10・転生ものぐさ王女、異形の獣を手なずける
「子どもを育てる義務を負うのは、産んだ親です。一番最初に生まれたからという理由だけで、他の子どもを養育しなければならない義務などありません」
レシェフモートは断言する。
「……で、でも、佳那がお世話しないと、弟や妹たちは」
「死ねばいいでしょう」
またもやレシェフモートは断言する。何のためらいもなく。
「親に育ててもらえない子は命を落とすのが自然の掟です。生きるための運が足りなかった、それだけの話です。人間だけが例外であるべき理由など存在しない」
「……運が、足りなかった……」
「死ぬべき運命を、前世の貴方のきょうだいは貴方を犠牲にすることで生き延びた。にもかかわらず何の感謝もせず、貴方が疲れ果てるまで酷使した。自分たちが自力で食べていけるようになっても、なお」
そんなことはない。
独立して家を出た弟妹たちは、少しでも家計の足しにして欲しいと、時折送金をしてくれた。両親は一番下の子が小学生になるころにはほとんど家にお金を入れてくれず、佳那がパートで稼ぐしかなかったから、ずいぶん助けられたのだ。
(……でも、育児を助けてはくれなかった)
思春期だったり反抗期だったり、難しい年ごろの弟妹の面倒をみるのは佳那だけだった。たぶん独立した弟妹たちは、佳那が彼らの母親だと思っていたのだろう。良くも悪くも。
慕ってはくれたが、母親なら子どものために尽くすのも当たり前だと思っていたのだ。
(わたしが産んだわけじゃないのに)
(わたしが望んだわけじゃないのに)
(……あの子たちが生まれなければ、わたしはわたしのために生きられたのに)
愛おしいのと同じくらい憎らしかった。忘れかけていた――忘れようとしていた感情が、ガートルードになってからの年月でふさがっていたはずの傷口からどろりと流れ出る。
醜いはずの感情すら尊いとばかりに、レシェフモートは甘く微笑む。
「何てお可愛らしいお方」
この化け物は頭がおかしい。
猜疑心と嫌悪のありありとにじむ顔を、レシェフモートは今までで一番愛しげに見つめる。
「大罪人どもは許しがたいですが、そのおかげで私は貴方に受け入れて頂けるのでしょう?」
ひきつった頬を大きなてのひらがうっとりと撫でる。
「貴方の魂は傷つき、よどみ、ゆがんでいる。ならばこそ、この私が付け込む隙があるというもの」
「……化け物」
「今さら何をおっしゃっているのですか?」
カサカサと、蜘蛛の脚がうごめく。四対の脚は鍛えられた人間や馬でも越えられない険しい山岳さえ、やすやすと飛び越えてしまうだろう。
「女神の血を与えられようと、私の本質は獣なのですよ。隙あらば付け込み、欲しいものをむさぼるのが本性です」
「……っ……、本当に、わたしでいいの? わたしは女神シルヴァーナでも、本物のガートルード王女でもないのよ?」
そんなことを聞いてしまったのは、遅ればせながらこの化け物の恐ろしさの断片に触れて尻込みしたせいかもしれない。
「貴方がいいのです」
化け物は人間には決してできない、まがまがしさと慈愛の入り交じった笑みを浮かべる。
「傷つきよどみゆがんだ貴方に、私は侍りたい。……それに貴方は女神ではないとおっしゃいますが、私にはそうは思えないのですよね」
「……? どういうこと?」
ガートルードの肉体には女神シルヴァーナの血が流れているが、もちろん女神その人でも、女神の末裔というわけでもない。櫻井佳那もごく平凡な人間だった。
「貴方の前世の世界ではどうかはわかりませんが、少なくともこの世界において女神とは、神々の世界……すなわち異なる世界より降臨した異質な存在を指しますから」
「異なる世界より降臨した、異質な存在……」
異なる世界というのが単にこことは違う世界、つまり前世のガートルードが生まれ育った世界も含むのなら、確かに三年前の事故以降……佳那の魂が宿ったガートルードは、レシェフモートの定義では女神ということになる、のかもしれない。
(わたし、女神様だったの?)
「……あるいはシルヴァーナが私を……ために、いや……」
ぼうぜんとするガートルードをしっかり抱いたまま、レシェフモートが何やらつぶやく。
よく聞こえなかったので首を傾げたら、にこりと微笑まれた。
「愛しいお方。我が女神は今日この時より貴方だけです。……御名をお呼びすることを、許して頂けますか?」
「え、ええ」
「……ガートルード様」
人語を解する魔獣の王の名前を呼び、自分の名を呼ぶことを許すのは、その王との契約を意味するのだと――不老不死のレシェフモートと寿命がつながったのだとガートルードが知ったのはだいぶ後だ。
この時ガートルードが感じたのは、自分を抱く男と鼓動が重なる感覚だけ。
「我が女神ガートルード様。このまま我が神域にお連れし、お世話申し上げたいところですが……」
「あ、それはダメ」
ガートルードとしては食っちゃ寝ライフを満喫できるのならレシェフモートの神域でも皇宮でも構わないのだが、ガートルードが姿を消せば帝国は姉女王を責めるだろう。シルヴァーナ王国にはもう身代わりになれる王女はいないのだ。
「わたしは帝国に行って、ヴォルフラム皇子を瘴気から守ってあげなきゃならないの。だからフォルトナー卿のところへ戻らなくちゃ」
リュディガーやエルマたちはきっと、連れ去られたガートルードを血眼になって探しているはずだ。ガートルードが見つからなければ、彼らは故郷へ帰れない。
「他人の力を借りなければ生きられぬ者は、早晩死ぬ定めです。捨て置かれては?」
「人間のしがらみっていうのは、そう簡単なものじゃないのよ。……だからね、こういうのはどう?」
思いついた名案を、ガートルードはレシェフモートに打ち明ける。
レシェフモートが不承不承ながらも受け入れたことで、ガートルードの新たな食っちゃ寝ライフ計画は始動した。
(うふふ、どうなるかと思ったけど、帝国皇帝と元魔獣の王がスポンサーになってくれれば、わたしの食っちゃ寝ライフはますます万全よ!)
