88・ヘルマンの回想(第三者視点)
本日は2話更新しております。
こちらはヘルマンが小姓になるまでの経緯のみですので、読まなくてもストーリーには影響ありません。
慌ただしく準備を済ませ、ヴォルフラム、リュディガー、ヘルマンの三人は出立した。アッヘンヴァル侯爵とヨナタンは留守居を務め、アンドレアスとコンスタンツェを守るという。
(冗談じゃない)
先頭にリュディガー、真ん中にヴォルフラム、最後尾に自分という隊列で一階への階段に向かいながら、ヘルマンは舌打ちをする。母ティアナから移った癖だ。
(どうしてこの俺が、欠陥品なんかの盾にならなきゃならないんだよ……!)
ヘルマンにとって、今の状況は不愉快でしかなかった。突然部屋に乗り込んできた祖父アッヘンヴァル侯爵に大舞踏会で起きた一大事を知らされ、魔獣の群れからヘルマンを救うために来てくれたのかと感動したのに、『お前はヴォルフラム殿下の小姓だ。こんな時こそ殿下を命に代えてもお守りせよ』などと言われたのだから。
侯爵家では母がつけてくれた指南役の騎士相手に剣術を習っていたし、筋がいいと誉められていた。今の時点でも、並の実力の騎士なら互角に打ち合い勝利できる。数年も経てば帝国中に勇名を鳴り響かせる無双の騎士になるのだと、夢見ていたのだ。
……その夢は、あっけなく打ち砕かれてしまったが。
『薄汚い羽虫のぶんざいで、我が女神の御名を口にするな』
皇妃ガートルードに侍る神使。ぞっとするほど麗しく神々しい、だが同時に禍々しい姿と冷ややかな声音を思い出すと、今でも身体が芯から凍りつきそうになる。
自分はとんでもないモノに歯向かい、その怒りを買ってしまったのだ。いまだ六歳のヘルマンに国家間のパワーバランスや政治的な交渉までは理解できなくても、神使を怒らせたことにより、アッヘンヴァル侯爵家のみならず帝国に大きな災いをもたらしたことくらいは感じ取れた。
あの後、ヘルマンを取り巻く環境は一変してしまったから。
神使レシェフモートに殺されかけた後、息も絶え絶えのヘルマンは表の宮殿の一室に運ばれた。治癒魔法使いの治療のおかげで助かったが、意識を取り戻してからも侯爵邸への帰還は許されず、母ティアナが見舞いに来てくれることもなかった。……父が来てくれることは、最初から期待していない。
数日、子どもの感覚では数十日にも等しい時間を軟禁された末、迎えに来たのは祖父のアッヘンヴァル侯爵だった。
険しい顔を見た瞬間、やっと帰れる嬉しさは吹き飛んでしまった。ヘルマンは祖父が苦手だ。暴力や暴言を浴びせられたわけではないが、ヘルマンがなにをしても誉めてくれず、『その歳で上っ面の剣術なぞ習う必要はない』だの『基礎もできておらぬのに剣を振るっても意味はない』だのわけのわからないことばかり言い、愛する母ティアナにも冷たく、『ヘルマンを甘やかすな』と罵倒してばかり。
『屋敷に帰ることは許さん。今日からお前はヴォルフラム殿下に小姓としてお仕えするのだ』
皇太子になるはずだったヘルマンが、欠陥品皇子の小姓……臣下に?
衝撃で声も出ないヘルマンに、アッヘンヴァル侯爵は淡々と告げた。皇妃ガートルードに害をなした罰として今後、成人までの間、皇宮主催の公式行事への参加を禁じられたこと。アッヘンヴァル侯爵家の取り潰しもありえたが、ガートルードのとりなしで、ヘルマンがヴォルフラムに謝罪すれば良しとされたこと。
『嫌だ!』
反射的に叫んだ直後、すさまじい衝撃と共に視界がぶれ、ちかちかと火花が散った。頭に拳骨を落とされたのだと理解したのは、脳天がずきずきと痛みだしてからだ。
『まだ、反論が許される身分だと思っておるのか?』
たまらずしゃがみ込んでしまったヘルマンを見下ろす侯爵の目に、肉親の愛情はかけらもなかった。
『お、俺のお母様は、フォルトナー公爵家の娘だぞ!』
いつもなら、ヘルマンがそう言えば誰もが恐れ入ってひざまずいた。現皇帝アンドレアスの従妹でもある母から、ヘルマンは皇族の血を引いている。いつ皇太子に指名されてもおかしくない身分なのだ。
しかしアッヘンヴァル侯爵は、不快そうに眉をひそめただけだった。
『だからどうした』
『えっ……?』
『ティアナはニクラスと離縁し、実家に帰った。今後、お前に関わることはない』
(お母様が、離縁? ……俺を置いて?)
