(5)大団円
(ようやく、物語は一番初めに戻ってきて)
美術館、2Fフロア、【恋文】パネル傍らのソファーから立ち上がるRayuさん。矢野龍介は西野陽子に付き添われてたどたどしく階段を登りきり、遂にRayuさんと対面を果たす、のだが。
始め、奇怪な間があった。
「この方が私達憧れのシンガー、Rayuさんですよ」と、西野陽子が紹介をして、Rayuさんはニコニコ頭を下げているのに。体をガチガチに緊張させた大男は?アワアワ何か云ってる。
陽子は思い出していた、ケンイチさんが云っていた、確か管理人・矢野龍介とは……緊張するとガイコクの人になる、と。という事は緊張している?コレがソレか?矢野を見上げて呆れてしまうが(さっきまで私とお喋りしてたのに。あれ?もしかして……この人わざとやってないか?)と、不意に腹が立つ。
彼女はいきなり、矢野の柔らかい横っ腹に右フックを見舞った。鍛え上げられた武道家であっても闘病生活で緩み切った体だ。陽子の拳は久々のダメージを味合わせたらしく?げほっと呻いた矢野龍介、ようやく自身を取り戻したようだった。
それでもうびっくりしてしまっているRayuさんなのに、大男は彼女に「す、好きです。Rayuさん」と口走ってしまい、事態が一種混乱に陥る。
正気に戻ってそれかい?っと歯痒がった陽子は、矢野の腕をバンバン引っ張り、彼に腰を落とさせる(身長差がありすぎるから)。彼の耳元に、ヒソヒソと言った。
(しっかりして下さい、何で告白してるんですか、貴方は!)
(いや、思わず言っちゃった、ワタシ)
(ワタシじゃなくて!もっとカッコ良く、格調高くお願いします!)
すると、矢野の反対側の耳元にだ。両手を筒にして当てて、Rayuさんがヒソヒソと云う。えっ?とその意外な光景に驚く陽子。それにも増して驚いたのか、矢野は曲げていた腰を急に伸ばして仁王立ちになった。勢いがあって、まるで小柄な女性2人は弾き飛ばされんばかり、彼は情けない声を出して「ひ、人妻ですと?Rayuさん、貴方、人妻さんだったんですか!?」
もう手が付けられないんじゃないか、この2mの大男、と呆気にとられる西野陽子とRayuさんなのだが、なぜか彼女達はクスクス笑い始めていた。勿論、大の男のオロオロぶりが笑えるのだが、陽子にすれば(そうか、管理人はチャンネルを長く観ていなかったから……知らない事が多いんだ)と、納得が云って。Rayuさんは単純に、楽しがり屋なのだろう。
なかなかに笑える場面の中で、陽子が3年間のRayu Tubeの歩みの概要を説明しようと思って口を開く、とその前にRayuさんは、極自然に矢野とお喋りを始めていた。
(失礼ですけど、管理人・矢野さんがチャンネル登録された時、登録者数は何人でしたか?)(えっと、確か70人です)(えっ?そんなに早くから?本当にありがとうございます。矢野さん、喜んで下さい、実は先日、登録者数1万人を突破しましたよ?)(ええっ?うそでしょうー!やりましたね、Rayuさん)(えへへ、ありがとうございます)
ふーん、矢野龍介はかなりの古参なんだ、と2人の会話を伺いながらの西野陽子はしみじみと和んでいる。と、ん?と気が行き2人の背後に視線を投げる。階段を上がってきたらしい階下の2人だ。佐藤A男、B子がこちらに歩んで来ている……
(熱烈なファンのスズキさん、四野さんとか、お元気でしょうか?)(ええ(笑い)いましたね、当時からあのお2人)(えっ?死んだんですか、彼らは)(まさか(爆笑)時々になりましたけれど、ちゃんとコメントして下さいます。ただ、どうしてもコメント返しが出来ません。チャンネルの書き込みが増えすぎて、嬉しい悲鳴ですけど……)
矢野龍介は、感じ入った風にRayuさんを見つめていた(見えては、いない)。
