後編
これが長くリアルな夢でなければ、人々は皆、同じ顔になってしまったみたいだ。そして誰もそのことに気がついていない。少なくとも、混乱しているのは世界で私一人らしい。
髪は全員同様の黒いベリーショートで、見た目では男か女かの区別もつかない。服装や大きさは違っても、誰もが同じ体格をしている。子どもは縮尺を縮めただけ、試しに海外ドラマを観たけれど、そこにも大きくなっただけの同じ人間が映っていた。
かなしいかな、いくら混乱してもお腹は空くし喉も乾く。屋根も寝床も必要だ。だから私は、変わらず会社で働く必要がある。
誰もがスーツ姿の会社で人の区別をつけるのは大変だった。服が女物か男物かで性別はギリギリ判断できる。しかし、声も同じなのだ。人間の声を全てひっくるめて平均を取ったような、特徴のない声。仕方ないから、仕草や喋り方で相手を区別するしかない。
「なんか先輩、最近沈んでますね」
エレベーターで居合わせた後輩らしき人物に話しかけられ、ぎくりとする。座席の決まったフロアならまだ対処のしようもあるが、席を立てばもうわからない。エレベーターなんか最悪だ。
「いや、その、疲れてるのかなー……」
「たまには有休取って遊びにいったらどうですか。悩みなら、いつでも聞きますよ」
そう言ってくれるのに、うっかりじーんとしてしまう。だけど申し訳ない、私はあなたが誰かもわからないんだ。
病院にも行ったが、医者も首をひねるだけだった。「相貌失認」という言葉を聞かされ、帰って調べてみたけどどうも違う。私は人の顔が分からないのではなく、人の顔が全て同じに見えるのだ。外見に違いさえあれば、それなりに覚えて区別することはできる。
次第に自分が本当に疲れていくのを感じた。私以外の誰もが、普通に毎日を過ごしている。少なくとも、同じ悩みを持つ人間は見当たらない。孤独感や気疲れに悩まされる私は、半日休暇をもらって会社を出た。私の不調を悟っていたのか、当日でもすんなり了承してくれた上司には感謝だ。
誰か、私の孤独を慰めてくれ。そんな思いで帰り道の居酒屋に吸い込まれた。ここでは、昼間はランチを出している。
「ここ、空いてる?」
また同じ外見をした誰かが、わざわざカウンターの私の隣に腰掛ける。何故か私とお揃いの刺身定食を頼んだ彼は、あれやこれやと話しかけてくる。興味ない、なんだその話。最近売れすぎのアーティストや、古臭いアニメの話を繰り出す彼に、私はおざなりな返事を続けた。それより彼の茶碗にご飯粒が残っているのが気になって仕方ない。
「なんだよ、前と全然反応ちがうじゃん」
手を合わせてさっさと会計に立つ私の背に、彼が言い放った。
店の外に出て気が付いた。彼は以前一度だけ話をした男だ。さっき聞かされたアーティストやアニメの話も、あの時話題にしたものだ。
千載一遇のチャンスだったのに。名前とか、LINEだとか、聞くなら今しかない。今すぐ戻って、うっかり忘れていたんだと説明しなければ。
そう思いつつ、私の足は店から離れていった。何だか急に心が冷めていく。彼の名前を知ったところで、何だというんだ。あなたに会いたい。そんな私の気持ちは、すっかり消え去っていた。
その翌日から、私の周囲は再び元通りになったと記憶している。彼との二度目の邂逅から帰って、複雑な想いを紛らわそうと部屋にあった缶ビールを飲んで、寄って寝た。夜が明けてから見た鏡の中には以前と同じ私がいたし、テレビの中のタレントも記憶通りの顔だった。恐る恐る外に出てみたけど、誰もが別々の外見で普段通りに振舞っていた。
そして二年が経過した今、私は再び彼の顔を目にしている。
テレビの中、顔と名前を全国に報道された彼の罪状は、詐欺罪。未婚女性に近づき、その気を持たせ、総額二千万円にものぼる結婚資金を巻き上げていた。
あの出来事は、私の目に見えない危機感が私自身に警鐘を鳴らしていたのかもしれない。私は彼の見た目が分からなければ、彼そのものも区別ができなかった。所詮私も、中身が大切といいながら、相手の外見を重視していたのだ。
やれやれ。危ないところだった。テレビを消して、バッグを手に取る。今日は休肝日だから、お酒は控えてランチに行く。心で向き合えそうなその人と、少し遠出をする予定だ。