(2)邂逅
失踪後2か月が経った。西野陽子は、街の女主人の食堂で働き始めてひと月を経て、ようやく仕事にも慣れ落ち着きを取り戻していた。
食堂は大盛況だった。もちろん看板娘・西野陽子が活躍したからで。平日、休日を問わず、昼時、夕時、店内は客でごった返していた。
「ヨーコさん、俺は焼肉定食、小盛りで~」「陽子さん、私達は焼き魚定食、小盛りでね」「ヨーコさーん、ちゃんぽん小盛りでお願いしまーす」
仕切りの奥で大忙しの女主人が叫ぶ「うっせーっ!作るのは私なんだよ!ヨーコさんヨーコさんって何だ!それからアンタら、みんな小盛り小盛りって、何だよ!?」
お客達がどっと沸く。
陽子もキャッキャ笑いながら、てきぱきと配膳、片付け、テーブル拭き。料理の仕分け、レジ打ちをこなす。今では簡単な調理や下ごしらえも任されて、女主人から頼りにされはじめてもいる。
店が流行るのには理由があった。西野陽子はケンイチと並び立つ街の有名人、ゲストなのだ。その女性が役所をクビになって健気に水商売をしている、この奇怪な風評が、街の住人達の同情をかっていた。来る客去る客が口々に、ヨーコさんがんばれ、姉さんに負けるな、などと云うものだから。働く2人は何となく苦笑いになり頭を掻くしかない。
その日、近くの工務店の男女の6人の常連の団体客?が遅めの昼食を済ませて店を出て行った、これで一段落といったように客が掃け(はけ)る。女主人が、大きく吐息して客用のテーブルに突っ伏すと「はー、今日のお客は大体こなせたねー?」首を回し、陽子に笑顔を向ける。陽子は両手で盆を胸に当て「ハイ」とにっこり。
女主人は満足気に口元を緩めた(ゆるめた)。改めて、と陽子を見る。手ぬぐいを頭に巻き、若い娘らしいタイトな黒エプロン、長袖白地プリントシャツにデニム、スニーカー。
(まるで、以前からずっと働いてきた店の子って感じじゃないか、この女性は)
したり顔の女主人を陽子が不思議がると「今日は行っといで、美術館パトロール」
西野陽子は無言でコクリと頷く。彼女は毎日、食堂の開店前に一度、閉店後に一度と、様子を確認するために美術館へ通っていた。今回のように暇が出来ると、女主人が勧めてくれるので日に何度もという場合もあって、今やそれが取り立てて珍しい事でもなく。頭の手ぬぐいを取り「じゃあ、行ってきます」
陽子は店を出る間際に背中を向けてよく云う台詞がある「姉さん、たまには一緒に行きませんか?」女主人は決まって「私はいいよ。店の番は必要だし」と応え、背中のままテーブルを拭いたりしながら「どうせ帰ってくるんだ。いつかはね」と云う。この会話は珍しい事ではなくなっていた。
陽子は今日も結構冷え込むなと、前ジッパーのグレーのパーカーを羽織る。
徒歩で美術館に向かう場合と、車で県道から国道へ、そこから山道に入って向かう場合とで到着時間の差はあまりない。(今日は車で行こう)と、彼女はミニ・クーパーに乗り込みセルボタンを押した。
多分、今日も無駄足になる。こんな風に思うのも今や珍しくなかった。
季節は冬の始めになっていた。この辺りは雪があまり降らない。地域が山脈の表、太平洋側に面しているので、大陸から運ばれてくる湿った雪雲は峰々の背後で勢いを削がれ此処まで到達しない。ただそれなりに高地ではあるので、初雪も早かったし、山道の木々の根の土には、日跨ぎ(ひまたぎ)の雪が所々に残り始めていた。
夏の間山道を覆うように競い茂っていた雑林は、梢の葉を失って枝が目立つようになり、北風に変わった山の風に軋んで(きしんで)いる。車窓から流れる景色に、林の隙間から空が見えるようになったなと気付く。低く重そうに流れていく雲の間から時折のターコイズブルーが覗いて、この季節の空はどこか寂しいと想う。山道はやがて生命の騒めき(ざわめき)を失って、ただ白いばかりの雪道に変わっていくのだろう。
スノータイヤには履き替えたが、真冬に通うとなるとチェーンが必須かな?などと考えていると、視線の先に丘の入り口の銀のゲート見えてくる。速度を落とし、徐行して停車する。だが、あれ?次がない。
いつもなら待つ間もなく3号爺(3ごうじじい)が現れるなり、彼がゲートを開くなりする筈なのだ。じーさんどこに行ったのだろう、ゲートは開きっぱなしになっているゾ。
仕方がないので、丘に車を乗り入れる。普段ならここで3号爺を拾って狭い小路をひと息に駆け上がり、美術館に至るのだ。そこで、美術館の扉が施錠されている事を2人で確認して寂しく笑ってハイお終い、となる。
ところが今日は先客がいた。小路を進むとすぐに、登りきった建物入り口付近に車が停まっていると気付く。濃紺の車、スポーツカー?だ。
ハンドルの手が慌てて「誰か、来てる!」と声にもなる陽子だ。その調子で先客の後ろにミニを停め、その調子のまま車外に飛び出す。扉に取りすがってみる、恐る恐る押すと……開いた!やはり誰か来てる。管理人か?きっと管理人だ、退院したに違いない!