寝耳に水の情報をヘルマンが呑み込めずにいるうちに、入ってきた侯爵家の騎士が大きな布包みを差し出した。中に入っていたのはヘルマンも何度か見かけた侍従のお仕着せを、動きやすいよう子ども用に手直しした衣装だ。つまりは、使用人の制服である。
『無礼者! こんなものを俺に着ろというのか!?』
かっとなったヘルマンは騎士の横っ面目掛け、拳を振り上げた。生意気な使用人には痛みを伴う罰を与える。それが愛する母ティアナの教えだったから。
しかしいつもなら無抵抗のまま殴られるはずの騎士は、ヘルマンの腕をさっとひねり上げ、勢いを殺しながらころんと床に転がした。
ぼうぜんとするヘルマンに、アッヘンヴァル侯爵は手を差し伸べようとすらしなかった。
『なにをしている。さっさと着替えろ』
『お、お祖父様!? なぜこの者を罰してくださらないのですか!?』
『侯爵家にかろうじて身分を保証されているだけの子どもが、一人前の騎士に楯突き、振り払われた。それだけのことをなぜ罰するのだ? むしろお前は、無礼討ちされなかったことを感謝すべき身であるというのに』
祖父は冗談など口にするような人間ではない。
わかっていたが、この時ばかりは冗談だと思いたかった。だってヘルマンは皇族の血を引く尊い貴公子で、いずれは伝説の騎士になる少年なのだ。侯爵家の騎士よりも格下だなんて、そんなのありえない。
だがいつまで経っても祖父は否定してくれず、当の騎士も無表情のまま沈黙していることで、ヘルマンは自覚せざるを得なかった。今の自分は一介の騎士よりも劣る存在……痛みを伴う罰を与えられる側なのだと。
がっくりとしたヘルマンはのろのろと用意された制服に着替え、引きずられるように奥の宮殿へ向かい、ヴォルフラムに頭を下げた。生まれて初めての屈辱を噛み締めながら。
……それは、始まりに過ぎなかったのだが。
『あれがアッヘンヴァル侯爵家の出来損ないか』
『武門の名家の血も、恥知らず女の血には勝てなかったようだな』
『よくも皇子殿下の小姓など務められるものだ。面の皮の厚さは母親譲りか』
『皇族の血を引く侯爵家の貴公子』から『侯爵家に身分を保証されているだけの小姓』に落ちたヘルマンに、周囲は冷たかった。否応なしにヘルマンは知っていく。誰も教えてくれなかった事実を。
父が結婚するはずだった恋人から父を奪い、公爵家の権力を振りかざして結婚した母ティアナが恥知らず女と陰口を叩かれていること、それだけではない。
自国から泣く泣く輿入れさせた王女を殺されかけたとシルヴァーナ王国が怒り狂い、ガートルードの離婚とヘルマンの身柄の引き渡しを求めてくるだろうことや、アッヘンヴァル侯爵家の取り潰しがガートルードの口添えによって回避されたことも。
嘘だと思いたかった。幼いヘルマンの世界のすべてであった母ティアナが恥知らず女であることも、侯爵家の窮状の元凶が自分であったことも、交渉の結果次第ではシルヴァーナ王国に引き渡される可能性が高いことも。
けれどあれほど多くの人々の口から出る話が、嘘だとは考えづらい。彼らがヘルマンをたばかる理由もない。
……今ではヘルマンもさすがにわかっていた。たとえシルヴァーナ王国に引き渡されるまでの間であっても、使用人としてでもある程度の自由を許されているのは、ガートルードのおかげなのだと。
でも――。




