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(4)-2最愛

 西野陽子の疑念や葛藤かっとうが晴れてしまうと、物語は展開を急ぐ。

 寒くてつらい冬はあっという間に終わる。美術館の一番美しい春、これもすぐ過ぎた。そして夏が始まろうとしていた。

 ところで、この美術館は人の進化を促す一つの実験の基幹である、とかつて矢野龍介が知ったいきさつがある。矢野とは違い西野陽子は早い段階で、第6感を感じた人物でいわばその当事者と言ってよい。そんな彼女ならば、その実験に応える何かの成果、反応、変化を起こし得る筈だ。果たしてそんな事があったのだろうか?

 実は、それはあった。一夜で、哺乳類の骨格が変化する?そんな訳はない、此処はホグワーツではないのだから。ただし、数年後、数十年後、一世代後に、その器を越えた知性の為に、人の指が6本必要になり兼ねない、そんな事を彼女はやっている、無意識に、そして遂に。その辺りのエピソードに触れておこう。


 春の終わり、夏の始めのある日の午後。

 美術館に、水晶の街に唯一ある公立としては珍しい小・中・高一貫教育学校から3人の教師達がやってくる。管理人・陽子に話しがあるのだという。

 対応した陽子は、彼らをよく見かけていたし、彼らも陽子を見知っていた。彼らはいわゆる常連の鑑賞客だ。学生を率いて、月に1度はやってくる。3人の内1人は過去に面識がありお喋りをした事もある。陽子が新管理人に就任当初、街の名士としてわざわざ出向いてこられ、挨拶をいただいた。ややふっくりとした婦人、学校の校長先生だった。もう一人の若い女性は痩せて小柄なまだ若い感じの、小学部で担任を持つ国語教師。痩せて3人の中でにょきっと背が高い、髪が7・3分けの中年男性は、高等部で数学を専任される先生らしい。

 打診はあったが話の内容を聞かされていないので、突然の訪問に近い。陽子は戸惑いを感じながら茶の準備をしてそれを運び、彼らに対峙した。2つの長椅子に対面するように座る。

 話し始めたのは若い国語教師だ。彼女の受け持つクラスで起こっている問題らしい。

「……宇都宮英文うつのみや・ひでふみ君。ご存じだと思います」

 学校の先生方の相談だなんて、私に務まるのだろうかと気構えていた陽子は、よく知った名前に少し気が緩んで、はいはいと頷いた(うなづいた)。

(宇都宮さんちの、太っちょ、ウッチ(あだ名)じゃんか。ってことはこの先生が受け持つクラスは小学3年生だ)

「私は彼の担任ですが、彼がというか、彼を中心にした数人の生徒達が妙な事を始めて。困るというか、驚いているというか…」

 お茶を口元にで、動きを止めて陽子「妙な事、ですか?」口をつける程度にお茶を飲み「妙な事ってどんな事ですか?」

「居残りで勉強を始めました」

「は?」当に当惑といった顔になる陽子だ。先生方の顔を見ると、みなさんこちらを見入っていて(なるほど、これが今回のお話しなんだ)

 考え込んで彼女は尋ねてみる「他の生徒さん数人もいるとおっしゃいましたが、お名前は?」

 国語の教師が名前を挙げると、陽子は顔色を変えて露骨にしまったと困る表情を浮かべた(ウッチにあの子達、みんなじゃん。やれやれ)

 教師は更に続けて「彼らは4、5日前此の美術館で、管理人さんと天体観測をした。そう言っています。その時に算数の勉強をしなさいと、強要はされていないけど、貴方から言われたのだと。事実ですか?」

「は、はい」軽くしょぼくれる西野陽子だった。

 話は2週間前に遡る(さかのぼる)。

 その日は午後から3人の婦人が美術館を訪問していた。彼女達はいわゆるヤンママだ(ヤクザではない、ヤングのお母さん)。年が近くて、皆がRayuTubeのファンで陽子とも気が合って、彼女達は常連となった。その3人のリーダーが宇都宮うつのみやさんで、彼女は水晶の街の公立病院でナースをしている。息子さんが独りいて、彼の名前が英文ひでふみ君、彼は結構な肥満児で、つまり愛情いっぱいに育てられている。