「管理人!」我を失ってエントランスに駆け込んだ陽子だったが、彼女を出迎えたのは?
静寂だ、そこは静まり返るフロアだった。誰もいない。隅々を見渡しても、見上げる2階フロアにも、人の気配はない。照明が一部だけ、左手奥の受付の机周辺が点灯して寂しくそこを照らしている。無言で、フロアの中央までまで進んで、暫く立ちすくんで。
もう一度管理人、いますか?と呼びかける声も語尾が弱々しく、そしてため息になる陽子だった。
だが、気持ちは諦めない。昨日は点いていなかった照明だ、きっと誰かがいるのだ。注意が行く、受付奥の、管理人室のドア。足を踏み出そうとすると。
申し合わせたかのようにドアが開いて、人が現れた。すらりと長身。肩まで届く漆黒の長髪は後手に流れるオールバック。
あろう事か、そこに現れたのはナイルだった。揺らめき立つナイル。妖気漂う男は、すぐに陽子に気付いた風で少し彼女を見て、カチリとドアを施錠する。
「お客さんですか?本日は閉館中ですが」と言って、こちらに歩んでくる。
勿論陽子には面識のないナイルだ。が彼女は呆けてしまっていた、女性として。
彫刻のようなその姿に目が釘付けになる。端正な顔立ち、緩くも鋭くもないくっきりとした眉、知的な形の双眸。そして逞しくも細くも見える長身は、お洒落な仕立てで生地が豪奢だとすぐに判る海外の伊達スーツを纏う(まとう)、なんて素敵な。こんな男性が、世の中にいるのか……
いいや、と首を振る。そんな事じゃなくてと思うのに、ナイルが目の前に立つと、彼を見上げて、ああ、背が高いと思う。コロンの香りに眩暈がする。いいや、違うと変な歯の食いしばりの陽子に、ナイルは首を傾げて「貴方、聞こえたのか?今は閉館中だ」
「あの!公団の方ですか?」なんとか声を絞り出し。
「管理人はどうしていますか、ケンイチさんはどこに行ったんですか?」ハンサムですねとも本当は言いたい、がここは頑張る。
見るからに既に押され気味の陽子に、怪訝そうな顔になるナイル。管理人という言葉に、彼の表情が少し変化した。
「管理人は病院だな。未だ危篤が続いているが」
え?と驚き口元を押さえる陽子が「公団の病院ですか?」と問うのと「私は正確には公団の人間じゃない」と応えるナイルの言葉が重なる。
「え、公団の方じゃない?」「まぁ、近い組織と言えば、近いが」このやり取りも重なる。
お互いが話を譲り合う間になって、口を開いたのはナイルで。
「貴方は管理人の関係者なのか?彼を知っているのか?管理人・矢野龍介を」しげしげと陽子を眺めるのだった。
始め公団の人間かと訝しんだ(いぶかしんだ)のはナイルの方だった。だが陽子の姿はパーカーにデニムの、見るからに気軽に訪問してきた来館客風で、口ぶりは此処をよく知るのなら常連客か。ただ、今ケンイチと言わなかったか?あの夜半に出会ったケンイチという青年、あの奇怪な体験の中にいたケンイチという少年。ふと興味になって。
「貴方、名前は?」
「私ですか?」陽子は返答を少し惜しむ。当たり前に、ハンサムな異性に名を尋ねられたのだからそうなる、そして「陽子です。私は西野陽子といいます」
ナイルに考え込む間があった。陽子、ヨーコ?あの時。ケンイチという少年の傍らにいた少女の名だ。ここに至ってようやくその名に巡り合ったのだろうかと、遅れて表情に驚きの色を浮かべる。彼は口元をかすかに緩め、聞き取れないほどの小声で「あれは夢だった」と嘯いて(うそぶいて)。
「貴方は今、陽子と云いましたか?では陽子さん、少し話しましょう。そのケンイチ?私は彼がどこに行ったか知りません。ただ彼とは、此処で出会った事がある。彼は私にコーヒーを勧めてくれました」
ナイルの態度は始め威圧的に陽子の目に映っていた、だがそれが今やなぜか柔和に変化していた。