「姫君! 姫君ーー!」
ガートルードと謎の異形が共に姿を消してから、リュディガーはエルマたちと共にあたり一帯を探し回っていた。途中から騒ぎを聞きつけたシルヴァーナ神殿の神官たちまで加わっての大捜索になっている。
(……私は、何ということを……)
神官からもたらされた情報が、リュディガーの焦燥を倍増させる。
ガートルードの両親――先代女王とその王配が馬車の事故で亡くなったことは知っていた。しかしガートルードも同乗していたこと、事故が起きたのがちょうどこのあたりだということは神官に教えられて初めて知ったのだ。
(だから王太女はあれほど輿にこだわっていたのか)
単なる帝国への嫌がらせではなかったのだ。
ガートルードが同乗していたことや、事故の現場を伏せていたのは国家としての判断だろう。大きな傷でも負ったと思われれば、たとえ無事だったとしても、未婚の王女の未来に暗雲がたちこめる。神聖なるシルヴァーナ神殿のお膝元で女王夫妻が命を落としたことも、王国としては隠したいだろう。
だがガートルードの輿入れに当たり、おそらく帝国にはそのあたりの事情が通告されたはずなのだ。
知っていれば、いくら急いでいるとしても、リュディガーは輿での移動を選んだだろう。異国へさらわれていく幼い姫が、両親を亡くした場所を同じ馬車に乗って通過させられるなんて、鬼畜の所業としか思えない。
たぶん最初にその事情を知らされた帝国側の人間が……おそらくは外務大臣かその配下が、意図的に伏せたのだろう。ガートルードを一日でも早く連れて来させるために。
(確か外務大臣は、コンスタンツェ皇后陛下の親族だったはず)
ヴォルフラムを絶対に死なせたくない派閥の一人だ。皇子の延命のためならば、他国の王女の心ごとき踏みにじってもいいと考えたのか。
(腐れ外道め)
馬車に乗り込む前、ガートルードは事情を明かせたはずだ。それでも何も言わずに乗り込んだ。苦しむヴォルフラムを救うために。
縁もゆかりもない皇子を救おうと、つらい記憶を呑み込んでくれたガートルード。自らの利のためだけにガートルードの心を蹂躙した外務大臣。
比べれば比べるほど、帝国の人間であることが恥ずかしくなってくる。きっとエルマ以外の侍女を下ろしたのは、多くの者に醜態をさらさないためでもあったにちがいない。
「団長」
神官たちと神殿周辺を捜索していたエルマが戻ってきた。おっとりした顔には疲労が色濃く浮かんでいる。
神官から事情を教えられ、すべての騎士たちが必死になってガートルードを探しているが、エルマは我が子を見失った母熊のようなありさまだ。
「姫君は?」
「申し訳ありません。いまだ何の手がかりもなく……ですが、最年長だという神官から気になる情報を入手しました」
その老神官によれば数十年前、彼がまだ神官になったばかりのころ、お使いの帰りに異形の獣と遭遇したのだという。
銀の毛並みに狼の胴、蜘蛛の脚……きっとガートルードをさらったあの獣だ。あんな獣が他にいるとは思えない。思いたくない。
「獣はたった一頭で魔獣の群れを蹂躙し、殲滅していたそうです」
「……魔獣の群れ、だと?」
ありえない話だった。国境に近いとはいえ、ここはまだシルヴァーナ国内――女神シルヴァーナの血を引く王族の破邪の力が行き渡っているはずの領域だ。
実際、帝国の領土内ではひんぱんに遭遇した魔獣の群れがシルヴァーナ国内に入ったとたん現れなくなり、シルヴァーナの威光に驚かされたものである。
しかもここはシルヴァーナ神殿のお膝元だ。魔獣の群れなど、現れるわけがない。
けれど老神官が、神殿の権威が揺らぎかねない嘘をつくとも思えない。国のため幼い身を差し出した王女を救うためならばと、胸に秘めていた情報を明かしたのだろう。
(では魔獣が現れなかったのは王族の力ではなく、あの獣が退治していたからだったのか?)
獣が王都近辺まで出張ってくるとは思えないから、おそらく王都周辺は王族の力で守られているのだろう。だが辺境の安寧がかの獣によって保たれていたというのなら。
(あの獣は、もしや……)
「……っ!?」
リュディガーが思考の沼に嵌まりかけた時、視界を白銀の光が埋め尽くした。
とっさに閉じてしまった目をそろそろと開けば、じょじょに弱まっていく光の中心から、二人の人物が現れるところだった。おお……、と騎士たちからどよめきが漏れる。
現れたのはガートルードと、彼女の小さな手をうやうやしく取った長身の青年だった。
神々との縁を示す長い銀色の髪をなびかせ、金色の双眸を愛おしそうに細めている。
帝王然とした美貌はリュディガーの主君である皇帝アンドレアスよりも覇気に満ち、褐色の肌と異国風のゆったりした衣装がいっそう気品あふれる魅力を引き出していた。どこかの国の王だと名乗られれば、誰もが信じるだろう。
その青年にかしずかれたガートルードは乱暴を働かれた形跡もなく、それどころかさっきまでよりもなお神秘的な輝きを放っていた。微笑まれるだけでひざまずきたくなるような。