 夕刻になって、そろそろいとましようとした宇都宮さんが、美術館扉横に鎮座する、陽子の反射式望遠鏡を観止めて「ヨーコさん、これは何?ミサイルの発射装置?」

 陽子は苦笑いをしながら、自分は趣味で星を眺めるのだと明かすと、そこでヤンママ達が井戸端会議を始める。あーでもない、私知ってる、こーでもない、貴方知ってる?その端から首を覗かせて宇都宮さん「うちの入院患者さんの中に【冬の大三角】がどうのという人がいて。その人が云うには爆発しそうな星があるって、本当?」

「ペテルギウスね、うん、爆発しかねないかなぁ」

 ヤンママ達がええーっ!と驚くのだが、それは歓声のようにだ。この時期の夕暮れはまだ遠いが、東の空にとばりの気配があって宇都宮さんは悪戯っぽく「ちょっとせてくれないかな、その望遠鏡。実は私、観た事がないんだ」

 陽子はうーんと唸って(実はもったいつけて)頷いた「いいですよ、観ましょう。ただし今の時期はペテルギウスは見えない、空は今【夏の大三角】が始まるから。それで構わないなら、天体観測してみましょう」

 20時半になって、ようやく空が落ち着いて。丘から眺める夜空は絶景だ。星々がこぼれんばかりに夜空を埋め尽くしている。丘に繰り出したヤンママ達は歓声を上げて「凄っい、これが丘の夜なんだーっ!」

 陽子は、望遠鏡を調整している。簡単に経緯台をセット、マウントを正しく北に向ける。粗い調整だがファインダーで北極星を確認して、経緯台の方位角、高度目盛りを確認して、主筒を東の水平線に昇り始めたベガに合わせる、赤緯を確認して準備完了。

「今、ベガが見えていますよ。覗いてみて」こうやって覗くんですよとドローチューブをつまんで。3人は交互に覗き込んで唸るが、こんなもの?と意外な顔もする。

「そう、夜空で目立つ1等星だけど、結構な拡大率でもこんなものです」ふーんと3人。

 でも肉眼では見えない星がある、と陽子が説明して空を指差し「目立つ輝星で云うなら今見てるのがベガ、左側(東北)にデネブ、ベガの右手(南東)にアルタイル。これが夏の大三角と呼ばれる夜空。その周辺に何も無い空があるけど、実は望遠鏡なら星が意外にたくさんあるのが見えちゃう。ああ、ちなみに…」指先を南に動かしながら、あれがいて座の南斗、更に輝星が南にあってアンタレスで、と指先が宇都宮さんを差してしまって、彼女に気付く。

 見ると宇都宮さんは感心しきりだった。凄いね、管理人・ヨーコさん、空がまるで庭みたいだね、とブツブツ言ってる。

 そんな時だ、1人が提案をしたのは。彼女は今週末に此処でキャンプをしないか、と云い始めたのだ。どうやら、彼女のご主人がソロキャンプの用品を買い揃えてそのままらしく、埃りを被ったそれを使ってみたいのだと云う。

 3人はワイワイ言い始める。それを聞きながら(丘でキャンプ、許されるのか?)ふと思って(あ、私が許せばいいのか)同時に彼女の頭の隅に、地下フロアの誰も使っていない宿泊施設が思い浮かぶ。悪天候でも、いざとなればあそこに泊めてあげたら善いではないか。

「……キャンプやりましょう、面白いプランだわ」

 かくしてその週末。金・土・日に、此処美術館の丘でキャンプ&即席の天体観測会が行われたのだ。

 初日の参加者は、ヤンママの家族達数名だった。その時に宇都宮さんは息子の英文君を同伴した。そこで陽子は彼を中心に子供達と仲良しになった。2日目は合計20人越えの大所帯となる、子供達が誘い合って、大人たちが誘い合って、そうなった。キャンプは楽しかったし、キャンプ料理も主婦達が活躍してくれてご馳走だった。勿論、星の観察も皆が興奮して大喜びだ。この時は雨の心配がない天候だったが、人数の関係で多くが美術館に宿泊してもらった。宿泊施設の機能も概ね(おおむね)使えると確認出来たし、皆が喜んでくれたので成功裏に終わった催しだとばかり思っていたのに……


 陽子は、国語の先生の前でちぢこまってしまった。

(どう困っているのか知らないが、学校に迷惑をかけてしまったのか、私)

 ところが校長先生が、国語の先生にきつい顔を向けて、違うでしょ、そんな話をしに来た訳じゃなくてと咎め立てをする。国語教師は、はいですから苦情は述べていないでしょう?

