86・父子(第三者視点)
魔獣を生み出す魔沼の上に建てられた皇宮。
百年の時が経ち、地上に湧き出た魔沼。瘴気を蓄積させてしまう皇子。
(ただの偶然とは思えない。絶対、なにかでつながっている)
アンドレアスもきっと知っていたはずだが、本人に問いただすことが叶わない以上、自分で真実にたどり着くしかない。
「……殿下。落ち着いてお聞きください」
リュディガーがアンドレアスと同じ翡翠の瞳に真摯な光をにじませる。
「今までの陛下は、私の幼なじみでもあったアンドレアス様ではありませんでした。おそらくは皇后陛下と婚儀を挙げられたころからずっと……、アンドレアス様ではないなにかに、むしばまれていらした……」
「……っ……、なぜ、そんな……」
「思い返してみれば……前の婚約者エリーゼ嬢が亡くなったころから、その兆候はあったのです」
父である先帝ルドルフが長兄を差し置いて帝位に就き、惰弱帝とさげすまれたからこそ、自分だけは弱みを見せてはならない、誰よりも皇帝らしくあらねばならない、とアンドレアスは己に課してきた。それは従弟であり幼なじみであったリュディガーが一番よく知っている。
そんなアンドレアスなら、公爵令嬢であったエリーゼの次の婚約者には、最低でも侯爵家以上の家から本人の素質も後ろ楯も申し分のない令嬢を選んだだろう。
最有力候補はリュディガーの妹であり、もう一人の公爵令嬢でもあるティアナだった。本人の素質はともかく皇家の血を受け継ぎ、後ろ楯は申し分なく、義兄となるリュディガーは帝国随一とうたわれる騎士。
アンドレアスならティアナ本人が欠点だらけなのにも目をつむり、ティアナを選ぶかもしれない。その時は義兄として全力で支えよう。むろんティアナが選ばれなくても、一番の味方であり続ける。
そう思っていたリュディガーにとって、コンスタンツェを皇后に据えるというアンドレアスの決断は青天の霹靂だった。中級貴族に過ぎない伯爵令嬢で、元エリーゼの護衛騎士。周囲の猛反発と軋轢しか生まないと、アンドレアスならわかっていたはずなのに。
「……今にして思えば、私もおかしくなっていた。いえ、思考を放棄してしまっていたのでしょう。本当にアンドレアス様のためを思うなら、皇后陛下に一服盛ってでもお二人の婚儀を阻止すべきだったのですから」
翡翠の瞳に罪悪感がよぎる。
コンスタンツェが毒を盛られ死んでいたなら、ヴォルフラムは生まれてこられなかった。ヴォルフラムの存在を否定するも同然だと後ろめたく思ったのかもしれない。
ヴォルフラムは首を振った。
「気にしないでください。私もそう思っていますから」
「ヴォルフラム殿下……」
「それに私も、先ほど皇帝陛下に皇帝廟へ行けと言われた時からずっと考えていたのです。……陛下の言動には一貫性がない。まるで陛下という人間が二人存在するようだと」
はっ、とリュディガーが息を呑む。
「殿下も……、ですか」
「はい。ですから皇帝陛下が陛下ではないなにかにむしばまれていたのだと聞き、納得がいきました」
わからないのは、アンドレアスをむしばんでいたものの正体……そしてなぜ今になってアンドレアスがソレの支配を免れたのか、だ。
死に際の人間は、時折、医師でも驚嘆するほどの強さを発揮することがある。肉体が死に瀕し、抑え込まれていたアンドレアス本人の意識が解放されたのだろうか。だとしたら、今までアンドレアスを支配していたソレはどうなっているのか?
