表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

(4)-1栞(しおり)

長すぎなので2つに分割しました、スミマセンwめっちゃ怒られました(読者さんに)w

 1週間後、早朝。

 アゴ先を空に向けて。腰に手を当てて。タイトスカートから右足を斜め前に伸ばし。(芝の事を考えてヒールは止めたので)黒のナースパンプスのかかとを上げ。

 女性らしい線を意識しつつビシッと決めポーズをとる西野陽子。それを見てやんやの歓声を上げる食堂の女主人、バシバシスマホで記念写真を撮る。この2人何をやってるのかというと。

 早朝の女主人の食堂の入り口前、暖簾のれんの先で初登館、初勤務となる陽子の出立の一コマだった。

「よし、似合ってる、行っておいで、新管理人!」嬉し気に女主人が陽子の左肩を横っ叩きする。「えへへ、ありがとう、あねさん」と陽子。自身の姿を首を廻して確認する。

 結局、公団からの制服、ヒールの類は、昨夜ぎりぎりに届いた。同じ黒のスカート、スーツのセットが3着とパンツが1本。生地や仕立ても立派だったが、細かい処に手を入れねばならず(ウエストを少し絞りたいだの、スカートの裾が短すぎるとか)なので、準備に気を揉んでいた女主人が3日前に水晶の街のテーラーで仕立ててくれた黒地のリクルート・スーツを着用していた。白いブラウスは高級品で、陽子は遠慮したのだが「貴方のお給金だよ」と姉さんは値踏みもせず買い与えてくれた。

「お昼は戻って、此処で食べるんだよ~」と、車に乗り込んだ陽子に、女主人は間際の声を掛けてくれた。

(姉さん、貴方が面倒見てくれたから此処まで来れました、本当にありがとうございます)こみ上げる想いを感じながら、陽子はミニクーパーのアクセルを踏んだ。


 午前8時20分。美術館の丘に到着。3号爺はまだやってきていない様子だ。自分でゲートを横引きに開ける。彼女は愉しむようにゆっくりと丘の小路こみちに進入し、これも丘の景色を眺め行くように車を徐行させ、建物入り口を少し越えた辺りに駐車する。降り立って、辺りを見回しながら陽子は扉の施錠を解いた(公団の関係者も来ていない?私、初出勤だぞ?)

 館内の照明を灯ける(つける)、空調を入れる。規則規定では勤務時間は午前9時~午後5時まで。そろそろ当該勤務時間になるが、その頃には連絡が入るのだろうか?

 陽子は、1階フロアの長椅子に座り、暫く佇んでいた。成井と並び座ったあの長椅子だ(彼は今頃どうしてるかな?今勤務を始めましたと、連絡した方がいいのかな?それとも、公団に連絡が先かしら?)色々と考えてしまう。

 午前9時になった、陽子はスマホを手に取る。公団の窓口に、一応の初めての挨拶と着任した旨を連絡する。

「……了解しました、此方こちらは、そちらの申しつけの通りに動きます。今後何かご要望等ありましたら、ご連絡下さい。今後は全て貴方の采配にお任せします、こちらは必要な場合だけ、お電話します」

 形通りのやり取りをして通話を終え、陽子はふうむと息をつく。男性の丁寧な対応だった。ニュアンスではどうもこちらが格上らしい。事実、管理人とその配下という間柄になるそうで、道理で向こうは終始ペコペコ頭を下げていた訳だ、印象は悪くなかった。内容を総括すると、公団が指図をするのではなく、此方が指示し要望を出すらしい。上層部で決められた事項は、勿論公団も管理人と言えども従わねばならないそうだ、当たり前か。

 そして更に何も起こらないまま30分が経過した。

 新しい職場、管理人として慣れない居心地も手伝って、彼女は立ち上がる。所在なく扉へ、そこから外へ出てやや広い縁台から、丘を一望する。ドーム球場2つは入る広大な敷地だ、改めて広いな、と思う。視線を遠くに投げると芝の表層にかすかの朝霧が残っている、風がそよぐと、その向きに芝が震え、もやが流れて往く。その先に、おや?人影だ、あれは3号爺だ、こちらに手を振りながら、丘を登って来る。