(ケンイチの云った事は正しかった。本当に矢野龍介は送別会で酒を飲んだらしい、大馬鹿者め)と。
静かなロビーの長椅子に西野陽子と並んで座り、様々に陽子が語った事の詳細にため息をつくナイルだった。思わずそうなったのは、矢野龍介昏倒の原因になった送別会が、事実あったと陽子の口から直接聞いたからだ。
矢野龍介は元々酒豪だった事、発症後は断酒を貫いていた事、変遷した医療機関、担当医陣、症状に経過、初期カルテ・最終頭部MRI画像。内偵によって全ての調べはついていた。ナイルの医療陣はその間際まで用量を守らずに抗がん剤を服用していた点から、本人は症状の悪化を自覚していただろうと云っている。そうなると、彼が死ぬ覚悟で宴席に臨んだのは明白だった。だがなぜそれほどまでして、とナイルは思う。送別されたというケンイチ(私と話した後に失踪したらしいが)とはどんな付き合いだったのか、興味が向く。
「矢野龍介とケンイチは、昔からの友人ですか?送別会を開く程仲の良い?」
「いいえ」と、西野陽子。彼女は質問を受けてばかりだった、淡々と答える。
「1か月位の付き合いでしょうか。ケンイチさんはゲストです。ゲストだから此処で初めて知り合ったと云っていました」
ナイルはというと、質問しては時々頷く(うなづく)調子で、ここも頷いて(ゲストのシステムか?それも調べはついてる。この奇妙な事業の曖昧な人選の仕組みだな)との内心だ。
「1か月。たったそれだけの期間に?そんなに仲良くなれるものでしょうかね」と、疑念を呈しながら思う。矢野龍介は孤独だった筈だ。彼に身寄りはない。親しい友人もこれはという人物はいない。ここ数年美術館に独り勤務していたのだから、人付き合いに焦がれていたのかもしれないと考えていると。陽子が「多分、美術館のおかげなんです。此処には不思議な、その何というか。不思議な力?のある絵画や仕組みがあって……」
彼女は切り出しながら、ナイルを伺い(うかがい)見ていた。ナイルは「不思議な力、不思議な力ですか」と、興味あり気に反芻している。理知的な表情から賢い人だろうとは想像出来るが、突然第6感について語ったとして、この人にそれが理解できるだろうか?と考えてしまう。ここは不思議な力とだけ伝えておこう、と決める。ところがこの時ナイルは、実は瞳だけが笑わぬ笑顔を陽子に向けていたのだ。
彼は筋金入りの謀略家である、簡単に人に表情を読ませはしない。陽子が笑顔の中にある探査の瞳に気付けないのは当然だった。ナイルがにわかに反応するとはつまり、この不思議な力も彼が知りたい点の一つだったという事だ。この謎に満ちた美術館事業の目的が伺えるかもしれないそれを、西野陽子が語るのかもしれない。
「美術館にはたくさんの名画があります。ただその中には感動とか感銘とか、それを越えて不思議な感覚に陥る作品もあります。それが不思議な力、かな」
「不思議な力……具体的にはどんな?」面白そうにナイル、勿論、少し急いて(せいて)いる内心は、おくびにも出さない。
「何かが見えたり、見えなかったり。何か感じたり、感じなかったり。それが不思議な力です。美術館のあちこちにそんな仕組みがあって。何度も検証して結局そうだと判って。その中で私達3人はめっちゃ仲良しになりました」
彼は、なるほど話は預かり受けました、という顔をした。視線を陽子から外す。
「……不思議な力。それを貴方を含めた3人が突き止めた、発見した?そういう事ですね」
ナイルは考え込む瞳を宙に向けている、それが当惑したのだと陽子には見えて、こんな話は信じないだろうなと彼女が落胆するのをよそに。
彼の中にやっと辿り(たどり)着いたぞ、という想いがあった。