「……貴方は健気ですね、Rayuさん?」
いえ、私なんてと云って彼女は(節度を以って)矢野に身を寄せて、彼の手に触れた。予想以上に大きな手に驚きながら、添える手が両手になる。
「伺いました、病気をされたんでしょう。何年も入院だったのでしょう?お体は大丈夫なんですか?」
2人の様子に、うわっと陽子。Rayuさんが矢野の頬に手をやるものだから、彼の顔が真っ赤だ。傷に障るのではないかと焦っている、そこに掛かった声だった。
「あの」
声の主は佐藤A男だった。その横でB子が3人に向けて頭を下げている。陽子もRayuさんも、夫婦が其処に待っていると気付いてはいて。挨拶が遅れてしまった、と慌てて頭を下げる。矢野龍介だけが声に反応して「はい?」と応えていた。
「(2mの巨人)一目で判りました。管理人さん、矢野龍介さんでしょう?ケンイチから聞いています。ご退院おめでとうございます」
空気が変わり、あっと戸惑う陽子、Rayuさん、矢野の3人。対照的に佐藤夫妻は物怖じしない人達で、そこでニコニコと笑っていた。
「……失礼ですが、あなた方は?」とは矢野龍介の問い掛けだ、そこを現管理人・西野陽子が引き取って「ケンイチさんのご友人です。私も今日初めてお目にかかりましたので」
そこから先は詳しくは知らないのだという、頼りなげな陽子の語調。それをを引き取ったのはA男で。
「……僕等はケンイチの幼馴染です。今日は、九州は熊本からお邪魔しました。ケンイチとはここ1年の間にまた旧交を温めまして(電話でのやり取りだけですが)、一週間前に彼から連絡がありました。いつも話題にのぼる管理人、矢野さんが今日退院すると伺いました」
ケンイチに再会したいと願っていました。なのでどうせなら、今日にしよう、矢野さんにも会えるだろうという訳で、本日やってきた次第です。いや、お会い出来て光栄です、と嬉しそうなA男の説明だ。はー、そうなんですか、と伺い聞く陽子と矢野で、事情を知らないRayuさんは「ケンイチさん?どなたですか?」とキョロキョロしている。
あの、それからとA男は、B子の紹介になる。
「妻です、妻は実はケンイチの事がずっと好きだったんですが……」そこで再び3人に頭を下げるB子。彼女がやっと発言するのだが。彼女は何だか皆の古くからの友人のように、胸襟なんて始めから開いていますわ、という笑顔だった。
「初めまして、私、B子と云います。あの、西野陽子さん?貴方はもしかして?ケンちゃんの?奥様ですか?」
実はまだ、この件を矢野龍介にも話していなかった陽子、なので彼女は忽ち顔を真っ赤にする。皆の中で恐る恐る「……1年前ですが」と少し自慢も入れて、左手薬指の結婚指輪を胸の前に挙げ、披露すると。
待っていたぞと云わんばかりに、きゃーっ!と歓声を上げた佐藤B子が、陽子に抱きついていた。
「かわいい!なんてかわいい女性なの、ケンちゃんのお嫁さん!」
アワアワになる陽子は、ち・ちょっと待ってと云うのだが、B子は一度顔を離し、ぱっと陽子を見て、もう大好きとまた抱きついて頬ずりにまでなるから(なんて感情豊かな女性だろう、初対面でこんなに喜べるなんて)陽子も嬉しくなっていた。抱き絞めてもらうのが照れくさそうな、あのぅ?という問い掛けになり。
「あの、幼馴染みなら。ケンイチさんの子供時代って……どんなでした?」
「もう腕白っ子で、いつも私達を守ってくれた正義の味方!」
「な、何か、想像がつく(笑)今もそんなです」
盛り上がる2人だ、彼女等の周りも皆笑顔だが。矢野龍介は少し様子が違っていて、彼は嬉し気にしてそして肩も震わせている。柔ら気な談笑の中でそれに気付いたRayuさんは(泣いてるんだな)と、彼にも優しく微笑んでいた。
