1・ことの発端と苦悩の女王(第三者視点)
シルヴァーナ王国の王都、ルナフレア。
女神シルヴァーナが手ずから削り出したとも伝わる月光石の王宮――その最奥に位置する女王の私室は、ほとんどの王族とその側仕えが集められているにもかかわらず、しんと静まり返っていた。張りつめた空気は少しでも刺激すれば弾けてしまいそうだ。
「お待たせいたしました、陛下」
そこへ入ってきた一人の老婦人が、ソファに深く身を沈めたクローディア女王に淑女の礼を取った。彼女は女王の乳母を務めた女性であり、王宮治癒師長の妻でもある。
「フローラは、どうでしたか」
二十二歳の若き女王の顔は青ざめ、いつも絶やさない慈愛に満ちた笑みは不安の表情に取って代わられていた。
白い繊手を祈るように組み合わせる女王を両隣から心配そうに支えるのは、女王の妹王女二人。第二王女ドローレスと第三王女エメラインだ。
白百合のごとく華やかで気高い女王、白薔薇のごとく凛としてあでやかなドローレス、白木蓮のごとく清楚で知的なエメライン。
姉妹の美貌はそれぞれ趣が異なるが、銀色の髪と淡い金色の光をちりばめた碧眼の主であることは共通している。女神シルヴァーナの血を引く証であり、シルヴァーナ王家の直系女子にしか出ない色彩だ。
敬愛する養い子を痛ましそうに見やり、老婦人は重々しく答えた。
「……第四王女フローラ殿下は、ご懐妊なさっておいでです」
「ああっ……!」
女王はてのひらで顔を覆い、ドローレスは白い頬に朱を注ぎ、エメラインは悲痛に眉をひそめた。第四王女フローラは彼女たちの妹姫。二十歳のドローレス、十八歳のエメラインに対し、フローラは十五歳とやや歳が離れており、姉王女たちから見れば庇護の対象だったのだ。……たとえ色々と足りないところのある妹であっても。
だがそのフローラの懐妊を、三人の姉の誰も喜んではいない。拳を震わせているドローレスなど、目の前にフローラがいたら掴みかかりそうな勢いだ。
やっと成人を迎えたばかりの、フローラの年齢が問題なのではない。シルヴァーナの王族は基本的に早婚で、なるべく早いうちに子をもうけることを求められる。ましてや今の王家の状況はやや特殊であるため、女王の姉妹が子をもうけること――王族を増やすことは、本来なら慶事なのだ。
問題なのは、シルヴァーナ王国を取り巻く現在の情勢だった。
シルヴァーナ王国の始まりは、一人の乙女だったという。乙女は大陸を我が物顔で跋扈する魔獣を卓越した剣と弓の腕前で倒し、弱き人々を救っていた。
その人間離れした強さと気高い精神を見初めたのが、破邪の女神シルヴァーナだ。
女神シルヴァーナは乙女の崇高な行いを賛美し、己の血を数滴乙女に与えた。すると乙女には女神の力のかけら――邪悪なるものを寄せつけず浄化する破邪の力が備わり、乙女の周囲には魔獣が近寄れなくなった。人々に恐れられる大型魔獣すら、乙女の剣の一振りでやわらかいバターのように切り裂かれてしまう。それは魔獣に苦しめられる人々にとって、希望の光だった。
乙女はやがて己を慕う人々をまとめ上げ、国を造り上げた。シルヴァーナ王国の始まりだ。
以来七百年近くの間、大陸ではあまたの国々が興亡したが、シルヴァーナ王国は小国ながら独立を保ち続けた。乙女の直系女子だけが銀色の髪と黄金を散らした碧眼と共に受け継ぐ破邪の力は、いまだ魔獣が滅びていない大陸の人々にとって、神聖にして不可侵の存在だからだ。
しかし女神の破邪の力が通用しないモノもいる。
――人間である。
百年ほど前、東方で興った小さな国は瞬く間に周辺諸国を呑み込み、女王の母である先代女王のころには帝国と呼ばれる一大勢力にまで成長した。現在はソベリオン帝国を称している。
当代の皇帝アンドレアスは女王とさして変わらぬ若さながら知力と武力を兼ね備えた名君と称えられ、シルヴァーナの十倍はあろうかという領土をつつがなく統治している。成り上がりとさげすむ者も多いが、人格はいたって円満であり、民からも臣下からも慕われているそうだ。
そのアンドレアスこそが、シルヴァーナを揺るがせた張本人なのだ。正確にはその息子であるヴォルフラム皇子だが。
『シルヴァーナの王女を我が皇妃にもらい受けたい』
半年前、アンドレアスはとつじょそう申し入れてきた。
アンドレアスにはすでに正妻が、皇后がいる。幼なじみの令嬢だったコンスタンツェ皇后だ。皇帝夫妻の仲睦まじさは帝国中に知れ渡り、良くも悪くも語り草になるほどだという。
二人の間には三年前、皇子ヴォルフラムが生まれている。待望の世継ぎの皇子こそが、アンドレアスがシルヴァーナの王女を皇妃に望む理由だ。