 西野陽子は、丘を登り切って3号爺が到着すると、それを今朝女主人の食堂の軒先でやったポーズで出迎えた。

「何をやっとんぢゃ、新管理人、ヨーコ?」

 陽子は、吹き出して「おはよう、そしてヨロシク、3号爺」嬉しそうに彼の手を取る「さあ、美術館にどうぞ、たまには中で話しましょ」

 それから2人は館内で、あれやこれやとお喋りをした。途中、数回お茶を作り、3号爺をもてなす。

 暫く勢い込んで話をして、そんなに古くはない思い出話も語り尽くした2人は、ようやく落ち着いて。

「ねえ、3号爺……」腑に落ちない顔を、フロアの宙に向けて陽子は独り言のように「管理人の仕事ってどんな事やるんだろう?」

 はぁ?何を今更、と茶を啜りながら3号爺。

「お前も、管理人には出迎えてもらったじゃろう、あんな風にすれば善いんぢゃろう?」

 ふうん、でも何かごく当たり前に丁寧に出迎えられただけだった気がするが。

「それから、やっぱり仕事と言えば丘の芝の手入れかの?アイツはいつもやってたぞ。結局ヨーコもそうなるぢゃろうな」

 スーツぢゃなくて、ジャージがイイゾと陽子の姿を評する3号爺に、彼女は苦い顔をして見せた。

(嘘でしょ?こんな広い丘をどうしろと?)

 それから程なく、3号爺は自分がいつもいる場所に帰っていく「わしは、冬場は来ないぞ。あそこは寒すぎるし」

 じゃあ館内にいればいいじゃん、と彼に手を振りながら背に声をかけたのだが。彼の姿は相変わらずコミカルで、いつも身勝手で。きっと言葉は届いていないだろうな……

 時刻は昼前になろうとしている。来館者は1人もいない。

 陽子は何を思ったか、2階フロアに向かう。階段を上がるとすぐに【恋文】がある。彼女はなぜか3号爺を出迎えたポーズ、早朝の軒先のポーズをとって絵画を見つめた。不思議にあの騒めく(ざわめく)気配はない。

 拍子抜けをしながらも彼女は考える。様々な事をしなくてはならないと気付いていた。まずはパソコンの移設だ。そして事務の整理。様々なデータを、出来ればデータベース化したい。美術館案内とかパンフとかあるのだろうか、そういえば見た事がない。広大な丘の芝の管理はどう考えても手に負えないだろう、人を雇って効率的にこなすべきだ。管理人室はどうする?当面、姉さんの所から通うつもりだが、将来は此処を拠点に出来るのか?エトセトラ。あ、そうそう、食堂の倉庫に預けておいた私の愛機、反射式望遠鏡を忘れてた、早速運び込まなきゃ。

(頑張るよ、私)

 昼食に水晶の街に戻り、美術館に戻ってくると、なんと。あれま。

 美術館は人でごった返していた。新管理人・西野陽子が着任したと知った水晶の街の住人が、午後を狙って押し寄せたからだった、軽く100人はいる。

 握手やら、挨拶やら、記念撮影やら、見知った人達が練習しなさいというので、ぎこちなく展示絵画を案内して説明するやらで、この時ばかりは忙しかった。これはご祝儀騒動というやつか。

 こんな日々が数日続いたが、案の定、一週間後には人の足が途絶えてしまう。

 午前中に数人、午後から多くて十数人。これが水晶の塔・美術館の平均的な来館者数の実情だ。

 勿論始めの1か月は、整理やら、確認やらで、陽子自身それほどそれは気にならなかった。この間に実現した事は意外に多い。これは要望せずに始まった事だが、建物にセキュリティ設備が導入された。管理人が女性になった点もあるのか、各フロアに監視カメラ、管理人室内の入り口右手の壁(上がりかまちの向いの壁)に12画面同時表示のディスプレイと保安機械が設置された。ボタン1つで街から民間の警備保障会社の警備員がやってくるのだそうだ。 

 陽子の要望によっては、アメニティの多少の変化、自動販売機が館内に設置された。これは公団があまり良い顔をしなかったが、設置は当たり前だと、陽子が意見を押し通して実現した。ただし頻繁に小売業者が丘に出入りするのは好ましくないというので、空き缶などの処分は陽子が行う約束となった。