ケンイチの幼馴染みで彼を好きだったらしい女性と、ケンイチの新米奥様のお喋りはとめどなく続き、それでもひとしきりして。
皆の会話の中心は、シンガーRayuさんになる。
「へえ、ユーチューブ。チャンネルをお持ちなんですね」と、佐藤A男「私、観た事あるかもしれない、凄く歌が上手な方でしょう?」とB子で、夫妻はRayuさんの手作り名刺を貰って嬉しそうだ。
僕はチャンネル登録します、宜しくお願いします、私もママ友に宣伝しますね、まあ嬉しいですわ……
Rayuさんはずっと笑顔だ、チャンネルで見せる姿のままだ、と陽子は見とれている。矢野龍介は、声だけでも幸せなのか、また肩を震わせている。
「私、今日は公団さんのお招きで、管理人さんのご退院のお祝いにやって来ました。後ほど少しですが、歌わせていただこうと思っています」
ただ、と彼女は目を伏せて「あまり長居できません」
「え?」陽子と矢野の不服のある驚きに、Rayuさんは慌てて「いえ、計算外でした。ちょっと此処は遠すぎました」と継ぐ。
「私は、今拠点を東京に移しています。早朝出発して色々乗り継いで、到着が今です。仕事の都合で私、今日中に帰り着かないといけなくて。終電も考えるとあと1時間位しか此処に留まれません」
時間の都合らしい。話の途中から既に、皆落胆を始める。すぐに陽子は反応して「至急、公団でヘリをご用意します。(復路の時間は)それでかなり短縮できますよ?何ならそのまま羽田か、成田まで直帰されては?(でも、燃料はもつだろうか?)」
Rayuさんの表情は少し明るくなり、すぐに曇って。
「……帰京しても空港からだと、自宅は。やっぱり遠いんです、何せマンションが田舎の物件で……」
皆の落胆が続く。その中で諦め切れないのが陽子だ、彼女は慌ててスマホを取り出し、Rayuさん住所を教えて下さいと問い、地図検索を始める。告げてくれた地域にヘリポートは無いのか?……あ!あった!県警本部がある、が……いくら公団と云えども、事件じゃないのだから使えないだろう、いや待てよ、交渉できないだろうか?
矢野さん、と陽子は「ご近所に、ヘリポートのある県警があります。公団として相談できないでしょうか?」
「……県警?うーん。難しいですね、公団にそんな伝手はありません」
矢野龍介が腕組みになり首を捻って(ひねって)。管理人の2人は小声の相談になって「少し失礼します」と、会話の輪から離れていった。
Rayuさんは息をつく。
諦めはついているという表情で佐藤夫妻に笑って「それじゃ、1時間、いえ正味30分位のミニ・コンサート。何が出来るでしょう?相談に乗っていただけますか?」
彼女はソファーに置いたトートバックから楽譜数枚を取り出して「……オリジナル曲は歌いたいなぁ」
どれどれ、どんな曲があるんですか?と、3人が額を突き合わせる。皆さんの前で歌うのでしょう?リクエストとかあるんじゃないですか、とB子が云うと「そこなんですよ、私の持ち味はそこなんですよぉ……」A男が楽譜の1枚を手に取り、この曲歌ってほしいなあ、と云うと「ああ、嬉しい事を云って下さる」……Rayuさんは泣き言ばかりになる。見守る佐藤夫妻は沈鬱に(ちんうつに)。
しかしそんな鬱なムードも(矢野が数回、スマホの通話先を変えただけで)「いや、オッケーです、Rayuさん、オッケー!」と、喜色に満ちた陽子の声ですぐに解消する。
3人が管理人達に目をやる。すると、陽子が右手でピースサイン。その横では丁度、矢野が最後の通話先に謝辞を述べて「……公団は全国交通安全協会、また全国の交通遺児育英会に、毎年数億円単位で寄付を行っています、とお伝え下さい。それで辻褄は合うでしょう」と云い、それを終わらせていた。