魔獣はその呼気から、人体に有害な瘴気を発生させる。瘴気は空気に溶け込み、人間の領域にも漂っているが、健康な人間なら何の問題もない程度だ。
しかしヴォルフラムは生まれつき病弱な上、瘴気を異常に取り込んでしまう体質の主だった。しかも取り込まれた瘴気を何倍にも濃縮し、体内に蓄積してしまう。さらに悪いことに、帝国には強力な魔獣の群れの住処となり、人間が踏み込めない『不入の地』が他国より格段に多い。
ヴォルフラムが倒れるたび皇宮専属の破邪魔法使いが浄化するのだが、破邪魔法使いは非常に数が少なく、皇宮にも三人ほどしかいない。しかも浄化には膨大な魔力を必要とするため、三人で交替しても、ヴォルフラムの身体がもたなくなるぎりぎりのタイミングでしか浄化を行えないありさまだ。うち一人は高齢により引退が近く、新たな破邪魔法使いは見つかっていないという。
追い詰められたアンドレアスは思いついた。破邪の力を持つシルヴァーナの王女がヴォルフラムのそばにいてくれれば、瘴気は浄化され、ヴォルフラムの体内にも取り込まれなくなるのではないかと。
実際、女王をはじめ何人もの直系女子を抱えるシルヴァーナに魔獣はいっさい近づかず、空気も周辺諸国と比べ物にならないほど澄んでいる。アンドレアスの予想は正しいだろう。
しかし、問題はどうやって王女を帝国に招くかだ。
一番差し障りがないのはヴォルフラムの婚約者になってもらうことだが、いつはかなくなるかもわからない、しかもまだ三歳の皇子の婚約者など、いくら帝国が強者であろうと無理強いできるわけがない。大陸全土の信仰を集めるシルヴァーナの王女相手に。
留学という名目で王女に滞在してもらう、という手もあるが、今回は使えない。王女にはヴォルフラムが生きている限り、ずっとそばにいて瘴気を浄化してもらわなければならないからだ。
ヴォルフラムがシルヴァーナで療養するのも、同様の理由で却下された。ヴォルフラムは帝国唯一の後継者なのに、シルヴァーナから離れられないのでは務めが果たせない。
そこでアンドレアスが思いついた苦肉の策こそ、王女を己の皇妃に迎えることだったのだ。
コンスタンツェという皇后がいる以上、皇妃といっても立場的には側室だ。夫たるアンドレアスから篤い敬意と感謝こそ与えられても、男女の愛情は絶対に与えられない。子を産むことも許されない。シルヴァーナの王女が産む子はヴォルフラムの立場を揺るがしかねないというのもあるが、妊娠出産で体調を崩し、ヴォルフラムのそばを離れられては困るからだ。
ヴォルフラムのそばを離れられないのだから、アンドレアス以外に思う相手ができても下賜という形で嫁ぐことも許されない。せいぜい愛人としてそばに侍らせるくらいだ。もちろん公には認められない関係である。
政治への口出しも許されない。ヴォルフラムが死ぬまで里帰りも許されない。里心がついては困るので家族とも会えない。
健康を取り戻したヴォルフラムの正妻に納まることも許されない。一度アンドレアスの側室になってしまった以上、王女とヴォルフラムは義理の親子とみなされるからだ。
王女に許されるのは、帝国が罪滅ぼしに与える贅を極めた暮らしに耽溺することだけ。
そんな屈辱的な申し出を、アンドレアスは厚顔無恥にも突きつけてきたのである。むろん王女が側室入りしてくれたあかつきには、帝国の最も富める港町の割譲や莫大な謝礼金、関税の免除、兵力の無償貸与など、ありえないくらいの報酬を支払うとも申し出てはきたが。
だからといってどうして、喜んで王女を差し出せようか。
他国に嫁ぎ国家の架け橋となるのは王女の義務ではある。シルヴァーナからも過去何人もの王女がその義務を果たすべく、他国へ旅立っていった。
だが帝国の申し出はあまりにひどい。夫にはすでに愛する正妻がおり、その正妻が産んだ子を生かすためだけに人生を捧げさせられるのだ。子を産み育てる女の喜びは一生味わえず、ただ皇宮という豪華な檻で朽ちてゆくだけ。
冗談は寝て言えと、姉妹の長女という立場では言下にはねのけてしまいたかった女王だが、主君の立場ではそうはいかなかった。
シルヴァーナとソベリオンは領土の面積だけでも十倍近い差があり、国力の差はさらに大きい。さらに百年近く戦い続けてきた帝国軍は大陸最強をうたわれ、人間の軍相手には負けなしだ。
シルヴァーナも小国にしてはそこそこの兵力を抱えてはいるが、帝国のそれには遠く及ばない。破邪の王族を抱えるシルヴァーナ軍の本領は、魔獣相手にこそ発揮される。