 広大な丘の芝の手入れは、街の人材派遣会社から人を雇うように要望して、何とか認められた。

「芝の手入れは無理だと思います」「矢野さんは出来ていましたが?」「彼は屈強な男性です、私はか弱い女性です、そもそも丘が広すぎです、芝の手入れ中に強盗に襲われたらどうするんですか」「判りました、2~3人で良いでしょうか?」「10人は必要です」「え?」「だから広すぎるんですってば、馬鹿じゃないんですか公団は、何でこんな広い丘を選んだんですか、いじめですかコレ、だから矢野さんは倒れたんじゃないんですか、そもそも管理人の人権を何だと」「判りました。て・定期的にですが10人派遣しましょう」

 更に1か月が経過。

 丘はすっかり雪化粧となった。午前中からやってきてくれた、高齢のバイトの方々と、ジャージ姿で小路の雪掻きや、芝の手入れ(様子見)を行う。

「芝は、こんなに冷たくて大丈夫なんでしょうか?」雪から一部頭を覗かせている、芝の周辺を掻き分けると、すっかり茶色く変色した芝草が、ヘタリと寝てしまっている。

「芝が枯れちゃった」泣きそうになる陽子を、農作業の出で立ちの高齢ながら品の良い婦人が笑って。

「大丈夫よ、芝は今は冬眠中なの、暖かくなれば元に戻るわ」

 彼女は冬にも強い雑草は丘の養分を吸っちゃうから気を付けて、それからと云って、立ち上がる風に腰を伸ばしやれやれ。丘を一望してやれやれとまた仕草をして。

「でも雪の重さでは芝が死んでしまう、定期的にある程度雪掻きをしなくちゃねえ」

 西野陽子もやれやれと思う(冬場も、大変だこれは)

 午後になって、冬の丘の整備を何とか終わらせて、制服姿に戻った西野陽子は、また【恋文】の前でポーズをとっていた。

 この1か月の成果は、数えるばかりの要望が通り、数えきれない提案が却下された。実った要望で最も際立っているのが、グランドピアノの設置だろう。これは一か八かで伺いを立てるとすんなり了承された案件だった。

「美術館を訪れた方が、ストピの奏者だった場合、どうしますか?」「ストピ?何でしょうそれは」「ストリート・ピアノです、立派な芸術です、世の中の流れを勉強して下さい」

 翌日に、大層な海外製のフルグランドピアノを業者が運び込んできたので、喜ぶというより驚いた陽子だった。

 彼女には多少ピアノの心得がある。子供の頃から教室に通って、中学生の頃には県のコンクールで上位に入賞した腕前だ。唯、高校に進学するとやはり勉強に追われて、実は天体観測にも大ハマリしてしまい、ピアノは辞めてしまっていた。勿論、個人的嗜好で公団に用意させたつもりはない、本当にストピの文化とは立派な芸術だ、と感じての要望だった。

 ストリート・ピアノとは、自由な選曲で、自由な時間に、自由に(誰でも)弾いてもいいですよという想定で、公共の施設などの片隅に設置されたピアノを指す。美術館に用意されたピアノは、ブラウン基調、各部になんとマホガニー材がふんだんに使われて、エレガントなクラシカルスタイルだ。広い1階フロアの中央に据えてみると、なんて美しい。フロアに調和して昔から其処にあるかのようだった。ちなみに、冬場なのにふらりやって来てピアノに驚いた3号爺に、陽子が【キラキラ星】を披露すると、まぁなんと喜んだ事か。すげえ孫にも衣装ぢゃ、何云ってるこのじじぃ。

 数えきれないほど却下された提案は、まず館内で。

(所蔵品目録等から)美術館で発刊する案内冊子を制作してはならない、宣伝販促用のパンフレットも極力作らない、ゲストの個人情報に関する詳細なデータベースは作らない(公団で詳細に管理しているから)悪戯に展示品の配置を変えない、地下フロアの区画設備の意匠に変更を加えてはならない、管理人室の上がり框は変更しない(つまりベットにしてほしいと云ったのだが、軽く却下。ただし昭和のポンコツテレビは、陽子が独断で即日液晶テレビに変更した)

 次に屋外は。

 花を植える等、丘の景観を損ねてはならない、丘の基本的な形状(小路の配置等)の意匠に変更を加えてはならない、丘に新規建物等追加設備は認めない、など。

「そんな。こんな事じゃ、何も出来ないじゃないですか」「そうですね。しかし、何もしなくても良いという事でもあり負担がない訳です。楽じゃありませんか?」「案内カタログも作れないなんて、来館者は記念のパンフすら持って帰れない。販売すればいいじゃないですか、それならかかった経費は取り戻せるし。なぜですか、頑な(かたくな)です、なぜ?」