「オッケーとは?」と、佐藤B子が期待に満ちた瞳で問うと「Rayuさんご近所の県警本部が、ヘリポートの使用を認めてくれました」と陽子。それに矢野龍介が講釈を加えた。
「公団に伝手はありませんでしたが、私のコネならありました。私の空手の先生に頼んでみました。あのじじいは(師匠は)弟子だけは全国に大勢います。警察幹部にも顔が利くのなんの、でした。公団からヘリを飛ばして、その空経路、又ヘリポート使用の許諾を得ました。何でも県警本部ビル到着後は、Rayuさんは警察車両で自宅まで護送していただけるそうです」
「ええ?じゃあ私……まるで真犯人ですか」Rayuさんの悲鳴は、嬉し気に変わった。西野陽子は嬉しそうに空で計算する仕草で「燃料は十分持つそうです。直線距離で……1時間で帰宅出来ます」
と、いう事は夕方まで大丈夫。と誰かが云うと、それを否定して陽子、皆の前で右手人差し指を立てて、それを左右に振り。
「それだけじゃありません。時間が出来たので、温泉に入って帰れます」
お・温泉?と一同が驚く。温泉が出るのかココと絶句する佐藤A男だが、それ以上に驚いたのは矢野龍介だ。
「陽子さん?……いつの間に温泉が?」
「地下の武道場を潰して、大浴場にしました。あら、勝手にやってごめんなさいね?それで、丘を掘ってみたら出たんです、温泉。美人湯ですよ?矢野さんも後で浸かりましょう?」
陽子の言葉に、矢野の背中が泣いていた。悲しくて?いや、嬉しくてだ。とても良い美術館になったではないか、と(私にこんなアイデアはなかった、いい処になったなぁ、ココ……)
ところで佐藤A男はここで、2人の管理人に感じ入ってもいる。僅かな時間だった、それで事態が簡単に動いたからだ。
西野陽子の機転もさることながら、遠く離れた関東地域の所轄警察に手を打てる矢野龍介の手配力(コネ?)、公団の在りよう。ケンイチから聞かされてはいた。此処は何だかすごい処らしい、と。
なるほど本当に凄い、感嘆して口笛になるほどに。
会話の流れは、Rayuさんのミニ・コンサートの打ち合わせになる。
「……オリジナル曲を3曲、歌いますね。で、評価の高かったカバーを2つ歌う。後はリクエストにお応えします、か?」
子供達も大勢やって来ると思いますよ、と西野陽子。彼女の脳裏には星の観察会の教え子達の顔が浮かんでいる。
「アニソン、考えておいた方がいいですね、【おじゃ魔女カーニバル】とか」
「あ、大好き。歌える歌える」と、陽子を指さしのRayuさん。
「ジブリやディズニーとか……」と、佐藤B子が云うと、彼女を指さしコクコク頷くRayuさんで「でも、歌詞がうろ覚えだなぁ」
演奏だけでもいいかもですよ、と陽子が云って、それなら私が自慢のピアノで飛び入ります、と云おうとしたところで、気付かずRayuさんは矢野龍介に目をやった。
「矢野さん?貴方のリクエストはありませんか。歌謡曲で構いません」
Rayuさんの問い掛けに、西野陽子は思考を変える。そうだ、この人こそRayuTubeの大切な視聴者なのだ、リクエストする権利がある(いや誰にでも開かれたチャンネルだ)と思い。
しかし、彼からJポップなど連想できない。頑張って、矢野さんと陽子が念じる前にあっさりと。
「【陽の当たる坂道】どうでしょう?」
意外に思う陽子と、手を叩いて「ドゥ・アス・インフィニティ!」と喜ぶRayuさん、のみならず佐藤夫妻だった。
その曲なら、私の親戚にトラキチ(阪神タイガースのファンの皆さん)がいて、(有名選手の入場曲だったので)何度も歌った事があるわ、とRayuさん。いい曲ですよね大好き、と佐藤B子。一方管理人達はヒソヒソ話で。
(意外です、名曲ですよ?そんな趣味があったなんて)