 うん?何か様子がおかしいぞ、と陽子が訝しく(いぶかしく)思っていると、校長に向いた視線を再び陽子に戻した国語の教師が「なぜ彼らが居残り勉強を始めたのか、その理由を知りたいんです」と言った。

「え?」全く解らないと陽子。校長先生、数学の男性教師と目をやるが、こちらの返答に期待している……

(学校で、ウッチは何をやってるんだろう)と陽子の気が向く。

「……英文君は、居残りで勉強、何をやっていますか?」

「宿題です、主には算数です。そして予習をやっています」国語教師は言い募る感じになって。

「更に更にと、予習をやっています。まだ教えていない先まで、なぜか勉強しようとしています。未知のパートですから概念から判らず、難しいと思うんです。なので彼らはお互いに教え合って考え合うしかない、だから複数人で勉強しているのでしょう。でも、なぜですか?なぜそうなりましたか?」

 あ、と陽子は声を出してしまった。ふいに合点したからだ。その声を動揺とみたのか、校長先生が陽子をなだめようと発言した。

「管理人・ヨーコさん。これは素晴らしい話なんです。だって宇都宮英文君は、そんなに頭の良いガリ勉の児童ではありません。そんな子の変わりようったら。そもそも、勉強したくて皆で居残りするなんて、私は聞いたことがありません。ですから、事情を知りたくて私達は本日伺ったんですよ」

 口を半開きにして、あはっと笑ってしまう陽子だった。事情は分かった、口元を閉じて先生方を見つめる。さて、大切な話だ、しっかり話さなくてはならないゾ。

「あの子達、進化したんですね」ポツリと陽子が言ったので、え?教師達が耳を欹てる(そばだてる)。陽子は続けた。

「あの子達は私の云った事を理解して数学、いや算数ですね?そのカリキュラムを急いで消化しようとしているんです」

 数学の男性教師が、黙っていた口を空けようとしたので、陽子は待って下さいとゼスチャーして。

「私は、教師である先生方を尊敬しています、先生方がいなかったら、この国に未来は有りません。それをご理解いただいて。その上で意見させていただきます」継いで。

「2つ意見が有ります。勉強のゴールの形と、そしてゴール地点です」

「?」教師3人は聞き入っている。

 まず、ゴールの形ですがと西野陽子は話し始めた。

「先生方は、四季で夜空が変化する事をご存じだと思います。でも夜空が変わるのに、相変わらず月は満ち欠けを繰り返す。(金星の軌道にもよるけれども)よいの、明けの明星がちゃんと輝く。なぜでしょう。つまり太陽に拘束された星は惑星です。天空にちりばめられた星々は天体です。動きを考えてみれば、どちらもダイナミックに別々に動いています。惑星と天体は違うんだ。ひとくくりに単に星、とまとめない。これがゴールの形です、ある一面の天文の姿です」

 見ると校長先生と、国語教師は合点がいかない顔つきだ、数学の先生だけが正しく脳裏に描けているのかな?陽子は、決して笑わず続ける。

「次はゴールの地点です。先生方は、勉強がどこで終わるのか明確に教えていらっしゃいますか?」

 国語教師は思わず「一生勉強は続くものですよ」と言い、陽子はそうでしょうと頷いて彼女の機先を制す。校長先生は腕組みになっていた。

「もしかしてゴールがマラソンの42、195キロだと判っているのに、それを教えないで、生徒を走らせていませんか?生徒はゴールが2キロだとか、10キロ先だとか楽な方を考えてしまいがちです。そうすると彼らに準備が出来ていません」

「管理人・ヨーコさん。当校は一貫教育です。そこは大丈夫。自信がありますからお任せになって」

 これは校長先生の思わず出た発言だ。おそらく有名大学を目指しなさいというゴール。それでは漠然ばくぜん過ぎるんだと云いたいのだが、真摯に生徒を想う教師の姿としては間違ってはいない……ここも大きく頷いて認める陽子。だが彼女は話し続ける。