矢野龍介、ケンイチ、西野陽子。この3人は同じ結論を見知っていたのだ。だから、あの奇怪な体験に3人で(4人で)現れた……
あの時、幼き日の矢野龍介を幻覚したのなら判る、現場にいて彼と直に戦っていたのだから。問題は、そこにナイルに全く面識がないケンイチとヨーコ(そしてケケ)が現れた事だった。この2人の(3人の)関係性が判らないでいたのだ。だが、これがその答えだった。今、3人の接点が見つかった、彼らはこの時からの、未来からの干渉だったのだ。つまり目の前にいる西野陽子は、あの時の少女ヨーコと同一人物という事になる。となると既に不思議な力の有る無しは争論を離れる。もはや測るべきなのだ、それがどの様にどの規模で影響し、何処に至ろうとするのかを。あの時少女ヨーコは、遠く離れた時間、遠く離れた場所、アフリカの少女アミの優しささえ知っていたのだから。
ナイルにとって、あの奇怪な体験は何であったのか。少なくとも忌み嫌うものではなかった。幼い彼らと話した時間を決して無駄だとも思わない。わずかな時間だったが心救われた澄み切ったひと時だった。懐かしむ想いは日々に募って(つのって)いて。だからなのだ、あの幼いぷっくりほっぺの少年が今に重なって、あまりに不憫に思えて。例えば今、ナイルは懸命に矢野龍介の命を救おうとしている……
「あの、成井さん」更に説明をしようと陽子は躍起になって。
「この美術館には名画の他にも、たくさんの名曲や文学があります。成井さんがまだご存じないなら、ぜひ鑑賞して下さい。そうすればきっと判ります、普遍性のある力なんです」
ナイルは朝飯前の並列思考で様々な事を感じながら「いいえ、私は」と降参した身振りで、陽子に戻る。笑顔が更に優しくなっていた(やあ久しぶりだ、少女だったヨーコさん。ずいぶん大人になったものだ)
「私は芸術にまったく疎く(うとく)て。普遍的に多分、さっぱり判らないでしょう」ポンコツ少年のように頭を掻くものだから、西野陽子も自然に破顔する……
陽子は会話の中で、ナイルを成井さんと親しく呼称し始めていた。というのも、ベンチに座る始めにナイルが偽の名刺を渡したからだ。名刺の表書きは【ナイル中東貿易株式会社、代表取締役、成井正】とある。社名はでたらめな架空企業で、ただし国税や帝国バンク等の信用調査機関がどのように篩い(ふるい)にかけても、年商数百億円の中堅企業としか判じ得ない細工はしてある。成井正とは、出自、経歴はどう調べても破綻しない裏付けで固めた捏造に満ちた偽名で…… そんな慣れ親しんだ嘘だったが今、陽子から懐いた(なついた)目を向けられると。
ナイルは、チクリと胸に刺す痛みを感じる。西野陽子はごく普通の女性だ、悪意のない善良そのものな人物だ。なぜ、いたいけな者に偽らねばならないのか(すまないな、西野陽子)(何でもない事だ、誰にでもそうやってきた)と、こんな並列思考だ。
「……美術館には、高額な世界的絵画もありますね?」
ナイルが独り言のようにそう言ったので、陽子はハッとして、知っているのかと更に表情を明るくする。ナイルはその期待に笑みで応える。世界中を色々突いて(つついて)、恐喝まがいに調べ上げたとは勿論言わず。
「私の組織は公団関連ではあるけれど、独立性を保っていて。だから客観的に美術館の所蔵品を調査した事があります。驚くなかれ、いくつかの名画はオリジナルでした。それだけで世界的スキャンダルで。私は図らずも、まんまと公団に担保を得る事になりました。それで自由にやらせてもらっています」
彼は、このように公団との距離が近くて遠いのだと匂わせてから、ようやく「矢野龍介の病状ですが」と切り出した。西野陽子がこのベンチでの会話の中で、しきりに管理人・矢野龍介の容体を知りたがっていたからで。ナイルなりにそれが痛ましくて、それなりに言い出せずにいたからで。