(いや、ケンイチさんが好きだった曲です)ケロリとして矢野は、ケンイチさんは丘の芝刈りをしながら、此処よく似てるよねって歌っていました、本当に残念だ……何でぇ!元気ですってば彼は!と、矢野の背中を陽子が叩いて2人がお茶らけていると。差し込むようにRayuさんが呟いていた。
「それなら……主人(ご主人は立派なギタリストらしく)を連れてくれば良かった。ギターやキーボードがあれば、きっといい演奏が出来たのに」
ギターやキーボードはすぐに公団で、と陽子が応えようする、がその前に佐藤A男だ。
「此処にギターはありますか?ギター、弾けます。僕は地元のアマチュア・バンドのリードやってます。それからキーボードなら妻が。妻は」
ぱっと顔を明るしくして、それならやっぱり急いで公団に機材を準備させます、と陽子が云う前に佐藤の発言は終わっていない。
「妻は……プロのピアニストです。地元の交響楽団に在籍してます」
え?と陽子はRayuさんと顔を見合わせる。2人は同時にB子に向き直り、同時に「ええーーっ!?」と驚いた。
顔を赤らめて、本日何度も下げた頭を、また下げながらの佐藤B子である。
「ハイ。私ピアニストやってます。活動は主に西日本です。あの、(1F)フロアの中央にあるピアノ。あのピアノさんは、スタインウェイのフルコン(フルコンサートグランドピアノ D-274)ですね?是非弾いてみたいです。コンサートでジブリのリクエストがあったら参加したいし、ディズニー・メドレーも大丈夫です」彼女は更に継いで。
「コンサートの余興でいいです。最後に弾かせていただけますか?リストの【ラ・カンパネラ】弾いてみたいです、此処で」
ひえーっと唸ってRayuさん(大変だ、この女性の前で歌うのか私?こりゃ、頑張らないと)
あわわ、とたじろいで西野陽子(余興は【キラキラ星】をやるつもりだったのに、やっぱりカッコ悪いなぁ、私)
私、今日は弾き語りをやるつもりですけど、何だか恥ずかしいなあ、プロの前でピアノだなんて。いいえ、とんでもない。私は声が汚くて、美声で歌える女性が羨ましいです。などと会話が盛り上がっている中で、陽子は視線を宙に彷徨わせて(さまよわせて)いた。
公団の関係者は既にこちらに向かって来ている筈だ、Z市からの機材の調達は間に合わない。幸い水晶の街の商店街に楽器店がある。店主のおじさん(既に顔見知り)に連絡を取ろう、運搬は公団の人間で構わないな、などど段取りを考えながら更に黒木を想う。今回のミニ・コンサートの打ち合わせは既に終えていた。ボランティアのつもりで来ているであろうRayuさんが、受け取ろうが拒もうが報酬は準備しているとの事だ。ディナーショー形式・S席のチケット相当・上限千人を想定した観客。市中相場で、千二百万円の大金らしい。ここに佐藤B子が参加したとなると、報酬は折半だろうか?
いや、そんな訳に行かない、と陽子は思う。2人は報酬など考えもしないで、ただ人の為に歌い、演奏しようとしている。それこそが一流の音楽家ではないか。公団がそれを最大限に評価しなくて、誰がする?(……あと千二百万円出してもらおう、公団に。黒木さんならきっと分かってくれる、だって原図に抵触しないもの)
陽子が、でもなぁそんな大金、おいそれと右から左に動かせるんだろうか?私のお給料2か月分・強かぁ、別にそれを使ってもらって構わないけどなぁ、などと考えて。虚ろに転じた視界の先には、美術館の壁面を透して、丘に集まる群衆がいた。
「え?」と、陽子は目を疑う。想定を超える人数なんですけど……?
会話の皆は、呆気にとられる陽子に気付く。同じように外を眺めて、あっと驚く。
広い丘は、いつしか人々で埋め尽くされようとしていた。千人は優に超えている、下手をすると五千人はいるんじゃないか?
