0-1.予兆(改)
オトウトが泣いていた。まだ幼いオトウトの泣き声は激しく、周りにいた大人たちを困らせるには十分な威力をもっていた。
「とーとー。やーだ。やーだ! とーとー……」
「あらあら。どうしたのかしらねぇ……。おとうさまと離れるのが悲しいのかしらねぇ」
「センセイ、この子らの面倒は、わしら夫婦が責任をもってみます。センセイは安心して、そのお仕事とやらをやってきてくだせえ」
年老いた夫婦――麓の村の村長夫婦――がにこやかな笑顔を浮かべながら、旅装姿の父様へと語りかける。
「まぁまぁ。お熱が高くて、ご機嫌ナナメなのかしらねぇ……」
オトウトの背中を優しく叩きながら、村長夫人は父様に「心配はいりませんよ」と慈母のごとく微笑みかける。
「ご迷惑をおかけします」
父様は村長夫妻に深々と頭を下げる。
「迷惑だなんて……とんでもない!」
「センセイ、頭をあげてくだせえ。いっつも、世話になりっぱなしで、頭を下げるのはコッチのほうでさあ。こんなときにくらいしか、御恩に報いることができません。気になさらないでくだせえ」
「具合の悪い子を連れての移動は、たいへんでしょう。あたしたちに預けてくださいな」
老夫婦の申し出に、父様は形のよい眉を下げる。
「しかし……こんなに泣くとは……」
村長さんは「泣くのが子どもの仕事のようなもんです。そのうち泣きつかれて寝て、目覚めたらケロっとしてまさぁ……」と笑い飛ばす。
「とーとー。とーとー」
オトウトの泣き声はさらに大きくなり、父様に向かって手を伸ばす。
父様は困惑しながらも、オトウトの小さな指をきゅっと握りしめた。
「とーとー。やだ。やーだ!」
オトウトの顔は真っ赤だ。
さっきまで高熱でぐったりとしていたのに……。こんなに泣いて大丈夫なのだろうか?
父様の薬を飲ませたから熱は下がるだろうが、それでも心配なものは心配だ。
「……できるだけ早く用事を片付けて、急いで戻ってくるからな」
父様は優しくオトウトに語りかけると、わたしへと視線を向ける。
「すぐに戻る。だからそれまでの間……」
「父様、わかっています! オトウトのメンドウをみるのは、オネーサンであるわたしのヤクメです! 父様は安心して、ダイジなお勤めをはたしてきてください!」
わたしは小さなバスケットを持ち上げる。
この中には、よく高熱をだすオトウトのために父様が調合した薬が入っていた。
「ちゃんと、わすれずに、いちにちさんかい、オクスリをのませます!」
「頼んだぞ」
父様はわたしの頭を愛おしそうに撫で、そしてオトウトの頭を撫でてから、森の奥へと消えていった。
「いってらっしゃい!」
「センセイ、気をつけてくだせぇ!」
「お早いお戻りを」
「できるだけ早く戻ってまいりますので、その間、ふたりをよろしくお願いします」
そのようなやりとりがなされ、村長夫妻とわたしは、笑顔で父様を見送った。
その間もオトウトはずっと泣きつづけていた……。
なんでもできてしまう父様から頼られたわたしは、この日、とても誇らしい気持ちで夜を迎えた。
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オトウトは何時間も泣きつづけ、泣き疲れてベッドの中で横になっていた。
泣きすぎて興奮したからか、また高い熱がでた。
晩ごはんも嫌がって、あまり食べなかった。
日が沈み、世界が完全に暗くなると、わたしとオトウトは同じ寝床に潜り込んだ。
窓から差し込む月明かりだけでは、少しばかり心もとない。
わたしは父様に教えてもらった【灯り】の魔法を使って、暗い部屋を少しだけ明るくする。
オトウトの高熱は、カンセンするような病気ではない。そもそも病気でもない、と父様は言っていた。
薬師である父様の言葉に、村長夫妻はなにひとつ疑うことなく、わたしとオトウトを預かってくれた。
そして、同じベッドで眠れるように準備もしてくれた。
オトウトはよく熱をだす。
なんでも、マリョクヨウリョウとマリョクのばらんすが悪いから。
タイナイをメグルというマリョクの扱いかたを、ホントウの親に教えて貰えなかったから。
マリョクが流れずにせきとめられて、すぐに熱がでるのだそうだ。
わたしと父様は、オトウトとマリョクノアイショウがわるいから、マリョクの扱いをオトウトに教えてあげることができない。
高熱で苦しむオトウトを助けることができない。
でも、添い寝をしてやると、ほんの少しだけだけど、マリョクのジュンカンがよくなって、オトウトも楽になるだろう、と父様は言っていた。
「とーと……」
「おりこうにしていたら、父様はすぐにもどってきますよ」
ちょっぴりお姉さんぶった口調で、眠そうにしているオトウトに語りかける。
「ねーね……」
わたしに気づいたオトウトが、甘えるように抱きついてくる。
小さくて柔らかい、そして、とってもかわいいオトウトをぎゅっと抱きしめる。ほんのり甘いミルクの匂いがした。
わたしのオトウトは、森のウサギのようにフサフサもふもふしていないが、プニプニしていて、とても抱き心地がいい。
オトウトはわたしの宝物だ。
父様ではなく、わたしが森の奥でオトウトを見つけたのだ。
森の精霊様がわたしにくださった、わたしの大切な宝物だ。
わたしががんばって、小さくて弱いオトウトを護らなければならない。
熱のせいか、オトウトの身体はとても熱かった。
「とーと……どこ?」
暗闇の中、オトウトはキョロキョロと周囲を見渡す。
「ねーねがいるからダイジョウブよ」
「だ……じょ……ぶ?」
必死に、わたしのコトバを真似しようとしているのが、とってもかわいい。
オトウトは、色々な成長が遅かったけど、わたしたちの言っていることは理解できている。
「あしたね、ソンチョウフジンが、木苺のパイを焼いてくれるんだって。楽しみだね」
「あ――。ぱい! ぱい! たーしみ! ぱい、おーしい!」
オトウトのはじけるような笑顔に、わたしはほっと、胸を撫で下ろした。
泣いているよりも、笑ってくれるほうがうれしい。
「ねーねもおてつだいするんだよ。おいしい木苺のパイを焼いてあげるね」
「うん。たーしみ」
ニコニコと笑うオトウトに、わたしも笑顔が浮かぶ。
わたしとオトウトは、明日のおやつに食べる木苺のパイを夢見ながら、その日は眠りについた。
だが……。
わたしたちは、村長夫人の木苺のパイを食べることはできなかった。一生、食べることができなくなってしまった。
そして、父様にも二度と会うことができなくなった。
なぜ、あのとき、オトウトがあんなに泣いて、父様との別れを嫌がったのか……。
もっと深く考えるべきだった。
単に、父様と離れるのを寂しがって、だだをこねたわけではなかった。
幼いオトウトは、身に迫る危険を感じ取っていたのだろう。
それを、わたしと父様に必死に伝えようとしていたのだ。
なぜならその日の夜、村は盗賊の襲撃にあい、抵抗した大人は殺され、殺されなかった者はドレイとして連れ去られたのである。
村長夫妻もわたしたちをかばって殺された。
小さな村は盗賊が放った炎で焼かれ、あっという間に消えてなくなった。
それから数日後、わたしとオトウトはドレイモンというものを奴隷商に刻まれ、大きな街で奴隷として売りにだされた。
その街で、わたしたちは怖い大人に生贄奴隷として買われることとなった。