1-5.惑わされるな!
困った。なかなかギルは納得してくれない。
今日はいつになくしつこく絡んでくる。
「う……ん。商品? 連絡? 人?」
「どれも違うような気がする」
ギルの言う通り、フィリアも口にしてみたもののしっくりこない。
だが、それをギルに言われると、「だったらぼくにきくことないだろ」と少しだけ腹が立った。
「帝都はもうすぐなのに……。みんな元気かな?」
「元気にやっているよ。孤児院育ちの連中は、みんなたくましいからね」
フィリアの言葉は真実でもあり、そうであってほしい、という願望だ。
孤児院の子どもたちはたくましい。
たくましい子どもしか生き残れない。
病弱な子ども、運がなかった子どもは、幼いうちに簡単に死んでしまう。
世話になった孤児院や、まだいる『おとうと』『いもうと』たちに少しでも暮らしをよくしてもらいたくて、フィリアとギルは冒険者になった。
ひもじい思いをしながら、ひとつのパンをみんなで分け合うような日々、具材のはいっていないくず野菜スープの汁がご馳走となるのは、自分たちの代だけで十分だ。
「早くみんなに会いたいな」
「そうだね……」
ギルの言う通り、孤児院のみんなには会いたいと思う。
二年ぶりの帝都に焦がれる気持ちはある。
だが、この苛立ちの原因は、足止めをくらってみんなに会うことができないからではない。
もっと別のものがフィリアの心を乱す。
「ギル。あきらめよう。今はただ……待つしかないよ……」
相棒にかける言葉は、自分自身への戒めでもあった。
世話になった行商人に背いて、失望させるわけにはいかない。
冒険者として、きちんと仕事はやりとげる。
感情に任せて、自分を見失うわけにはいかなかった。
自分たちは我儘が無条件に許される幼い子どもではない。
これからは大人として生きていかなければならないのだ。
「わかっている」
ギルは口を閉じると、光のない真っ暗な空を見上げた。
********
どれくらいの時間が流れただろうか。
春とはいえ、夜はまだ冷える。
シャツ一枚で夜露に当たりつづけるのも身体に悪い。
話すこともなくなり、ギルはただ、フィリアが心の整理を終え「そろそろ、部屋に戻ろうか」と言いだすのを辛抱強く待ち続けていた。
外套を持ってくればよかった……とギルが後悔しはじめ、そろそろフィリアを無理にでも部屋に戻した方がいいだろう、と思ったとき、停滞していた時が一気に流れ始めた。
突然、フィリアが胸の辺りを押さえながら、うめき声をあげる。
「フィリア? どうした?」
フィリアの胸にズキンと鋭い痛みが突き抜けた。
それはあまりにも突然で、今までに体験したこともない激痛だった。
心臓を鋭い刃物で刺された、と思ったくらいである。
フィリアは身体をくの字に曲げ、顔を伏せる。
「あああっ……っ」
空気がいきなりずしんと重くなり、世界が軋む感覚に、フィリアの全身の毛が総毛立った。
硬く閉ざされたフィリアの口から、苦悶の呻き声が漏れる。
胸から全身へと広がる痛みと熱さに意識が途切れそうになる。
抱えていた剣が手から滑り落ち、カラカラと乾いた音をたてて転がりながら地上へと落ちていった。
「フ、フィリア! 大丈夫か? どうした?」
突然苦しみだした相棒のただならぬ様子に、ギルが慌てて手を差し伸べる。
「わ、わからない……。む、胸が……張り裂け……そうだ」
突然、襲い掛かった激しい痛みに、フィリアは左胸をかきむしる。
苦しい。
痛い。
怖い。
想像を絶する苦痛と恐怖に、フィリアは耐えきれず思わず悲鳴をあげていた。
全身から嫌な汗が一斉に吹き出し、身体の震えが止まらない。
「危ない!」
バランスを崩して屋根から転がり落ちそうになるところを、間一髪でギルが全身で受け止め、助け起こされる。
