前編
LINEぐらい聞けばよかった。
一人、真っ暗な部屋に帰りつきながら私はため息をついた。手探りでスイッチを押し、ワンルームの明かりを点ける。ベッドと炬燵、小さなテレビとキャビネットが鎮座して私を迎え入れた。ほろ酔い気分の身体をベッドに投げ、最早癖のようにスマホをいじる。通知は一件だけ。先月のカードの支払い請求額を通知するメールを確認して、再びため息をついた。
あんなに気の合う異性は、人生で初めてだった。会社からただ帰るだけの退屈を紛らわすため、少し勇気を出して居酒屋に入った。一人飲み客は珍しくないとはいえ、周囲の目を気にしてしまう質の私にはハードルの高い行為だった。その勇気の産物か、カウンターの隣の席に彼が座った。
私は面食いではない、あくまで中身を重視する派だ。同い年の二十九歳という彼の外見に惹かれたわけじゃない。話しているとただ気が休まった。好きなアーティストや昔好きだったアニメの話で盛り上がり、職場の愚痴も漏らし合った。メーカーの営業だというのに納得する人懐こさだった。
ごく稀に、初対面の人間と感性がかっちりはまり合うことがある。当然のように同じ感覚を共有し、古くからの知り合いのようにも思う。それを異性で感じたのは、彼が初めてだった。これまで付き合ってきた数少ない恋人よりも近い距離感だった。
「あーもう! 私の馬鹿!」
枕を抱えて嘆く。名前ぐらい聞けばよかった。LINEのIDも最寄りの駅名も知らない。ただ偶然、居酒屋で隣り合わせだっただけの彼。
小動物のようによく動く瞳と、笑った時にのぞく八重歯、グラスを取るしなやかな指。思い出すだけで苦しくて、私は悔しさにベッドマットに突っ伏した。
目を覚まし、窓から差し込む朝の日差しをぼうっと眺めてはっとする。化粧も落とさず寝てしまった。最悪だ。とっくにお肌の曲がり角は過ぎているというのに。
「最悪……」
慌ててバスルームに飛び込み、化粧を落とすついでに髪と身体と洗う。今日が休日で本当によかった。
バスルームを出て簡素なルームウェアに着替え、髪をタオルドライしつつ鏡に向かう。さっさと保湿をしなければ。
化粧水に伸ばした手を空中で止めた。
「なにこれ」
鏡には知らない人が映っていた。真っ白な顔色に、切れ込みを入れた様な目と口。まるでお面をつけているみたいだ。頑張って伸ばしている髪は四十センチも短くなっている。
まだ夢を見ているに違いない。私は落ち着いて自分の頬をつねった。更にぱしぱし叩いてみる。目は覚めない。夢だと分かっている夢、明晰夢ってやつなのか。
それにしても、シャワーの水の質感も、頬に残る軽い痛みもあまりにリアルだ。気味が悪くなり、部屋に戻り鞄に入れっぱなしだった水入りのペットボトルを取り出しつつ、テレビの電源を入れた。
水が気管に入り、慌ててむせた。テレビにはニュース風味のバラエティ番組が映っている。そこにいる全員が、同じ顔をしていた。司会者も、アシスタントも、タレントたちは皆、さっき鏡に映っていたのと同じ能面のような顔で喋っている。
「何これ何これ何これ……」
呪文のように唱えながらリモコンでチャンネルを繰る。どこに回しても似た光景が広がっている。服装や身長は違うのに、まるで同じ顔をした人々。
恐ろしさに襲われ立ち上がり、ベッドに放ったままのスマホを握りしめた。誰でもいい。誰かの声を聞きたい。近くに住む友人の名前を選んで通話ボタンを押す。
逃げるようにサンダルを引っ掛け、部屋着のまま外廊下に飛び出した。じっとしていられない。友人の元に押しかけるべく、二階から階段を下りてアパートの玄関を通り抜けた。
大きな通りに出て、ひっと喉から変な音が漏れた。
通りを行き交う人々も、同じ顔をしていた。白い仮面に目と口の切れ込み。当然のようにそこかしこを闊歩している。強張る首を巡らせて、パン屋のショーウィンドウに映る自分を見て足の力が抜けた。やはりそこには、鏡で見たばかりの顔がある。私の顔が、どこにもない。
「ごめんごめん、寝てた。どしたー? まだ朝の八時なんだけどー」
スマホから慣れた友だちの声が流れたおかげで、私は辛うじて卒倒せずに済んだ。