85・この世で一番憎たらしい泥棒猫(第三者視点)
ブライトクロイツ公爵――否、新皇帝クラウスとジークフリートが出ていってしまうと、寝室は再びコンスタンツェとアンドレアスだけになった。
弱々しい呼吸をどうにか紡ぐだけのアンドレアスは、遠からずみまかってしまうだろう。
ヴォルフラムもリュディガーと共に去った。最期の瞬間は夫婦二人きりで迎えることになる。コンスタンツェが望んだ通り。
新皇帝クラウスは必ずガートルードを引っ立ててくると約束してくれた。コンスタンツェが望んだ通り。
魔獣の混乱が鎮まり、忌まわしいあばずれが二目と見られぬ醜女になれば、誰もがコンスタンツェを帝国で最も高貴で美しい淑女と褒め称えるだろう。コンスタンツェが望んだ通り。
(全部、私の望んだ通り、なのに)
『満たされないのね?』
耳元で、かすかに幼さの残る甘い声音が空気を揺らした。ばっと振り返れば、長い黒髪の少女がにこりと微笑みかけてくる。
コンスタンツェの頭上から。ふんわりと宙に浮かんで。
蜂蜜色の瞳。白いフリルのドレスが誰よりも似合う、砂糖菓子のように甘く可愛らしい少女。
「……エ、リーゼ、様……」
夢に現に現れ、その痕跡を刻み、コンスタンツェを苦しめてきたかつての主人。アンドレアスが気にかけてそばにいてくれるようになってからは、一度も現れていなかったのに。
『もう、貴方はわかっているのでしょう?』
「……な、にを……」
『なにをしたって貴方は満たされない。アンドレアス様を看取っても、皇妃をなぶっても、周囲の称賛を浴びても。……だって』
(……嫌! 聞きたくない!)
コンスタンツェはとっさに両耳をふさぐ。
だがエリーゼのとろけるように甘い声は、ねっとりと鼓膜に絡みついてくる。
『だって誰も、貴方を見ていないのだもの』
「っ……!」
『アンドレアス様にとって貴方は一番ではなかった。ヴォルフラム皇子は皇妃しか見ていない。貴族たちも貴方より皇妃が皇后になるべきだと思っている』
「い……、……嫌、やめて……」
コンスタンツェは弱々しく首を振り、後ずさる。胸元のリボンを揺らし、エリーゼはささやいた。
『かわいそうなコンスタンツェ』
甘い、甘い声音が胸に突き刺さる。
『あれほど尽くしたのに、努力したのに、貴方はどこでも嫌われ者。皇后でなくなった貴方なんて、きっと見向きもされないわ』
そんなの、わかっている。
コンスタンツェが周囲に疎まれつつも最低限の敬意を払われてきたのは、皇后の座にあり、皇帝の寵愛を受ける唯一の存在であり、世継ぎの皇子の生母であったからだ。
すべてが失われてしまえば、誰もコンスタンツェをかえりみなくなる。
わかっていた。
わかっていた、のに。
(……どうして私は、あんなことを、したのかしら?)
――コンスタンツェ、貴方は周囲の妬みと恨みを一身に背負って輿入れするのです。その上でなお皇帝陛下をお支えしたいと願うなら、皇后の地位に決して傲らず、周囲への感謝を忘れないこと。
記憶の奥底から、懐かしい声が聞こえてくる。あれは……母だ。自分もまた騎士であった母は、最後までコンスタンツェが皇后に立つことに反対していた。
――どんなに理不尽な言いがかりであっても、ありがたい忠告だと謙虚に受け止め、頭を垂れなさい。そうすれば、長い時がかかっても、周囲はいずれ貴方を皇后として受け入れてくれるでしょう。
輿入れ前、母はこんこんとコンスタンツェを諭した。コンスタンツェは母の教えを第一に、伯爵令嬢でありながらあまたの高位令嬢を差し置き、かつての主人の婚約者に嫁ぐ己の分をわきまえ、謙虚であろうとしたのだ。
それなのに。
(どうして、あんな、ことを?)