「ゴール地点は大切です。私にこんな体験が有ります。高校に入学した時に、数学の先生がこんな事をおっしゃいました。ようこそ数Ⅱの世界へ。今まで習ってきた数学は微積分を理解する為の土台だったんだよ、と1つのゴールの形を示して下さったんです。ああ、そうだったのかと皆は感嘆しましたけれど、私は天文を志す身でかなり勉強してたので。それじゃ足らないと判っていたから、実はあまり感銘を受けませんでした」

「……数学のゴール地点が天文学、と云いたいのですか?それは飛躍しすぎている」

 それは明らかに数学教師の苦言だった。これには多少陽子も対立の目になる。勿論、対立の口論の場ではない。すぐにお互いが譲歩になる、お互いに息をついた、するとお互い苦笑いになった。

「すみません、極論と誤解させてしまって。ただゴール地点は、目指すものでずいぶん違うんだとお話ししたかったんです」詫びながら、陽子は話し続ける。

「私は子供達にゴールの形として簡単な天文学の姿を語りました。次にあの子達が目指すゴール地点ですが、とりあえず……」ここで、彼女は教師一人一人を見る。大丈夫だ、落ち着いていらっしゃる…… 

「……ゴール地点としては私は。天体観測をするとこの宇宙の中で今自分が何処どこにいるのか判るんだよ、と教えました。ですから多分、あの子たちのゴール地点はそこでしょう」

「は?」教師3人は、一様に理解できない顔で驚く。

「この宇宙で?自分が何処にいるかって?そんな事云ったって……」数学の教師が再びとげ立つが、もう気にしないとばかりに陽子だ。

「あら、簡単なんですよ。中学生くらいの数学、もうちょっと先かな、高校生レベルの簡単な数学の知識で大丈夫。現に私は中学生時代、大人に混じって星の観測会に参加してましたから」

「それは、天体観測の話でしょう?中学生の貴方が参加できたのだから、アマチュアレベルのお話でしょう。天文台の科学者のような……」と、数学教師の苦言がその最中に頓挫とんざする。専門家、プロならばそれが出来る?

 彼は、あっ、という顔をする。彼は話の関連に、ふいに腑に落ちるものを感じたのだ。この若い管理人の娘が云わんとしているのは、段階の話?

 陽子は彼の様子に微笑む、多分、まずこの数学の先生が解る……

「例えば、此処から星の観測をしたとします。東の水平線に極軸37°の高さに1等星が観測できました、あの星の名前は何だろう?測定地点の緯度を確認します。後は赤緯、赤経を机上の計算で望遠鏡のデータから導きだします。この計算には数学の公式が必要ですが、そんなに高度な数学ではないんです。ちなみに天体観測では夜空を天球と云います。地球儀を考えて下さい、硬質な球体です。それを内側から見上げる。地球儀にも緯度・経度が記されていますね。天球にも同じように記して、それを赤緯・赤経と呼びます。これを世界地図のように、例えばメルカトル展開して平面にしたものがいわゆる星図、というものです。この星図の上に先程の観測データを照らし合わせるのですが、その時に使うスケールが私達が良く知る子午線です。この線を滑らせていく、先程のデータと一致する星は?あ、シリウスなんだ、と判ります」ここで、息継ぎ。ふう。

「つまり、恒星、天体、惑星どのような星も名前と位置が判定できます、裏返せば自分の位置が判っているという事です。ただし、これは相対的な見た目の角度上の話です。本当の位置特定とは云えませんが、その一端ではあります。どういう事かと云えば、これに距離の概念を加える。すると天球は砕け散りますが、空間という絶対値が得られる。これが本当の姿、天文台で観測される宇宙です」もう一回息継ぎ、はあ。

「……本当の姿を知るのは、それは大人になってからで良くないですか、なので。ちゃんと算数の勉強をしなさい、段階を踏んで勉強する事が大切で、今の成績は関係ない。必ず望遠鏡の先でそれが覗ける(のぞける)ようになるよ、と私は云ったんです」