「……人だ。人が大勢いる。何ですアレ?」とRayuさん。矢野龍介は、まるで見えているかのように、視線を眼下に投げていた。見えているそれが、彼が永く此処で管理人を務めた証しだと云わんばかりに「水晶の街の皆さんです、ふふ、どうやら私に会いに来たようですね、ふふ」
(ふふ、違います。お目当てはRayuさんでしょう、ふふ)と、陽子は内心で軽く矢野龍介を踏みにじって、じっと丘を見つめた。視線の先に、中村弁護士夫妻と並び立ち手を振っている、ひときわ背が高く目立つ男性がいて。彼が赤毛のケンイチ、私の夫だ。
「皆、行こう!」
陽子の声に、既に佐藤夫妻は階段に向けて駆けていた。陽子は請うように管理人の手を掴む。Rayuさんの手も優しく握って階下に飛んでいく、勢いだったが。不案内の2人がいては。
彼女は赤面になり「ううん」と云って仕切り直し「行きましょう」と正して、2人を伴い階下に向かい歩み始める。管理人そこから階段です、一歩。ハイ、次の一歩。
管理人・矢野龍介が階段に姿を見せると、1Fフロアから大歓声が起こる。階段中腹で、彼に並び立ち陽子がフロアを眺めると、すし詰めではないが、結構な人だかりだ。皆が静かに待ち2Fに上がってこなかったのは、此処の人達がよく見せる気遣いだったのだろう。それにしても歓声が上がるだなんて、結構矢野人気ってあるんだ、と陽子が感心していると。
Rayuさんだ、美人だ、本物だ、と、矢野の後ろにちょこちょこ姿を見せるRayuさんに向かって皆が口々に云って騒いでいた。くすくす笑う陽子、違いますって、矢野さんの事も皆さん嬉しがってますって、と陽子は気遣わねばならなくて。でも凹んでいる矢野が可笑しくって彼女の笑いが止まらない。
そこで、フロアに現れたのがケンイチだった。
「管理人!」
それに呼応して、5人はフロアに降り切る。ケンイチが駆け寄ったのは勿論、管理人・矢野で。矢野が再会の抱擁とばかりに両手を挙げたので、バカな奴めと無防備な横っ腹に強烈な右フックを入れるケンイチ。うがっと唸って(チクショウ、この夫婦ときたら)と、膝を折りそうになる大男。それを両手で抱えて受け止めながら「弱くなったな、どうした?」とケンイチ、次には本当に強く抱きしめた。
「お帰り、管理人。どこに行ってたんだ、馬鹿野郎」
「ケ、ケンイチさん、お元気そうで何よりです」
2人は苦笑いになる。周辺は?Rayuさんを囲もうとする人の流れが出来て、自然に人が2Fフロアに上がっていく。すると1Fフロアに出来た間隙を、屋外の人々が館内に入って来て埋めて。まるで呼吸しているように、フロアは一定の人の数に保たれている、ワイワイガヤガヤの喧騒が始まっている、そんな中。
ケンイチは矢野龍介の顔に手を触れて「怪我……大丈夫なのか?目が、見えねーな、それじゃあ」
大丈夫です、と矢野「治療はまだ続いています、直に目は直してもらえるそうです、移植手術らしいですが……」
移植だって、大変だなとケンイチ。彼は笑って「大丈夫だ、何てったってヨーコさんがいてくれる。管理人の目になってくれるぞ」
ここでケンイチが少し照れて、知ってた?ヨーコさんオレの奥さんなんですけど?と云ったものだから。
「コンチクショウ、上手くやりましたね」と、管理人・矢野が無造作に簡単に、ケンイチの腹部に突き上げ気味のハンマーパンチを振るう。30センチ位宙に浮いたケンイチ。着地しても体や足がガタブルになるが、必死に耐えて。
「そ・そういえば、元空手世界チャンピオン?だったな。初めて受けたゾその鉄拳……くそっ、何て馬鹿パンチだ」
周辺の皆がかわいそうに、と口々に云いそして笑う。背後で佐藤B子が口元を押さえて「え?2人は仲良しじゃなかったの?」そこはA男がリカバリー「大丈夫。2人は一生懸命に取り戻そうとしてるんだ、時間をね?」
A男は安心し切って、その一方でRayuさんの様子を見ていた。西野陽子が露払い役で、Rayuさんは大忙し中だ。大歓声に応えて順番に、男性ファンには握手を、女性や子供のファンには抱擁をしている。手を抜かない、あの女性は素晴らしい人格者だなあ、とつくづく思って。気になるのは背後に虫のように張り付く子供達だ。その中にずっとお尻に抱き付いている太った色ガキがいる。笑えるあの子は誰だろう?