「ふぃ、フィリア! 息を……息をするんだ! 呼吸! 呼吸!」
滅多に大声を張り上げないギルに怒鳴られ、フィリアは口を大きく開く。
新鮮な空気を求めて、フィリアは何度も何度も深呼吸を繰り返した。
ヒューヒューと乾いた呼吸音が夜の闇の中へと吸い込まれていく。
ギルが背中を必死にさすってくれているのがわかった。
そうしている間も、フィリアの心臓は、バクバクと激しい音をたてて暴れ、今にも爆発しそうだった。
全身から冷や汗がにじみでて、ぽたぽたと雫となって落ちていく。
身体が引き千切られるような痛み。
全身を流れる血が逆流し、身体が粉々に砕け散るかのような激痛に襲われる。
特別な訓練もせずに、見よう見まねで冒険者をはじめたフィリアたちは、何度も怪我を負った。
今まで運よく、瀕死の重傷というものを負ったことはなかったが、これがそういう痛みなのかもしれない。
と、フィリアは激痛に苦しみながら思った。
目の前の景色がかすみ、ギルの叫び声がだんだん遠く、小さくなって、聞き取れなくなっていく。
激痛は一瞬だった。
だが、痛みの余韻はすぐにはおさまりそうにない。
カツ、カツ、カツ……。
遠くなる意識の中で、屋根瓦の上を歩く音が聞こえた。
********
カツ、カツ、カツ……。
規則正しい足音は、だんだん早く大きくなってくる。
胸が締めつけられるような苦しさに耐えかねて、フィリアが意識を手放そうとしたとき、聞き覚えのある声が、フィリアを正気へと戻した。
「フィリア! その痛みはおまえ自身のモノではない! 惑わされるな!」
低く甘い大人の声が、フィリアの心に直接響く。
「だ、だ、旦那さま! フィリアが! フィリアが急に苦しみだして……。助けてください!」
「フィリア! わたしの声が聞こえるか? おまえまでひきずられるな! フィリア、おまえは怪我など負っていない。本当に苦しいのは、おまえではない。おまえの半身だ!」
「フィリアどうしたんだよっ!」
依頼主の他に、動揺しているギルの声も聞こえた。
「ギル、おまえがうろたえてどうする? いつも教えていただろう? おまえは、しっかりと心を平常に保つんだ。フィリアを守りたいのなら、心を乱すな! ただ、守ることを考えなさい」
「わ……かりました!」
そのやりとりの後、旦那さまの歌うような美しい詞の旋律が、フィリアの頭上に展開する。
旦那さまが紡ぐ『力ある詞』と共に、頭上に光り輝く魔法陣が出現する。
ふわりと、温かな気配が旦那さまを中心として徐々に拡がり、淀んだ空気を浄化していく。
旦那さまの口から紡がれるのは、異国の言葉なのか、古代の言語なのか、フィリアに意味はわからなかった。
だが、意味はわからずとも、その旋律に耳を傾けているだけで、嫌な空気が逃げるように引いていき、徐々に身体が楽になっていく。
旦那さまの詠唱が終わると同時に、魔法陣は強い光を放って砕け散り、光の粒子は、苦しむフィリアの全身に等しく降り注いでいた。
フィリアは震える全身を叱咤しながら、身を起こそうとする。
「フィリア、まだ、横になっていた方がいいんじゃないか」
ギルが手を伸ばし、ふらついているフィリアを支える。
「だ、だいじょうぶ……だから」
そう答えると、フィリアは目の前に立つ壮年の男を見上げた。
フィリアたちが『旦那さま』と呼んでいる依頼主、行商を生業とする男の姿がそこにはあった。
意識がまだ朦朧としていてはっきりとは認識できないが、旦那さまは右手に輝く銀色の錫杖を持って立っている。
その姿は毅然としており、ぞくりとするほど美しかった。
「フィリア……おまえは怪我はしていない。だが、その痛みは『まがいもの』ではなく、真のものだ。おまえの半身が今、その身に負っている痛みだ」