「まずは簡単な算数、そして数学。もっと突き詰めたければ、3角関数、指数関数、微積分という訳ですね?面白い……貴方はそのようにゴールを捉えるのか」

 どうやら数学の教師は判ってくれたようだ。彼は痛快そうで、口元に笑みさえ浮かべている。

 2人の先生は?国語の先生は仔細が不明だが、凄い凄いと頷いている。校長先生の唇が動いている、何かしきりに考えてそれが未だ言葉にならない様子だ。

「校長先生、興味深い話です。算数が、数学へと飛躍したがっている。面白い導き方です」

 数学の男性教師が彼女に向かってそう言うのだが、ところで校長先生は、全く持って彼の発言を聞いていなかった。彼女の思考はうわの空に在って、それをようやく言葉にする。

「自分の位置?宇宙の中で……自分は何処にいるのか、自分は何者なのか?」

 校長先生は定まらない視線を陽子に向けていたので、陽子は慌てて茶らかす。お茶ら気ないとマズイだろう、話がまさかのデカルトになってるじゃないか、何でそんな難しい話になるんだよ?

「校長先生?哲学ではないです、ただ誰だってそれは知りたい事です。特に、子供の好奇心は旺盛です、算数を急いで勉強して、早くゴール地点に立ってみたいんでしょう」

「そうね、それが向学心だわ……それで彼らは居残りで勉強を始めたんだ。これは凄い事だわ」

 校長先生は2人の教師を見やった。彼らは校長の目をまともに見つめ返していた。結局彼らは教育者たる者だ、子供達に限らず誰であれ、向学心に燃える者を応援しない筈はなく。

「管理人、ヨーコさん、是非に」と校長先生、国語の教師が口挟みになったので見事にハモる調子になって「生徒達に星を観せて下さい、そして同じように教えて上げてほしい」

 最後は数学の男性教師だ。勿論彼も同じ意見を述べるが、提案もした。

「そうだ、夏休みが近い、林間学校を開くといい、可能でしょうか?どうでしょう校長?そして管理人・陽子さん?私は家族を連れて参加したいなあ」

 ええ?と笑いながら陽子。少し考えて「出来るかな、いや、出来ますね」

「美術館には、大人が宿泊できる部屋が都合20人分あります。望遠鏡はこの際いくつか買っちゃいましょう(買えるだろ、何せ毎月の給料が500万円だし)……きっと出来ます、先生方」

 ちなみに、この合意はあっという間に具体的実現を見る。星の観察に必要な機材は、高額な反射式望遠鏡、屈折式望遠鏡がそれぞれ十分な数準備されてそれは勿論、管理人の懐からではなく公団が負担をして。また、天体観察を行う際には公団が専門家を講師として招く事も正式に決まる。え、それじゃあ他の地域で開催されている会と変わらない?大丈夫。西野陽子がしっかりとサポートにつく、彼女はちゃんと子供達をガリレオに変えていく。


 この話は学校側の意見も交え水面下で静かに進捗した。このかん不思議な事に、館内地下フロアの宿泊施設の大らかな運用と意匠の変更(厨房の追加改築設置)丘を登る小路の拡幅、登り切った美術館の一隅いちぐうに大型バスが2台駐車出来る駐車場を整備する、など公団が難色した案件がすんなり認められた(地下フロアの武道場を潰し大浴場に変更するプランも承認だ、今年の秋から着工予定となった)

 公団が、原図に固執しているという西野陽子の理解はあっさり崩れた、実は何て事はなかったのだ。

 かもしれない、こうした方が善い、では公団に限らず誰しも動かない。林間学校の提案のように、何をすればどう価値があるのか、何に供与出来るのか。具体的な事業があってはじめて、環境や施設がどのように必要なのか、という情報の補完が始まり、形になる。いわば実弾であれば原図にだって風穴は開く(あく)。公団は動き始めれば強力な力を見せた。翌日には大工事を始める程に。

 この時何かうねりがあったのだろう、珍しく公団側から管理人・西野陽子に提案があった。この際、原図・意匠を変更してみたい、貴方の意見はどうかというもので、スマホの先は勿論、あの公団の男性、黒木だ。

「管理人、実現するかもしれませんよ?丘を大きく変えて、それなりの宿泊施設、ホテルを建設してはどうだろうというプランが軌道に乗りそうです。従業員を水晶の街から採用すれば、街もそれなりに潤うでしょう。丘には大きな駐車場を造る、丘を登る小路も2車線の導線にします。ちょっとした事業になりますが、山道も街からのルートの部分は拡幅工事をするプロジェクトです。貴方がやりましょうと同意して下されば、それはおそらく実現しますよ?」

