Part7
意外な言葉に、窪原はどういう態度をとったらいいか分からなくなった。
「私もすぐに手首を切ったのですが┄┄。なぜかこの島に来てしまいました。妻は、この島には来ていなかった。当然ですね。私がこの手で完全に息の根を止めたのですから」
窪原の戸惑う表情を見て、老人はさらに続ける。
「妻は長年、半身不随の寝たきりの生活をしていました。私がずっと看護をしていたのですが、疲れ果ててしまって┄┄。しかし、後悔はしていません。今は苦しみから解放されて、とても穏やかな気持ちです」
「体は┄┄さがしたのですか?」
「ええ。でも昨晩、危篤に至る夢を見て、止めました。妻のいない現実の世界に帰っても、仕方がない」老人は、ここでいったん言葉を切った。
「┄┄結局、私の人生の全ては妻を介護するために有ったと、今は心から思えるのです。もう妻を介護することが出来なくなったということは、つまり──私の人生も終わっているのです」
沈黙が訪れ、二人はしばらく海を眺めた。
ふいに老人は立ち上がって、ズボンの砂をはらった。
「今日は、のんびりと島を巡りました。ここの自然も、なかなか良いもんです。最後に眺める風景に相応しい気がする。┄┄さて、私はもう行きます。夕陽の光を浴びながら、北の海に入ろうと思っていたのです」
そう言って、老人は笑みを浮かべて、窪原の許から去って行った。
長く生き、苦しみを経た後に死を覚悟すると、ああなるものなのだろうか。彼は考える。
──そうでもあるまい。老人が、あのような心境になったのは、きっとそれまでの人生が充実していたからだ。俺は今とても死を受容する気にはなれない。必ず現実の世界に帰って、亜矢香と充実した人生を、これから始めるのだ。
それから彼は、老人がそうしていたように、しばし海を見つめた。波の動きは、機械的で単調なだったが、徐々にその色は濃いものに変わっていった。
人影がまばらになった頃、彼は帰途に着いた。
小屋に戻ると、扉の前に一人の少女が座っていた。この島に来た日に見掛けた双子の少女の片割れだった。
うなだれて、肩を震わせている。死の恐怖に怯えているように、窪原は感じた。
「どうしたんだい?」
訊ねながら彼は、昨日この少女の力になろうと考えていたことを思い出した。
「あの┄┄どうしても聞きたいことがあるんです。おじさんは、おきべという人を知ってますか」
「あっああ、知ってるよ」
意外な名前を耳にして、窪原は驚いた。
「ほんとですか? ずっとさがしてたの。知ってる人を」
「どうして?」
美咲は、自身の頭部にまつわる今までの一部始終を、窪原に話し始めた。子供の話なので、整然としたものとは言い難かったが、彼は何とか少女の求めていることが理解出来た。
話している間にも、あたりは闇に包まれていった。
美咲の長い話が終わった。
「┄┄そうだったのか。大変だったね」
「おじさんは、そのおきべという人が住んでるところを知ってるの?」
窪原は記憶を辿った。おぼろげながら一日目に置部の小屋の前まで行ったことを覚えていた。彼は、うなずいた。
「よかった。わたしを、その小屋までつれていってください」
「今からかい?」
「そうです」
「しかし┄┄もう夜だ」
窪原は次第に眠気が訪れつつあるのを感じていた。
「お願いします。お願い┄┄」
懇願する美咲の瞼は、閉じかかっている。
「とにかく俺の小屋の中に入ろう。眠いだろ?」
「だいじょうぶです」
そう言って、美咲は彼に深く頭を下げた。一刻も早く置部に会いたい気持ちが伝わってきた。
窪原は仕方なく、置部の小屋に向かうことにした。
二人は歩き出す。眠気が窪原を襲い始めた。美咲は目をこすったり、頭を振ったりして眠るのを必死に堪えている。
だがやはり、この島のルールには逆らえなかった。やがて二人の足の動きは止まり、膝を折るのとほとんど同時に、地に倒れ伏してしまった。
*
置部は真菜の小屋の中にいて、彼女のベッドに腰掛けていた。緊張してはいるが、甘い眠気を感じている。
側にいた方が良いと判断した彼は、嫌がる真菜を制して、半ば強引に小屋に入れてもらったのであった。すぐ右隣には真菜が俯き加減で座っている。彼女の脇には持ち帰った左腕が、無造作に置かれていた。
床には、真菜のうつ伏せに置かれた体があった。彼女が、置部を小屋に入れる前に、慌てて置き換えたものだった。彼は、それでも出来るだけ真菜の体を見ないようにして、出入口からベッドまで早く歩いた。
「すいません。結局一つも見つからなかったですね。もう僕のために、この島にいるのは止めにしてください。残りの体が、いつ見つかるか分からないんですよ」
置部は襲って来ている眠気に抗うように言った。
「いいんです。そうさせてください」
「どうしてですか」
「昼間にも言ったとおり、考えたいんです。じっくりと。そうでないと決められない」
置部は、また真菜の危篤に陥った夢の内容を聞きたい衝動に駆られた。しかし、真菜が教えてくれないことは、判っていた。
「今夜、ここに泊ってもいいですか?」
「えっ?」
「今の仲條さんを見ていると心配なんです。明日の朝、北の海に入ってしまいそうな気がして。それを止めたいんです」