ガートルードにしてきた仕打ちの数々がよみがえり、コンスタンツェは身を震わせる。
我が子ヴォルフラムのため、人生も女の幸せも台無しにされてしまう少女だ。せめて母親代わりとなって慈しもう、どんな災厄からも守ろう、一生かけて恩を返そう。
そう誓ったはずなのだ。王国の急使から、ガートルードがヴォルフラムの身を案じてくれたと聞かされた時に。
なのに。
(どうして?)
『わたくしがいるわ』
労働を知らない白い手が、コンスタンツェの頬に触れる。
長らく忘れていた感触だった。エリーゼの死はあまりに突然で、誰にも死に顔を見せたくないと本人が望んでいたからと、棺にすら近寄らせてもらえなかったのだ。
『わたくしだけは、貴方を憎み続けてあげる』
「……エリーゼ様……」
『だって貴方はわたくしの愛しいアンドレアス様を奪った、この世で一番憎たらしい泥棒猫だもの』
この世で一番。
甘いささやきがコンスタンツェの脳に染み込んでゆく。
「ああ、エリーゼ様……」
首筋に這わされたエリーゼの手に、コンスタンツェは己のそれを重ねる。
その目に、夫は映っていなかった。
一方、皇帝の寝室を辞したヴォルフラムとリュディガーはまっすぐ皇妃の宮殿を目指さず、まずはヴォルフラムの部屋に戻ることにした。お互い、大舞踏会のための正装に身を包んだままでは動きにくくてたまらないし、道中魔獣と戦う可能性をかんがみれば、リュディガーも儀礼用ではない剣を確保しておきたいという。
ヴォルフラムの部屋には、コンスタンツェが実家から献上させた剣やら槍やらが何本も収納されている。ヴォルフラムが成長したら使わせるつもりだったらしいが、緊急事態だ。リュディガーに使われた方が武器も喜ぶだろう。
「ひどいものでした」
ヴォルフラムが中の宮殿の状況を尋ねれば、リュディガーは端整な顔を悲痛にゆがめた。
「大舞踏会の会場のみならず、宮殿のいたるところに魔沼が湧き、這い出てきた魔獣どもが手当たり次第に人間を襲っております。大舞踏会の参加者は私たちが奥の宮殿に向かう前、対魔騎士団と近衛騎士団で二階へ誘導し、なんとか守れておりますが……」
今のところ、魔沼が湧くのは地面に接した一階フロアのみ。二階に籠城すれば魔獣の侵入経路を絞れるため、比較的少人数でも守れる上、交代で休憩を取ることもできる。
しかし、中の宮殿にもある程度の食料は備蓄してあるが、騎士たちが命がけで取りに行かねばならないし、何百人もの参加者を何日も養えるほどの量はない。いずれ飢えに苦しむことになる。
それでも、大舞踏会の参加者はまだ幸運だ。
会場の外で働く使用人たちは、突然湧いた魔沼から現れた魔獣にわけもわからぬまま襲われ、貪り喰われてしまった。幼いヴォルフラムを慮ってか、リュディガーは詳しくは語らなかったが、相当ひどい状態の遺体を何体も目撃したのだろう。
「おそらく表の宮殿も……いえ、皇宮全体が同様の事態に陥っているはずです。皇妃殿下の宮殿だけは無事でしょうが……」
それが今回、唯一と言っていい幸運だろう。
ガートルードは破邪の力を持つシルヴァーナの直系王女であり、女神の愛し子であり、なにより神使レシェフモートが付いている。魔獣は彼女を脅かせない。
「皇妃殿下がいらっしゃるにもかかわらず魔沼が湧いたのは、皇宮の建設前から存在していたせいだろうとジーク……ブライトクロイツ卿が申しておりました」
「……そうか。対魔騎士団の団長がそう申すのなら、確かなのだろうな」
ずく、と胸の奥の硬い感触が疼く。
『不朽の屍櫃』にはこれからの帝国とヴォルフラムに役立つものが入っていると、アンドレアスは言った。それがもし、この状況を……魔沼と魔獣を駆逐するためのものだとしたら。
アンドレアスは己の死ばかりか、魔沼の発生まで予測していたということではないか……?