 いつもロボットのように返答していた公団の男性の口調が変わって、申し訳ない風に。

「管理人・陽子さん。ご要望にお応えできないのは、それが上層部の考えた美術館事業の意図、いわば原図に抵触ていしょくするからです」

 陽子は憮然ぶぜんとする、やや喰って掛かって「意図、原図?何です、ソレ?」

 ややあって、男性は静かに言う。

「まず第1は秘匿ひとくです」

「秘匿……実はオリジナルの【恋文】。そのお話ですか?虚偽があるから、パンフが作れない?」

 男性は陽子がそれを知っている事に驚いたのか、少し沈黙する。だが彼はそれに触れず、続けた。

「第2に、美術館は綿密に設計されて構成されているという事です。丘の構成に始まり特に、絵画の選定と配置、音響システムの機械構成、図書の選定が設計に相当します。この2つが美術館事業の原図です。これに関わる部分は不可侵であり、私達は勿論、管理人である貴方ですら口出しは出来ない」

 陽子は押し黙ってしまう、何とか口から絞り出せたのは。

「……じゃあ、その意図とは具体的に。何ですか?」

 まるで何か台本を読んでいるように、男性は即答する。

「秘匿 (計算された秘匿)な作品を観て、人は何を感じるのか、です」

 陽子は慄然りつぜんとする、手が震えてもう少しでスマホを落とすところだった。なぜそんな、なぜそんなと呟き、やっと声に出す。

悪辣あくらつだわ、あまりに悪趣味です……人を、鑑賞者を試していたんですか」

 管理人、陽子さん、と気遣いの声。それにやっと気が付いて、陽子は気を持ち直し「ハイ」

「私達も、上層部からそう聞かされているだけなんです。矢野さんとも話しました。この意図に悪意は有りません、あの方にもそれは判っていただきました」

(悪意がない?その意図のどこに曲がってない部分がある?)

 陽子が黙っているので、彼は続けた。

「先入観なしに、至高の名作を観たらどうなるのか、人はその方が感動するのではないかという事です。人をより感動させたい意図であると私達、いや私は思っています。貴方もそうご理解下さい」

 陽子は返事をせずに通話を切っていた。暫くスマホをじっと見る。瞼をきつく閉じて、ゆっくり開いて。そして肩で息をついたのだ。

(管理人・矢野龍介、単純すぎるよアナタ。理由はともかく、公団は人を欺いて(あざむいて)いたんだよ)

 ……そんなやり取りを思い出しながら、ポーズだけはきっちり崩さず、陽子は目の前の【恋文】を眺めていた。何度目にもなるため息をそこに落として、ふと気が付く。あの騒めき(ざわめき)をまた感じない自分がいる、どうしたのだろう、私?

 

 又1か月が経過した。

 相変わらず【恋文】の前でポーズを取る事がある陽子、ポーズにも疲れが見え始めていた。今、冬の真っ盛りだ。丘の積雪量は多くはなかった、ただ寒さの為に減らない感じがする。現状は3日に1度の雪掻きのペースだが、この雪掻きの日が辛い。雪を掻いては山を作り、軽トラックに山を乗せ、丘の外に運び出す。広大な敷地のあちこちでそれをやる。寒いし、筋肉痛になるしで大変なのだ。街からやって来てくれるバイトの方々はシルバー人材で、雪掻きの際はお年寄りとはいえ男性が多くなる。冬の丘に登って来るだけでも難渋だろうが、男手は有難かった。丘の作業はバイトの方々に任せて、自分は管理人然としてデスクワークをする?そんな訳にはいかない。本来それが出来るように公団が手配してくれた人手だが、如何せん真冬の来館者は極端に少ない。だからデスクワークをしますとも云い辛いし、そもそも女手だが若手は陽子1人きりなのだ。やはり率先して働く。慣れてはきた。でもやはり午前中だけでくたくたになっていた。

 午後からの作業は、バイトの方々が女性の陽子に気遣ってくれたので、ずいぶん楽になった。

「ヨーコちゃん、我々に任せて休んでおけよ」「じーさん揃いだが、若いもんには負けやせんから」「管理人の仕事って、こんな事もやるんだの、大変だの?」と口々に笑ってくれる。ならばと、陽子はやかんにお湯を沸かしティーバッグを放り込み、紙コップを脇に抱えて丘中を走り回り。結局息を切らしてしまって、また皆に笑われていた。楽しくて気は紛れたが。