騒がしい中で「貴方は変わったと聞きました」と、矢野龍介。ケンイチはダメージから何とか復活している。
「うん、髪型かな。下したし、ミュージシャンっぽくしてみた。あと勉強しすぎで目も悪くなって眼鏡をかけてる。今は中村(弁護士)先生の事務所で働かせてもらってるゾ」
勉強ぅ?本当ですかぁ?と疑わしそうな矢野に、ふてくされて本当だってば。今自宅(水晶の街の新居アパート)で、勤務後毎日5時間は司法の勉強してます、ヨーコさんに聞いてみろよ?とケンイチが抗議すると。知ってる、聞いていますよその話、と矢野が聞き入れて。
「……お子さんは?」
うん、と顔を赤らめて、ケンイチ。コホンと咳払いして。
「まだ、だ。深夜まで勉強であんまり頑張れてないけど、頑張ってる。あの、そういうことはヨーコさんに聞いてはイケナイゾ。と思うんだがデリカシーとか、どうかな?」
大笑いになる大男だった。
「リトル・ケンイチ。プリンセス・ヨーコ。どちらでも楽しみです」
あは、馬鹿野郎、とケンイチは矢野の胸を小突いて「また後で。ゆっくり話す時間はある」
ケンイチは矢野に、お客さん(Rayuさん)を独りにするな、と助言して一歩踏み出すと。勢いよく鍵腕を佐藤A男の首に回し「A男!」そのまま隣に首を廻して「B子……さん!」
3人は再会だ。約束の美術館では果たせなかった、だが此処でそれが叶った。彼らはそんな歓声を上げて。
(A男、元気だったか、絵は未だ描いてるのか)(ああ、趣味程度に続けてる、僕は地元熊本で、教員をやってる、数学の教師。ああ、話したっけかな?)(ケンちゃん、私ピアニストになったんだって、これも話したかしら?)(2人共、やっぱりスゲーな)
ケンイチは感極まっていた。じっと佐藤B子を見つめて「相変わらず、美人だ。B子……さん」
きっとこの人は……長年隠していた告白を、今するつもりだと予感したB子はケンイチの胸に右手を突っ伏して。だめよもう私達大人なんだから、近寄ってはだめ、抱きしめなんて絶対にだめ。
その様子に面白くなさそうにケンイチ、でも笑う「君にずっと言いたかった事がある……」と、云う。
「B子。君は世界で一番美人だ、美人だ、美人だ。子供の頃からそう思ってた……これでいいかな?だから言いたい、A男をずっと愛してほしい」
佐藤夫妻も感極まる。A男は滂沱の涙だ。なぜか2人は申し合わせたように左右に道を空ける?と……
そこに矢野龍介と持ち場を交代した、西野陽子が軽い腕組みで立っていた。
「……誰が世界一の美人なんですか?」
くそ、何だこの演出!とケンイチは歯軋りになって「ヨ・ヨーコさんは宇宙で一番美人ですが、それが何か?」
きゃーっと歓声を上げて、彼女は両手を挙げる。ケンイチの胸に飛び込んでくるかと思いきや、彼女は待つ。
くそ、やっぱり演出が気に食わねー!とケンイチ、流れのままに陽子を抱きしめたのだった。
気が付くと、場が静まり返っている。騒がしかったRayuさんの周辺も動きが止まり、そのRayuさんも2人を注視していて。
やっぱりこの展開はまずいぞ、オレには無理だ!とケンイチが叫ぼうとした口元に、構わず西野陽子が唇を重ねていた。公衆の面前、だが皆が願ったゲスト2人のラヴシーン!