帝国が、アンドレアスがその気になれば、シルヴァーナなどものの一月もかからず焦土と化すだろう。もちろんそうなれば周辺諸国からの非難は免れないから、実際にはやらないだろうが、辺境から領地を削り取っていくくらいはやりかねない。実際、国境沿いに帝国軍がひんぱんに出現しては挑発するような動きを繰り返していると報告が上がっている。
その一方で、帝国からの正式な使者は数日置きにシルヴァーナを訪れている。あくまで女王の慈悲を乞う形ではあるが、慇懃な口調からは少しずつ余裕が失われており、ヴォルフラムの容態の悪化を窺わせた。
我が子のためシルヴァーナの王女に屈辱を強いるアンドレアスには、強い非難が集まっている。だがアンドレアスとてその程度は承知の上での申し出だ。ヴォルフラムの命がいよいよ危うくなれば、シルヴァーナの王宮に攻め入ってでも王女を奪い取るだろう。
国を、民を守るため、女王は非情なる決断を下さざるを得なかった。妹王女のうち、誰か一人を帝国へ差し出す――という。
母である先代女王ブリジットが早世したため、三年前、十九歳の若さで王位を継いだ女王には、四人の妹王女がいる。
第二王女ドローレス、二十歳。
第三王女エメライン、十八歳。
第四王女フローラ、十五歳。
第五王女ガートルード、六歳。
どの王女も女神の直系の証である銀髪と黄金の散った碧眼の主だ。
いずれも女王にとって可愛い妹だが、この中から帝国に差し出す生け贄を選ばなくてはならない。
まず第二王女ドローレスは真っ先に除外された。優秀な魔法騎士であり、近衛の大隊を預かるドローレスは王太女でもある。女王に何かあれば、次の女王に立たねばならない身分だ。
第三王女エメラインは次に除外された。引っ込み思案なエメラインは政治にはほとんど関わらないが、ずば抜けた才能の魔法使いであり、シルヴァーナに伝わる破邪魔法の研究者でもある。彼女を国外に出せば、破邪魔法の情報までもがソベリオンに伝わってしまう。
そうなると候補は必然的に第四王女フローラ、第五王女ガートルードに絞られた。
年齢的にヴォルフラムと一番近いのはガートルードだが、まだ親を必要とする幼子を父親と変わらない歳の皇帝の側室に差し出すのは、いかんせんためらわれる。ならば形式上の夫とも比較的歳の近いフローラを、と女王は苦渋の決断を下したのだが。
『嫌よ! どうして私が帝国の皇子なんかのために、奴隷にならなきゃいけないの!?』
フローラは泣いて嫌がった。ガートルードが生まれるまでは末っ子として、姉たちからも両親からも蝶よ花よと可愛がられた王女は、少しばかり幼くわがままな性格に育っていた。
決して奴隷などではないこと、フローラの献身がシルヴァーナを救うこと、シルヴァーナと帝国の民すべてがフローラに感謝と敬意を捧げること、帝国では皇后と同格の存在として尊重されることなど、女王も姉王女たちも言葉を尽くして説明した。
だがフローラは納得しなかった。それについては女王もしかたないと思っている。どれだけ見返りを与えられようと、フローラの一生は帝国の皇宮で飼い殺さることが決まっているのだ。恋もできない、家庭を築くこともできない、縁もゆかりもない皇子のため尽くさせられるのでは、フローラでなくても嫌がるに決まっている。
しかしフローラがどれだけ嫌がろうと、女王はフローラの側室入りをくつがえすわけにはいかなかった。諾の返事を受けた帝国は歓喜に沸き返り、フローラのための宮殿がととのえられているという。
アンドレアスとコンスタンツェからも、感謝の書状と礼の品々が送られてきた。その礼の品々だけで、シルヴァーナの国庫は向こう十年は枯渇しないと思われる。
『ソベリオンはシルヴァーナから受けた恩を永遠に忘れない。フローラ王女は救国の聖女として、帝国の歴史に名を残されるだろう』
そうまで断言したアンドレアスの感謝は、フローラの側室入りが取りやめになれば瞬く間に憎悪へ変わるだろう。
フローラ本人の意志を無視して、側室入りの準備はちゃくちゃくと進んでいった。フローラはいつしか自室にこもり、公の場はおろか姉妹の集まりにも顔を出さなくなっていたが、誰もとがめなかった。フローラを犠牲にして生き延びるのは、シルヴァーナもヴォルフラムと同じなのだ。
だから、誰も気づかなかったのである。
フローラの部屋を、彼女の取り巻きの一人である侯爵子息がたびたび出入りしていたことに。
フローラのお付きの侍女はみな、生け贄に差し出される主人に同情していた。一致団結してフローラと侯爵子息との逢瀬を隠し通した。
そして今日、久しぶりに晩餐の席に出てきたフローラは、安堵する女王に笑顔で告げたのだ。
『わたくしは妊娠しております。皇帝の側室にはなれませんわ』と――。