 夕刻、独りになると。陽子は、沈んだ顔をして受付机に座っていた。実はここ暫く気分が滅入っていた。

 管理人になって丸々3か月が経過して、4か月目に入っていた。要望のの多くは却下、描いていた仕事は何も出来なかった。どれだけの仕事をこなしたか、ほとんど雪掻きしかやっていない。落ち込んでしまうのは、それなのに銀行口座の通帳に都合3か月分の給料の合計金額、見たこともない数字が記帳されているからだった。勿論判っていたが、いざ目の辺りにするとあまりに高い報酬に罪悪感さえ感じて憂鬱ゆうつだった。仕事の成果と合わせ考えると頭痛がして眩暈しそうだ。公団に連絡してみようか、だが何を連絡する?今は、前回の疑念が自身の中で晴れていた。(オリジナルである事を)秘匿されたから【恋文】の騒めき(ざわめき)に気が付いたのは確かだし、オーディオ・システムにしても特別なセットを秘匿されていたから、その再現性にを驚く事が出来た。まんまと嵌められた(はめられた)と云うより、むしろ称賛すべきだろうと思っている。それを告げて公団の意図に合意できたとしても、次はこのフラストレーションをどうする。公団とは再び口論になるのではないか。

 ふと、陽子は思ってカバンに手を伸ばす。財布を取り出しそこからカードを抜く、F端末だ。成井さんに話を聞いてもらおう。

(さて、どうやるんだっけ)表面のどこでも良い、2回タップ1回スィープ、これを3回繰り返して、最後にナ・ル・イで3回タップ。これで繋がる筈だ。どうだ?

「どうした!?」

 突然の成井 (ナイル)声だった。凄い、カード面から音がする、でも荒っぽい成井さんだ、それでもカッコイイ声だ。

「あの、成井さん、私です、西野陽子です」

「え?ああ、陽子さん?どうしました」

 語調が急に柔らかくなる、うん、成井さんだ、この感じ。

「ええと、話を聞いてもらいたくて。あの、今お時間はありますか?」

「ああ、ええと、時間はあまりありませんが、要件は聞きましょう」

 いえ、と陽子は慌てて「お忙しいのでしたら、又かけ直しますケド」

 カードの先がふいに無言になる。そしてまたふいに。

「いや、話は今伺いましょう、どうしました?ただし、てきぱきお願いします」

「てきぱきですか?判りました、てきぱきお話しします」

 陽子は微笑んで(てきぱきだなんて、面白い人だなあ)話し始めた。今までの経緯、公団が要望を聞いてくれない事、給与とのギャップ、そして雪掻き以外、今のところ仕事がない事……そこで気が付く、カードが無反応だ。え、え?成井さん、もしもし、もしもーし?するとカードが鳴り始める、え、どうするんだっけ、ここタップ?するとカードから成井の声が聞こえた。

「すみません、一度切りました。今工事現場にいます、周辺がうるさくて。事情は判りました。矢野ならどうするでしょう?貴方は祈った事を忘れましたか?それから、些細な事で連絡はしてこないように。では頑張って」

 そこでカードの通信は終わる。陽子はカードを目の前にかざして、え?えーー!?

 ナイルは。というと彼は中央アジアの辺境にいて、勿論銃弾飛び交う戦場で作戦実行中だった。銃を構えて発砲間際の着信だった。通話先が陽子だと判ると銃声は聞かせられなくて、数人の獲物を逃がしてしまう。傍らにいたメシアがクスクス笑って「何やってますか?ナイル、オレが殺してあげましょうかアナタを」ナイルは一度身を伏せて通話をして、その後も一度通話をして手早く通話を終わらせた。メシアに目配せして「行こう、攻勢をかけて中枢を破壊。ブロークン・アローだ」彼は少し笑って(面白い、良い気分転換になったぞ、西野陽子)

 美術館に戻ると。陽子は机にF端末を投げ捨てていた。ムカついていた、やっぱり忙しかったんだ。それに最後の言葉、何だあれ。些細な事で連絡するなだって?ああ、冷淡だ、あんないい男が冷淡だなんて。じゃあもう連絡なんてしないから、してやんないから、ふざけんな、いい男!