「容体はかなり悪いです、今とても動かせる状態にはない。海外で最新の治療を行っていますが、完治するには数年かかるでしょう。その間この美術館は閉鎖になるようです。これが公団の意向らしい。残念です」
「……え?」
瞬く(またたく)間に落ち込んしまう陽子だった。それを痛ましく見てやるナイルは内心でこんな事も思う(私は未だこんなに優しい顔が出来るんだな)
「貴方はキャリアを辞すべきではなかった。あと数年我慢すべきでした」
陽子がそのまま黙っていれば、ナイルは新しい働き口を斡旋するつもりだった。勿論、彼女があの奇怪な体験の中の少女ヨーコであろうからだ、是非手の内に置いておきたい。先刻陽子から、辞めてしまったキャリア公務員の待遇などは聞き及んでいて、ナイルには大いに笑えた。民間には(それこそ青天井に)遥かに勝る高待遇なポストがある。ナイルになら、名だたる企業のどこのどのポストにでも彼女を据える事が出来た、明日にでもだ。
では、陽子は黙して俯いて(うつむいて)いただろうか、そんな訳がない。彼女に選択に非があったと認めるつもりはない。刹那にそうした訳ではない、術を探してもがいた結果だったのだから。
ずっと考えていた、と陽子は俯きかけた顔を上げる。今、目の前にいる成井は少なくとも公団の関係者には違いない。ならばと意を決する。
「成井さん、私は此処に居たいです」
彼女は「無理を承知でそこを何とか」と早口に続け、切実な気持ちをナイルにぶつけた。
「成井さん。貴方は、遠いけれど公団関係の方でしょう?私を此処で、水晶の塔・美術館で働かせてもらえませんか?」
軽く驚くナイルだ。そしてどうしても苦く笑ってしまって(よりによってそれを選択するのか)
彼はやや落胆になって呟いた。
「……此処ですか、此処は難しいかもしれない」
さて。絶大な権力をふるうナイルが、なぜこの美術館の運営に干渉できないのか「此処は難しい」のか。
それは、近くて遠い関連企業と云った彼の説明が(此処で出会った西野陽子から話を引き出す為の方便で)まったくのでたらめだったからだ。事実は、美術館の運営母体である公団とナイルの勢力は何ら接点がないどころか、むしろ敵対に近い関係だった。
組織の規模を比べてみると、ナイルの側が遥かに大きい。呑み込む事もできる程に両者の差があるが、さりとて公団はそれなりの規模を持つ。つまり公団とは、ナイルが思うように動かせない国内の数少ない真っ当な経済活動を基盤とする(簡単に言えばナイルに未だ抵抗を続ける)巨大組織だった。今の所、競い合う利権はないのでお互いを意識しあっている関係性はある。いつ表立って敵対するとも限らないから、お互いを舐めるように調べ尽くした結果今やよく知る相手になった、という関係性だ。
何時だったか一度、ナイルは動画通信で公団のトップと話した事があった、ご老人と呼ばれる人物だ。彼が公団を率いていた。その首脳会談は打ち解けた空気で終わらなかったが、険悪なムードで双方が席を蹴り物別れをした訳ではなかった。つまり、膠着状態だが対話のチャンネルが閉ざされている訳ではない、とナイルは思い至る。
彼は西野陽子を見た。本当に此処にいたいのか、その真意を確かめる為に。
彼女は。いつしか泣いたのだろう、頬に涙の跡だけが残っている。涙をすでに堪えた(こらえた)のか、気丈だなと思う。
「貴方が此処に居たい理由は、管理人・矢野龍介に再会したいからですか?」と問う。
問い掛けに肩をピクリと動かして微睡んで(まどろんで)から小声で「ハイ」と陽子。
ナイルは微笑んだ、見逃さなかった。そしてあの光景を忘れてもいなかった(少女の君はあの時、誰の隣にいたんだっけかな?)