「……殿下はやはり、アンドレアス様の御子でいらっしゃいますね」
リュディガーが険しかった目元を和らげた。
「物事を筋道立てて考え、推察する能力に長けていらっしゃる。アンドレアス様もそうでした」
「そのようなこと……、初めて言われました」
「これからはきっと、何度も言われるようになるでしょう」
アンドレアスの死後、彼を偲ぶ者たちに――とは、リュディガーは口にしなかった。けれどその沈痛な横顔には深い悲しみが漂い、リュディガーが年上の幼なじみをどれほど大切に思っていたのかを教えてくれる。
「フォルトナー卿は、なぜ、皇帝陛下が本当の陛下ではないと気づかれたのですか?」
ヴォルフラムの純粋な疑問にリュディガーは眉根を寄せ、はあ、と息を吐いた。
「アンドレアス様が私を、『リュディ』と呼ばれたからです」
『頼む……、……リュディ……』
「幼いころ、私はジーク……ブライトクロイツ卿からはリューと、アンドレアス様からはリュディという愛称で呼ばれていました。リューはともかくリュディは女性にもある名前ですから、幼い私はどうにも気恥ずかしくて、リュディと呼ぶのをやめて欲しい、とアンドレアス様にお願いしたのです」
少年だったアンドレアスは『可愛いからいいじゃないか』と渋っていたものの、リュディガーが本気で嫌がっていると悟ったのか、不承不承やめてくれたという。
けれど、その代わり。
「『その代わり、いつか俺がどうしても聞いて欲しい願い事ができたら叶えてくれよ』と……あの出来事は、私とアンドレアス様しか知りません」
「そんなことが……」
「ブライトクロイツ卿の言う通りでした。目に見えるものがすべてではなかった。時折覚える違和感を、もっと深く追究しなければならなかったのに。そうすれば……」
うつむきかけ、リュディガーは顔を上げた。後悔するのはすべてが終わってからでも遅くないと、ヴォルフラムと同じことを思ったのかもしれない。
(皇帝陛下……)
リュディガーから在りし日の思い出を聞かされるたび、『現世の父親』という記号でしかなかった存在が現実の血肉をまとっていく。
アンドレアスは生きた人間だった。生きていたからこそ死んでゆく。医師として数えきれないほど対峙してきたはずの普遍の真理が、ヴォルフラムの胸を揺さぶる。
(……今さら……)
リュディガーが気遣わしげにこちらを見ているのに気づき、ヴォルフラムは喉奥からこみ上げてくる熱いなにかを呑み込んだ。
「今はただ、前に進みましょう。……口惜しいですが、私はいまだ満足に戦えぬ無力の身。フォルトナー卿だけが頼りです」
「お任せください。アンドレアス様のためにも、殿下の御身は必ずお守りします」
リュディガーは力強く頷き、ですが、と翡翠の双眸を細める。
「殿下は決して無力ではありませんよ。治癒魔法でアンドレアス様を救われたのですから」
「……救ってなどいません。ただ、亡くなるまでの時間を稼いだだけです」
自分がもっと優れた才能の主であれば、目の前の患者は助かったかもしれない。前世でも味わった苦い思いを、今生でも噛み締めることになるとは思わなかった。
『どうして助けられないのか』
コンスタンツェの責めるような眼差しが、前世の患者の家族のそれに重なり。
「いいえ。殿下はアンドレアス様を救われました」
リュディガーの優しい眼差しに打ち砕かれる。
「殿下がアンドレアス様に与えられた時間は、アンドレアス様にとっては宝玉よりも貴重なひとときでした。それがあったからこそアンドレアス様は殿下に後事を託し、私にも大切なことに気づかせてくださった」
「……っ、……」
「アンドレアス様は殿下に深く感謝なさっているはずです。……もちろん、この私も」
つん、と目の奥が痛くなり、熱いなにかが溢れそうになる。
(なんだ、これは)
人前で泣きそうになるなんて、小さな子どもではあるまいに。前世、本当の幼児だった頃にも、泣いたことなんてなかったのに。
「……当然のことをしただけ、ですから」
ふいっとそむけた顔は真っ赤に染まっていたが、リュディガーは見ないふりをしてくれた。