 暫く激昂げっこうして陽子はふらりと立ち上がって「疲れた、もう帰ろう。今晩はすき焼きだって姉さん云ってたし」勤務時間は過ぎている……

 つつと進み、壁際に。視線を上にして、館内の照明を落とす。ふと思って、2階フロアの照明を再び点灯させる。彼女は【恋文】に向かって階段を登り始めていた(そういえば、私【恋文】に感動しなくなっちゃったな、なぜだろう)

 陽子は【恋文】の前に立つ。ポーズを取ろうとして、もういい加減に疲れてやめる。かつてのあの頃のように、其処に素直に立ってみる。やはり騒めく(ざわめく)何かを感じる事は出来なかった。

 私はどこか壊れたのかもしれない。そんな悲しい気持ちになって、絵画を眺めていて、ん?不意に気付く。【恋文】の構図とは、中央のヒロインであろう婦人が侍女じじょから手紙を受け取って怪訝けげんに思う(もしくは婦人が、思惑絡みの手紙を侍女に託そうとしている)1シーンの切り取りだ。ところが、中央の婦人が……手紙を持っていない!「え?え?」眼を何度もパチパチさせる、不意に婦人の手に手紙が戻っていた。はぁ、なんだ気のせいか。

 次の刹那せつなに、凄まじい騒めきが西野陽子に襲い掛かってきた、目を見開く陽子、まるで騒めきが轟音を発して辺りをつんざく。陽子の脳裏に閃光のように考えが閃く(ひらめく)。狂言者ロイマンス【恋文】を盾にヒューマニズムを謳った(うたった)男、彼は?成井が云った、矢野龍介ならどうするか?君は祈りを忘れたのか?かつてケンイチ、彼は何を云った?そしてフェルメール、この手紙の内容とはちまたで伝聞されている内容なのか、まるで違うのではないか?この手紙とは何だ、その内容は何だ?手紙はなぜ消えた、そしてなぜまた現れた?……え?え?まさか、私、私は。

「私は……今、手紙を受け取ったんだ……」

 騒めきは幻だった。気付くと周囲はいつもの静かな空間だ。だが陽子は未だ【恋文】から目を離さない。抱えきれないほど、膨大な情報がある。凄い勢いでそれが消失していく。忘れないうちにと慌ててスマホを取り出して、連絡をする、公団にだ。繋がるまでの数秒、又混乱にも似た考えが彼女をよぎっていく。

 手紙の内容。それは定まっていない、絵画を観る者それぞれにとってそれが大切な事柄である、その1点を除いて。私が受け取った手紙、その内容とは、私が忘れてしまっていたものだ。もしかしたらこれと似た体験を、あのロイマンスはしたのかも知れない、だが、内容がまるで違う筈だと思う。きっと内容は、それこそ人それぞれなのだ。ただ、言える事がある。人には大切な事があり貴方はそれに気が付かなくてはならない、貴方が特別でなくてはならない。不特定の人に贈ろうとした、不特定の人にとって本当に必要なメッセージ、1枚の絵画でそれを行おうとした、それがフェルメールの【恋文】の、寓意ぐういというカモフラージュの遥か後ろにあった、真の姿だ。

 気が付くと、スマホが応えていて「……ひと月ぶりですね、お疲れ様です、管理人・陽子さん」と、今や耳に馴染んだ公団の男性の声だ。

「こんばんわ、今から帰宅しようと思います、あの……」

 陽子は、まず前回の諍い(いさかい)を詫びた。

「秘匿の意図を悪く云いました、ごめんなさい、私の誤りでした」

「いえいえ」スマホの先で、公団の男性が恐縮するのが判る、彼は「秘密主義って、胡散臭い(うさんくさい)ですよね?笑ってしまう」と、笑う

 陽子も笑って「秘匿。考えてみれば、ミステリアスで良いのかも知れません、事実美術館にそんな匂い、プンプンです、私はそれに魅かれたんです」

 穏やかな西野陽子だ、スマホの先はそれなりに陽子を心配してくれていたのだろう、落ち着いた彼女に嬉し気だ。陽子は少しを空けて。

「では、聞いて下さいね。実は地下フロアに宿泊施設があります。まるで一流ホテルの調度品で、イイ感じの部屋がたくさんあります。なのに多分矢野さんが使っていたんでしょう、武道場があるんです、あれはもういらないですよね?あの空間を改築して大浴場とか厨房にできれば、ほら、美術館は一流ホテルです」