「……私が同意すれば、ですか?」はた、と陽子は固まってしまった。なぜ私の意見ごときが、それほど重要なのだろう。いや、と思い直す。

 実は美術館の管理人とは、これほどの権限が与えられていたのだ。高額な給与はそれに見合うものだった。唇を噛んで下を向いてしまう。矢野龍介に申し訳ないと思う、私はただがむしゃらに走っていただけだから。

 スマホを耳に当てたまま、考える。たくさんのお客様を出迎える、美術館の情報をおおやけにする、世界に向けて発信をする、いわば自身が夢に描いたプランだ。別にボランティアだとうそぶかなくとも利益だって得られるようになる、周辺にとってもありがたい話ではないか。でも、でも……

 陽子は首を横に振る。それでは水晶の塔・美術館ではなくなる。街の住人達の心を癒す場所ではなくなる……此処がケンイチさんや矢野龍介と出逢った、静かで不思議な場所でなくなる。

「それは、やりたくないです」

「え?」

「私、お伝えしたと思います。秘匿性はこの美術館の重要な魅力です。なかなか行けないから人は憧れる……」

 しかしと公団は、黒木は言いすがって。

「小規模ながら、既に美術館はホテルの様相になります。管理人が描いていた姿になります。従業員も必要では?専門のシェフも必要になりますが?それならいっそ、ここは大きく拡張してはどうです?」

「その人員ですが、とりあえず人の手配は必要ありません、何とか私が手作りでやってみます」

 いいんですかそれで、と黒木は意見する、勿論以前陽子の提案に沿う筈だと、彼女を尊重しての事だ。1人で何役もこなさなければなりませんよ、大変ですよ?とスマホの先が念を押す。オッケーオッケーと西野陽子。料理は姉さんから教えてもらおう。忙しくなったらヤンママ3人に手伝ってもらおう。水晶の街から応援だって来てくれる筈だ、それが正しい姿だ。

 黒木はやっと言葉を引き取って、判りましたと云って「なぜ貴方はそんなに?そんなに頑張るんですか、西野陽子さん」

「え?」陽子は吹き出して、笑った、とても良い気分だった。

「だって私、管理人ですもの。えへん、私は水晶の塔美術館、管理人・西野陽子なんです」

 

 夏の林間学校と天体観察会は、西野陽子が着任した翌年の夏から始まった定例事業となった(天体観察は要望に応じて、四季それぞれにミニキャンプ形式で行われた(でも費用は全額公団持ち))おそらくはこれが遠因となって。

 こののちの数年後に、水晶の街の児童達の数学的素養の指数が大きく向上する。児童達の中には、中学卒業前に微積分の極限値を容易に理解する者も多くいた。彼らは目を見張る成長を遂げ進学し、将来本当に天文学を志す者もいれば、他の道で驚くべき才能を開花させる者もいた。

 生物の進化とは?それは浅く広汎に始まったのではない、と云われている。それはおそらく極めて狭い範囲で始まり、極端な環境に追い詰められて獲得する変化なのだろう。だとすると似てはいまいかこの状況は?この極めて狭い限定された地域で、更に知性を刺激する事象が継続すれば何が起こるのか?それは神のみぞ知る、だろう。いずれにせよ、西野陽子は大した事をやり遂げたのである。

 

 数週間後の、夏の林間学校での1コマ。

「ねえ、管理人・ヨーコ先生」と寝ころんだ宇都宮英文が、太っい体の背を西野陽子に預けて言う。

「南中線ってさぁ、コンパスの北と南を真っ直ぐ結んだ線だよね、何で南って呼ぶんだろう、北中でもいいのにね」

「さあね、通称なんでしょうね」笑いながら陽子は、彼のまん丸背中を抱えて、彼が北を指さし南を指さして空中に真っ直ぐ引いた線を否定する、彼女は空を指差して。

「ウッチ。その線は空に描くの、半円に。正確にはその線を子午線と云います。目標の星が其処を通過した時、それを星の南中と云うの」

「南中しなかったら?」

「此処が。地球の自転が止まったって事ね」

 2人はケラケラと笑い合って、ウッチ「そんな訳ないじゃん、みんな死んじゃう、星は絶対に南中するんだね」

 へぇ?と陽子、笑いながらにそんな事まで云うようになったかと感心になって、彼をきつく抱きしめて、更に笑った。ちなみに本編で登場したのんちゃんという女の子がいる。この太っちょウッチは彼女が大好きで学校で追い回している、実にけしからん色ガキである。