「本当は?貴方は失踪したケンイチに会いたいんでしょう」
今度こそ、西野陽子の肩が大きく動く。彼女は嗚咽した。
「そうです、そうなんです。ケンイチさんに会いたい!会いたくて会いたくて、もうどうしたらいいか判らない!だから此処にいなくちゃダメなんだ!」
号泣して崩れそうになる陽子の腕を咄嗟に掴んで支えてやるナイル。まさか自分がこんな役回りをするとはと、この展開に呆れながらも笑みが消えない。本来なら、自分のような立場では決して目にする事もない、庶民のちっぽけなロマンスというやつか?だが、あの体験の中の3人とあっては話は別だ。
ナイルは、西野陽子が泣き止むまで見守りながら、彼らがとんでもない荷物を自分に背負わせた(しょわせた)と苦々しくも、嬉しくも思ったのである。
衝動が冷めて(さめて)、陽子は口をへの字に曲げて不満げにしている。ナイルはハンカチを渡し、さも年上だと云わんばかりに、何食わぬ顔で話し始める「およそ私の知る限り……」
陽子は慌てて涙をぬぐい、話に戻らざるを得ない、それでナイルに失笑をかってから。
「私の知る限り。この美術館の役職は管理人以外にない筈です、それを希望しますか?管理人とは大変な名誉職だと聞いています。それが貴方に務まりますか?」
「管理人!?」その言葉、単語に飛び上がって驚く陽子で「いいえ!とんでもないです。下働きで、掃除夫でも何でもいいので、管理人以外でお願いします」
ところが、聞こえないのかナイルは真顔で反応しない。彼はこの時、なぜか目まぐるしく並列思考を始めていた。なので発言は、言い分を述べるだけの平坦なものになって「矢野龍介は、世界的な空手の達人でした。貴方にそんな特技がありますか?」更に続ける。
「格闘技に限らず、何でも良い。世界で認められるような特技が貴方にありますか?」
陽子は焦り(あせり)始めていた。だから、そうじゃないんですってば「いいえ特技なんてありません。ですから管理人じゃなくて、一般職でお願いします」と。それでもナイルは未だ薄い反応で彼女を見ているので、何だか私言い詰められている?
「私の特技、資格?普通自動車免許に、日商簿記2級、誇れるならケンブリッジ・イングリッシュCPEに挑戦中で、です。世界一なら、この美術館が世界一好きです」と呻く(うめく)。
ナイルは先程から胸のポケットを探り始めていて、それを探り当てたのか、ようやく思考を陽子に合わせてにっこり微笑んだ(他はともかく、その世界一は気に入ったぞ。西野陽子)
彼は立ち上がった。促されて陽子もおずおずと立ち上がる。ナイルが照明に照らされる受付を示し「あそこへ」と云う、2人は並んで歩いた。
その途中ナイルは胸からF端末(主人公関係者の呼称はワンダフル・ナイルカードだ)を抜き出し、陽子にひらひらと振ってから、軽やかに表面をタップ・スワイプして、画面表示にしてみせた。カード面全てが画像を表示している。完全にフチのない表示は、フロアの風景の中に浮き、忽然と参照のウィンドウ枠が踊るようだった。
(何だろう、スマホ?どこのメーカーだろう?それにしても小さい。クレカ大で薄っぺらすぎる)と陽子は目を瞬かせる(しばたかせる)。
2人は受付に到着する。ナイルは未だ(いまだ)画面を指で流しながらに、言った。
「西野陽子さん。私が貴方を此処の管理人に推薦してみます。それ位のお手伝いは出来るかもしれない」
彼はえ?と驚く陽子の肩を紳士的に誘って(いざなって)事務机に座らせる。机上の写真立てを即席のスタンドに仕立て、そこに準備を済ませたらしいF端末をちょこんと立てる。「では」と云って選んだ動画を再生する。ヴォーグの73の質問。ウェブ動画?
「早速ですが。それでは面接を始めます。このクエッションにひとつひとつ答えて下さい。これで公団は貴方の適正を判断します。音楽家向けに用意された質問は73有ります。世界的音楽家の立場に成り切って淀み(よどみ)なく答えて下さい。言い直しは作為があると見なされますよ?」
「え?でも?ああ、画面が小さい」
思わぬ事態に苦言を漏らす陽子は不承不承に、それでも既に画面を注視していた。パーカーの襟を正す(仕組みはわからないけど、これはチャンスか?いや、チャンスなんだ)そして質問に答え始める……
ナイルは受付の背後に回って「健闘を祈ります。私は終わるまで、別室で待ちましょう」と言って。スーツの襟の裏にから、小豆粒程の金属球をつまみ出す。それを指で宙に弾く。飛ばされた金属球は放物線軌道で空中に飛び、不意に軌道を乱し同時に球形状から飛翔体に展開したナノ・ドローンが、落下から正常飛翔に持ち直す。羽音も立てぬそれは、静かに陽子の頭上を旋回し始めた。ドローンはデフォルトでF端末周辺を、距離を保って旋回するのだ。
ナイルはそれを見届けると陽子の背中にウィンクをした。そしてドアの施錠を解き、管理人室に消えた。