大歓声に沸き立つ美術館エントランスフロア。皆が口々にやった!でかした!美しい!と叫んでいて。
ケンイチは苦笑いに陽子から少し顔を離し。周囲のヤジを気にしながら、彼女の顔をしばし見つめて。
「……長かった、やっと終わったな、ヨーコさん」と云う。
陽子はケンイチを見つめ返す、もう一度今度は頬にキスをして「物語は終わらない」そしてRayuさんや佐藤夫妻を見て、ケンイチの耳元に囁く。
「……RayuさんやB子さんのような人達がやってきたよ?笑顔の連鎖はまだまだ拡がる、この物語は決して終わらないわ」
今度は、西野陽子がケンイチを強く抱きしめていた。そんな時だ。やっぱり現れる。
美術館入口扉に仁王立ちの食堂の女主人である。エプロンに手ぬぐいを頭に巻いて。なぜかヤンママ3人も同じ姿で、同じポーズでそこに従っていて。
「みんなーっ!やるよーっ!丘で大・焼きそば大会だっ!」
わあっ、とフロアが皆喜んで。すぐに人の流れができる、動き始める、屋外に向かい始める。
「おお?Rayuさんじゃないか!よく来たね、後で私が歌の手ほどきをしてあげよう、歌にはソウルって奴が……」女主人はRayuさんを見つけて叫んだが、そのまま人混みに押し出されて、消えた。
赤毛のケンイチ、彼は西野陽子の肩を抱いて皆に合図をして。人の波と共に美術館の出口に向かう。同じ様に歩み出す佐藤夫妻。管理人・矢野龍介はRayuさんにエスコートされて、続く。
さあ、これで皆が焼きそばを食べて、その後ミニ・コンサートをやって、大団円となる。
え?3号爺とナイル(成井)がいない。ご心配なく、では視点をドローンのように変えて離れて行こう。ほら今、丘の入り口に濃紺のスポーツカーが停車した。降り立ったのは3号爺とナイルだ。
3号爺は道草をして、水晶の街で自動販売機にF端末を入れた処で、ナイルに捕まっていた。勿論ナイルが其処にいたのは、管理人・矢野龍介の帰還に合わせた訪問で、この捕物劇はそのついでの事だ。
彼は経理の部署から、F端末のキャッシングに不穏な動きがある、と報告を受けていた。最小桁数が1千万円なのに、数十円単位で使われている。数字上のバグ発生は、もしかしたら反勢力のサイバー攻撃の気配かもしれないという警戒内容だったが?コイツだ原因は、だった。
ナイルは一度譲渡したF端末を返却してもらう事はしない。なので、軽く銃を3号爺のこめかみに当て「じーさん、今度やったら容赦しないぞ」
よせってばナイルと、3号爺は簡単に銃口を払いのけて。
「儂は知っとるぞ。お前は悪者ぢゃない」
ナイルはため息で「だから」と継いで。
「使うのなら高級品を買え。自動車とか、飛行機とかあるだろう?豪華客船でも買って世界旅行にでも行って来い……」
このように実はこの2人意外に仲が良い。2人は人だかりの中美術館に向けて、丘を歩んでいる。丁度、追加の焼きそば材料を調達しよう小路を駆け下りてきた食堂の女主人と、成井然のナイルは此処ですれ違う(ナイル!やっぱり成井って人はナイルじゃないか)(ふん、極東地域・初代主席オペレーター。スパイの貴方が何をやってる?)この伏線も、たったこれだけでほぼ回収。
視点が更にズームアウトして、丘の全景になる。
今は秋が終わり、冬が始まろうとしている。広大でまだまだ美しい滑らかな丘に、たくさんの人々がいる。皆笑っている。暫くすると、煌めく(きらめく)水晶の建物から美しい女性の歌声が響き始める。やがてそれは、右手のレ♯の鍵盤が奏でる美しい鐘の音に変わるのだ。
更に視点をズームアウトしていく。丘に従い流れるように、箱庭のように鮮やかな水晶の街が、其処に広がっていて……
さあ、これでようやく。これがこの物語のエンディングである。(了)
スミマセン(T_T)、クリスマスに間に合いませんでした。でもこれで完結です。ところが重要な伏線の回収を描き切れませんでした。
なので後日、1話短編をお届けします。題名は【赤毛のケンイチの一人称】
疲れたのでお正月明け後です。読者の皆様、良いお年を。