 西野陽子が美術館、新管理人になって1年が経過した。彼女の始めはグダグダだった、だが疾り(はしり)始めると。彼女はあっという間にこの1年を駆け抜けた。かなりカッコよく美しく。そんな彼女が迎える2度目の季節、秋の終わり冬の始めのある日。遂に彼女が待ち焦がれた一報が届く。赤毛のケンイチが水晶の街に帰還したのだ。 

 その一報に、飛び上がって喜んだ西野陽子だった。話によると昨日の夜、彼が舞い戻ったという。今朝けさ出勤した陽子に、そう連絡をくれたのは中村弁護士夫妻だ。

「陽子さん、昨夜突然、ケンイチ君がやってきました。仕事を手伝わせてくれ、居候させてくれと云って。いや、驚きました」

 スマホ口の声が変わる、オイオイという中村弁護士の声が背後に退いて、夫人が現れる。

「すっかり見違えちゃって。好青年になってて、最初判らなかったのよ?陽子さん今夜空いてる?是非遊びにいらっしゃいな」

 なあ、代われ、私と代われ、と交代して弁護士。

「たまには連絡しなさいとと叱りつけました。昨日の夜も来ますと一言、連絡してくれば歓迎出来たのに。ところで、今、彼は司法書士の勉強をしているようです。これがなかなか……」

 勿論既に陽子は通話など聞いていなかった。スマホを机に放り出し、引き出しを漁る(あさる)。思いついて机上の雑紙に今日は有給を取ります、公団各位様とペンを走らせ雑紙をパンッと置き、考え込む。成井さんに代わってもらうか、いや、今から急には無理だろうし、いつか些細な事で連絡するなとも云われた(だが、彼ならこれが些細な事ではないと解ってくれるだろう)そうだ3号爺、とりあえず彼に此処に座ってもらおう、と閃く。(よし、中村さんのお宅へ!)と受付から飛び出す陽子だったが。

 ミニのキーを忘れて、慌てて机に戻って来る。3号爺、彼で大丈夫だろうか。大丈夫だ日頃からわしも管理人ぢゃと自称してる、きっと机に座りたい筈だ。一旦丘に飛び出て、又陽子は走って戻って来た。

 スマホも、カバンも忘れた。3号爺、帰ってきたらめちゃくちゃな事になってるんじゃないだろうか、電話が鳴って相手が成井さんや黒木さんだったらどう云うんだろう、イヨッ儂ぢゃ、はマズイかも。

 机の戻ったのに、目的の品に目もくれず、陽子は荒っぽくそば机の引き出しを開けた。預金通帳だ、慌てて開く。そこには想像できない金額が貯金として記されていて。よし、と頷きそれを閉じる、きびすを返す。これを使ってケンイチさんを堕とす。どうせつべこべ云うだろう。身分が違うとか、金がないとか準備がどうの、やりたい事があるからうんぬん。だからこれで横っ面 (よこっつら)をひっ叩く。金に目が眩むだろうきっと。あの強敵うんと云わせるには、私の武器はこれしかない。此処でなぜかキーを通帳の代わりに置いてきた事に気付いて「あー!落ち着け私、何やってんのよ」と呻き、今度は未だフロア内で、地団駄を踏みながら机に戻る。

 彼女は机の前で深呼吸をする。スマホ、カバン、車のキー、通帳、あっ印鑑忘れてた。よし準備万端、くるりと身を翻して(ひるがえして)走りだそうとしたした途端、陽子はいきなり人にぶつかって尻もちをつく。痛ぅ、誰だよ朝っぱらから、と鼻を押さえて目の前の人物を見上げると。

 高い身長の男性だ。黒スラックスに白のワイシャツ、成井さん?いや、髪が少し茶色くて、セルフレームの眼鏡に、見た事がある目……「ひ・ひぃーーっ!」ケ・ケンイチさんだ、コイツ!