 既に話の途中から、弱り切ったとスマホの先の空気感だ。

「あの、ですから管理人、それは」

「はい、理解しています。原図に抵触するんですね。ですから、話だけを聞いて下さい。私今、夢を語っています」

 スマホの先が当惑硬直麻痺になっている。陽子は微笑んで話した。

「一流ホテルの設備を抱えた美術館です。そうなるとお客様がたくさんやって来るようになります。丘を半分削って、大型バスが何台も駐められる駐車場を造らないといけませんね。もう丘を拓いてしまって、本物の3つ星ホテルを誘致するとか、アミューズメントも造って、そして美術館をもっと大きく改築する。凄いでしょう?自画自賛ですが、今だって美術館はどこにも負けていないけど。此処をいつか必ず世界に名だたる有名な美術館にしたい」

 スマホの先の公団の男性を少し気にする陽子、彼は呆れているんだろうなと、少し舌を出して、てへっと笑う。

「と、私はこんな風に夢見ていました。けれどコレ、ただの私の我儘わがままです」

「え?」スマホが変に反応した。彼を気にしないで、陽子。

「私、思いがけず管理人になれちゃいました。なので気負いがあったんだと思います、それに私馬鹿だから、自分がやりたい事ばかり考えていた、それで貴方に文句を云っていたんです。無礼でしょう?その証拠に、私は貴方のお名前すら聞いていませんでした。今更で失礼ですが、お名前は?」

 慌てる、オレ慌ててるのスマホの先。

「私・私ですか?私、黒木と云います、光栄です、管理人に名を尋ねられるとは。私、黒木 庸輔ようすけと云います、今後とも宜しくお願いします」

「はい、こちらこそ宜しくお願いします」

 西野陽子はスマホを耳に当てて本当に頭を下げていて「黒木さん」と継ぐ。

「実は私、自分が何をしなきゃいけないのか、判りました」

 彼女は目を閉じる。私が受け取った手紙、それは多分。少女時代の私が、今の自分に宛てたものだ。手紙の中にあったのは?それは、かつて私が母のひつぎに副葬した色褪せた(あせた)手作りのしおりだった。和紙に野草を押し花にしたその小さな栞は、私が病床の母に贈ったものだ。それを受け取った母は、弱り切っていたのに体を起こして、ずいぶん喜んでくれた。それは幼い私が、その時の身の丈で出来る精一杯の事をしたからだった。今出来る事をやればいいと、栞から幼い私の声が聞こえた、そのどこかに母の声が重なっていた。私は大切な事を見失っていた、忘れてしまっていた。

「……私は、今出来る事を考えるべきでした。私はお客様の事を考えなくてはいけなかった(矢野龍介のように)。絵画や音楽、芸術に触れて喜ぶ人を(ケンイチさんのような人を)私は大切にしなくちゃいけなかったんです(自分があの時祈った通りに)。ですから私、やっと吹っ切れました。なので要望する事はもう何もありません、多分こちらから連絡する事も、もうないと思います。何かありましたら、そちらからご連絡をお願いします」

 通話がそれで切れてしまう。受話器を握ったまま、しばし呆然とする黒木だった。

 そこはZ市中央、公団のオフィスだ、広いオフィスで、優秀で知的な多くの社員が働いている。とっくに就業時間を過ぎていたので、同僚達が次々に席を立っていく。

「黒木?どうした、又美術館か?」同僚の1人が手の平を彼に向け、軽く挙げて退席の挨拶をしながら。

「大切にしてくれよ、美術館事業は公団の根幹だ」

 黒木は顔だけで頷いて、同僚を見送り、受話器を置いてため息をついた。彼は思い出す。そうだ以前、管理人・矢野龍介氏も着任後暫くして、ノイローゼ気味に連絡してきた。その時は煮え切らないこちらの態度に最後はブチ切れて「ぶち殺すぞコノヤロー、責任者を出せ!」だった。同じ様な展開だった、同じ様に最後は、女性だから泣いてしまうのではないかと、実は心配していた。なのにこの違いはどうだ?

 彼女とは、一体何者なのだろう、と黒木は思う。一度お目にかかりたいものだ。考え方のようにその姿も、きっと美しい女性ひとではないのかなぁ、と彼は見たこともない女性ひとを敬愛出来る自分に気付き、嬉しくなった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