1-8.今日のこの選択を後悔はしていけない
周囲は再び暗闇の中に沈んでしまい、ギルは慌てて【灯り】の魔法を使う。
フィリアのように明るさの微調整はできないが、周囲を照らすには十分すぎる――むしろ、まぶしすぎるくらいの――明るさになる。
ギルは思わず息を飲み込み、驚いた表情で、光の中に浮き上がった旦那さまを見つめた。
旦那さまの右の肩から先が――錫杖を握っていた右手が――真っ赤に染まっており、ボタボタと音をたてて血が屋根の上に落ちている。
足元にできた血溜まりが、ものすごい勢いで大きく拡がっていく。
旦那さまは左手で肩を押さえていたが、手のひらの隙間からは白い骨が見えており、今にも腕が肩からちぎれ落ちそうだった。
「た、大変だ! 旦那さま! 怪我がっ」
狼狽えるギルを、旦那さまは静かな声で制止する。
「ギル、落ち着きなさい。右手一本と引き換えに助かったのだから、安いものだ。わたしは大丈夫だ。回復魔法がある。それよりもフィリアだ!」
ギルは軽く唇を噛みしめると、倒れているフィリアへ這うようにして近寄る。
本当は駆け寄りたいのだが、全身が痛みに悲鳴をあげており、思うように身体を動かすことができない。
それでもなんとか、幼馴染みの側に行くと、痺れる手を懸命に動かしてフィリアを抱き起こす。
「フィリア! フィリア! 大丈夫か!」
「気を失っているようだな。多少、乱暴なことをしてもいいから、急いで起こしなさい」
血まみれの肩を押さえながら、旦那さまがフィリアの顔をのぞきこむ。
旦那さまは今にも倒れそうだった。
たくさんの血を失ったが、それ以上に、魔力を失ったのだろう。
フィリアの顔色も悪かったが、旦那さまの顔色はもっと悪かった。
ギルは泣きたくなるのを懸命にこらえながら、フィリアを抱え直す。
「フィリア! 聞こえるか! おい! 目を覚ませ!」
大声で叫ぶ。
他の宿泊客への迷惑など関係ない。
力の限り叫びつづけ、身体をゆさぶり、頬を叩く。
「う……っっつぅ」
フィリアの口からうめき声が漏れる。
ギルに頬を叩かれ、思いっきり揺さぶられ、フィリアはうっすらと目を開けた。
「フィリア! 大丈夫か!」
「だ、だい……じょう……ぶ。だから……もっと……しず……かに」
フィリアが気だるげにギルを見る。
ギルがおいおいと泣き始め、フィリアは困ったように眉根を寄せた。
「気休めでしかないが、やらないよりはよいだろう」
旦那さまはフィリアの側にかがみ込む。
左の手についていた血を外套でぬぐい取り、手をそっとかざす。
大きな手のひらが淡い輝きを放ちはじめ、光がフィリアの全身を包み込んだ。
「ありがとうございます。少し……楽になりました」
「回復魔法で魂の傷は癒せないが……ふたりとも、よくがんばったな」
と言いながら、旦那さまは左手でフィリアとギルの頭をポンポンと軽くたたくようになでる。
ギルは自分も褒められたことに驚いていたようだが、照れたような笑みを浮かべ、フィリアの上体を支え直した。
「どれだけ……ぼくは気を失って?」
「短い間だ」
「そう……ですか。とても長い時間に感じました……」
「世のことわりとは、もとからそういうものだ」
旦那さまの達観した言葉に、フィリアは軽く頷いてみせる。
ヒトには長く感じる出来事も、神と称えられるモノたちにとっては、砂時計の一粒の砂が落ちる間……ほんの瞬きのことでしかないのだろう。
フィリアは顔を伏せ、己の足元を見つめる。
こうして再びここに戻ることができたのは、僥倖……あの存在の気まぐれに助けられただけだ。
あの恐ろしい場所に取り残された魂の片割れは、その後、どういう道をたどるのだろうか。
「フィリア、おまえは、今のおまえができる精一杯のことを成し遂げてみせた。決して、どんなことになろうとも、誰がなんと言おうとも、今日のこの選択を後悔はしていけない。顔を上げて、己自身を誇りなさい」
フィリアの胸の内を覗き見たような言葉に、少年たちは顔をあげ、目の前の『旦那さま』を見上げる。
「でも……」
「おまえが対峙した存在は、かつて神と呼ばれ敬われたモノだ」
「え……?」
「だが、今は堕ちて、邪神と呼ばれるモノに成り果てた。『堕ちた神』から逃れることができたのだ」
フィリアの瞳に疑念の色が浮かぶ。
「旦那さま……あなたは一体……」
何者なのか。
なぜ、自分たちにかかわるのか。
なぜ、このようなことをしているのか。
なぜ、そんなことまで知っているのか。
問いたいことが後から後からあふれでてくる。
それを声にだそうとフィリアが口を動かしたとき――。
しゅるるるる――っ。
突然、夜のしじまを破る耳障りな大きな音が、フィリアの疑問をさえぎる。
「な、なの音?」
初めて聞く不思議な音に、少年たちは息をのみ、慌てて音の出所を探す。
「フィリア! アレはなんだ?」
ギルが指さした方角を見る。
帝都がある方向だった。
ぱ――ん!