 正体が判って奇声を発する西野陽子は、尻もち状態で両手を後ろ手に突っ張っていて何かのパニック?になっていた。

「何やってんだ、ヨーコさん」ゲラゲラとケンイチが笑って。

「で、なんで悲鳴なんだよ?」

 ケンイチは屈んで右手を差し出す。西野陽子はその手を掴もうとして、右手をおずおずと差し出した。その指先がケンイチの指に触れると、ビクンと感電したようになって離す。

 ケンイチは無言だ。尚も右手を早く掴めと催促させる、勿論優しく。陽子はようやく右手でその手を掴み、顔を俯かせたままで「どうしていなくなったの?」

 ケンイチはやはり無言。

「……私の事が、嫌いだったの?」陽子が掴んだ手をさらに強く握る、とケンイチ「そんな訳ない、その逆だ、だからいなくなった。ごめん」

 ぐいっと引っ張られて膝をつくケンイチ。彼は目を閉じる。この展開は読めていた、オレはぶん殴られる、拳骨げんこつか、頭突きか。いいゾヨーコさん?甘んじて受けよう。

 すると、ああっとケンイチは声を漏らし宙を仰いでしまう、ひと時に陽子は彼の胸にしがみ付いていた。彼女は?無言だ、永遠に何も言わない気がしてケンイチが彼女の背中に腕を回すと、陽子は顔を埋めたままに「おかえりなさい、ケンイチさん」と言った。

 少し変わったな、柔らかくなったとケンイチは思う。そして多分、ケンイチだけにしか分からない、本当は弱くなった彼女に気付きながら「ごめんなヨーコさん、ただいま。やっと帰ってきた。ヨーコさんに会いたかった、だから帰ってきた」

 なぜか恐る恐る陽子が埋めた顔を上げる、懐かしんでケンイチの顔をまじまじと見る。相変わらずだ、ヨーコさんはいつもまっすぐオレを見るんだな……

「私ね?管理人になったんだよ、此処の」

 ケンイチは陽子が泣き出すと思って彼女を見るが、頑張っている。だけど何だか情けない顔になってるゾと笑ってケンイチ「うん、皆から聞いた、やっぱりすげーなヨーコさんは、って思った」

 ここで陽子が顔をケンイチの頬に寄せて。ようやく2人は抱擁になる。ケンイチは強く陽子を抱きしめた。

 ところで、ケンイチを軽トラックで此処まで連れてきたのは食堂の女主人だ。彼女は美術館の入口扉に体を預けて、にやけ顔で2人を見ていた。その隙間から先程からちょくちょく3号爺が顔を覗かせている、彼は小声で言う。

「やっと抱擁ぢゃ、あの2人」

 女主人はばれないように吹き出す「イライラするね、ほんとに」

「ラヴシーンとか、せんのぢゃろうか、あの2人」

 視線を抱擁シーンに向けたままで女主人。

「うーん?ないねぇあの2人。めっちゃカタイわ」

 見物する2人はケタケタ笑っている。

 陽子はケンイチの耳元に言う。

「私ね?もっとカッコ良く貴方に会いたかった。カッコいい管理人になって、ドラマチックに会いたかった。でも見てよ?私いつもこんなだ……私、矢野さんのように出来ないから、1年間めっちゃ苦労して大変だったよ?だからね、だからね、お願いがある、聞いてほしい……私をもう離さないでほしい。そして私を、私をね」

 ケンイチは抱く力を緩め、少し胸を離して「いや、オレに先に言わせてくれ」と言って、陽子の目を見て「幸せにします、あ、くそ間違えた。オレと結婚してくれないか、ヨーコさん?勿論オレなんかで良かったらだけど」と、彼女にキスをした。陽子は目を見開いて、ポロポロと涙をこぼし目を閉じる……

 えっ、と2人の野次馬は目を点にした。あれれ?と顔を見合わせて、そして次には大いに喜んでいた。


@参考(引用)あ、シリウスなんだ……のくだり「新訂 初歩の天体観測」平沢康男著 地人書館

野暮用で、少し間を空けますw最終話はクリスマスに何とかw

BGMはRayuTube、Rayuさんの”いつかのメリークリスマス”でお待ち下さいw


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