。
(甘いな)
リュディガーは確かに情に篤くもろいところもある男だが、自分の領域……戦場では一切の情を挟まない。そういうタイプだ。初めてしっかり話して、すぐに察した。
前世でゴッドハンドと称賛されていた外科医たちと同じ匂いがする。できることとできないことの割り切り方が尋常ではないのだ。
前世から通算三十三歳の元医師にはそうとわかっても、正真正銘の六歳にはちょっと厳しいかもしれない。
「……隠し通路は地下にあるから、そこにも魔沼と魔獣が湧いている可能性が高い。狭い地下で魔獣に囲まれれば、逃げ場を失い、全滅しかねない。フォルトナー卿はそれを避けるため、あえて地上を選んだんだ。地上なら逃げることも、隠れることもできるから」
「…………」
ヴォルフラムの言葉が自分に向けられたものだと、ヘルマンはつかの間、理解できなかったらしい。ぱちぱちとしばたたいたヘルマンがなにか言う前に、ガラスに爪を立てて引っ掻くような耳障りな音が響く。
鼻先に漂う、かすかな潮の匂い。
「キィィィィィギィイィ!」
トッ、タタッ、ドンッ。
壁を床のように伝い、リュディガーの前に着地したのはヴォルフラムほどの大きさがありそうなネズミだった。短い被毛と灰色の鱗でまだらに覆われたぐしょ濡れの身体、爛々と光る赤い瞳、斧のように鋭く巨大な前歯。生物として異常しかない姿に、本能的な嫌悪をかきたてられる。
「ヒッ……」
「黙って」
悲鳴をほとばしらせかけたヘルマンに赤い瞳が向けられたのに気づき、ヴォルフラムはとっさにヘルマンの口を両手でふさいだ。その直後、素早く剣を抜いたリュディガーが巨大ネズミの首を一刀のもとに切断する。
「ギィィエェェェェ……ッ!」
鼓膜を腐蝕させるような断末魔を撒き散らしながら、巨大ネズミの首は階下に転がっていった。残された胴体は何度かけいれんし、どさりと倒れて動かなくなる。
「っ……、ぐ、……!」
(かわいそうに)
飛び散るどす黒い体液や無惨な骸を目の当たりにし、おののくヘルマンがさすがに哀れになってしまった。人間相手に剣術の稽古を積んでも、魔獣が……命が散る場面に接したのはきっと生まれて初めてだろう。
「行きましょう、殿下。ヘルマンも」
顔色一つ変えないリュディガーは、命のやりとりに対する慣れを窺わせる。貴公子らしい華やかな容姿が帝国人らしくないと揶揄されがちなリュディガーだが、今の彼を見てそんな陰口を叩ける者はいまい。
「わかった。……ヘルマン」
ヴォルフラムはヘルマンの口を解放し、促した。子どもにこんなものを見せた挙げ句危険地帯を突っ切らせるなんてトラウマものだろうが、今はガートルードのもとへたどり着くのが最優先だ。
「あ、……」
やっとヴォルフラムに口をふさがれていたことに気づいたのか、ヘルマンが羞恥に頬をひきつらせる。
さすがのリュディガーも哀れになったのか、厳しい目元をわずかに和らげた。
「魔獣は大声を上げて逃げ回る者から優先的に襲うそうだ。……殿下、素晴らしい機転でした」
「フォルトナー卿も、守ってくれて礼を言う」
「なんのこれしき。……まだ、始まりに過ぎません」
リュディガーとヴォルフラムは頷き合い、階段を下り始めた。たとえ魔獣の血に塗装された道であろうと、ガートルードのもとに続くのなら駆け抜けなければならない。
「ま、待って……!」
慌てて追いかけてきたヘルマンが、荒い息交じりに問いかける。
「どうして、……どうして平気なんだ、……ですか? あんなモノを見せられて……殿下は、戦う力だって、ないのに……」
まさか『前世は医師だったので、職業柄慣れています』とは言えない。
戦う力なんて、前世でもなかった。……あったら、彼女をあんなふうに死なせたりしなかった。
(いや、違うな)
ヴォルフラムに――神部薫になかったのは力ではなく、意志だ。なにがなんでも彼女を守る。その強い意志があれば、結末はきっと変わっていた。
「行きたいからだ」
どれほど悔やもうと、あがこうと、過去は変えられない。
でも不可思議な転生の果てに、ヴォルフラムは彼女と再び巡り会えた。
変えられるのだ。……未来は。
「皇妃殿下の、……彼女のもとへ」
背後からの応えはない。
だがヴォルフラムにはわかる気がした。ヘルマンが今、どんな顔をしているのか。
「……アッヘンヴァル侯爵がお前を私たちに同行させたのは、お前のためでもある」
らしくもない助言が口をついたのは、新米医師だったかつての自分が重なったせいかもしれない。
「この危機的事態にも皇子に同行し、皇子の護衛を務めたと知れ渡れば、お前の評判も改善され、風当たりも少しはやわらかくなる。そのために侯爵はたった一人で魔獣の群れを突っ切り、ここまでたどり着き、フォルトナー卿と私に頭を下げた。フォルトナー卿もそれがわかっていたから受け入れた」
「……お祖父様、が……」
「自分のために頭を下げてくれる肉親がいることは、とんでもない幸運だぞ」
我知らず帯びた羨望の響きを、ヘルマンは感じ取ったらしい。はっと息を呑んだのは、自分より幼い皇子が間もなく父親を亡くしてしまうのだと今さらながら気づいたからか。
前世ならまだ小学校に上がったばかりのヘルマンに、ヴォルフラムの忠言がどこまで響いたのかはわからない。
だが行動再開後、ヘルマンは一度も悲鳴を上げず、弱音も吐かず、ヴォルフラムたちに付いてきた。