しゅるるるる――っ。
ぱ――ん!
乾いた大きな音を立てて、夜空に光が炸裂した。
破裂音は二度、いや、三度。
静寂に包まれた夜の世界に、警告を発するかのように破裂音が高々と響き渡った。
光が炸裂した直後、昏い闇の中、激しい重圧を放つ光の柱が、鳴動しながら天に向かって真っすぐに立ち上る。
光の柱が放つ真昼よりも明るい光にたえきれず、少年たちは思わず目を閉じる。
「今の音はなんだ!」
「なにがおこった?」
「どうした!」
しばらくすると、バタバタと大きな音をたてて扉が開き、寝間着姿の村人たちがわらわらと外にでてくる。
目がくらむような眩しい輝きは一瞬でひいたが、月がない夜なのに、周囲は満月の夜よりも明るかった。
大人も子どもも老人も……夜の明るさに驚き、帝都の方角に立ち上った光の柱に恐れおののいている。
「あ、あれは、なんだ?」
「あの、光の柱はなんだ?」
「なにがおきたんだ!」
「魔物の襲撃か?」
「帝都の方角じゃないか?」
「怖いよぅ」
「帝都になにかあったのか?」
「いや、帝都じゃない。帝都から少しずれた場所だ!」
見たこともない巨大な光の柱の出現に、人々は村の中を右往左往しはじめる。
自分たちに害をなすモノなのか。
避難した方がいいのか。
逃げるにしても、どこに逃げたらいいのか。
帝都に避難した方がいいのか、帝都から離れた方がいいのか。
村の大人たちは、つばを飛ばしながら、声を大にして口論しはじめる。
夜空に浮かび上がった巨大な光の柱。
それを見て慌てふためく村人たち。
ふたりの少年冒険者は、屋根の上で立ち尽くし、ただただ呆然とその光景を眺めることしかできない。
光自体は、禍々しいものではない……ような気がした。
なににも屈することのない、誰にも破壊することができない、凛とした気高さをまとった美しい光の柱。
重苦しい夜の闇を切り裂き、暗黒の中で道を見失った者を照らし、導くかのように、光の柱は圧倒的な存在感をもって、雲を切り裂き、天を貫いている。
だが、フィリアの目に、その光の柱は得体の知れぬ不吉なものとして映っていた。
心を支配する恐怖と苦しさを誤魔化すために、隣に立つギルにすがりつく。足ががくがくと震え、立っているのも辛かった。
あの光の柱と、魂の片割れが遭遇した災難になにか関連があるのか、と嫌な予感が脳裏をよぎる。
先程のダメージから回復していないと勘違いしているギルは、なんの疑いも持たずにフィリアをしっかりと抱きしめ、支える。
「フィリア……あれは……なんだ?」
ふらつくフィリアを抱きかかえながら、ギルが答えのわからぬ疑問を呟く。
「あれは、魔導で作られた信号弾が炸裂したものだ」
旦那さまがギルの疑問に答えた。
嫌悪とも憎悪ともとれる旦那さまの苦々しい声に、少年たちは違和感を感じる。
「旦那さま?」
旦那さまは形のよい眉を顰め、鋭い目線で光の柱を見つめている。
なにかに堪えるかのように、唇を強く噛みしめていた。
旦那さまの険しい横顔に、フィリアとギルは不思議そうに顔を見合わせる。
(今日の旦那さまはおかしい……)
フィリアは何度も心に浮かんでは消えていく疑問を無理やり意識の奥底にしまいこみ、目の前の出来事に注目する。
「あれが……信号弾ですか……?」
「どれだけ大きい信号弾なんだ?」
フィリアは首を傾げ、ギルは目をみはる。
にわかには信じがたい。
古代遺跡が暴発した、とでも説明された方が納得できるだろう。
冒険者ギルドでは魔獣の襲来に備えて、冒険者通達用の緊急信号弾が用意されている。
実際に使用されたのをふたりは見たことがあるが、信号弾はあのように派手で、大きなものではない。
規模が全く違うのだ。