(1)帰還
主人公赤毛のケンイチと、管理人・矢野龍介が姿を消して、3年と少し経つ。
季節は冬の初め。丘を覆う芝は寒気を帯びた風に吹かれ、その藍味が退き始めている。かろうじて日差しが暖かな、ある晴天の休日の正午前。
水晶の塔・美術館。2階フロア、階段口数メートル先のクリーム色の皮ソファーに。
昔ケンイチがよく寝転がっていたその場所に、背筋を伸ばした美しい姿勢で女性の客人が座っていた。その佇まい(たたずまい)は鮮やかモカ色のラグランコートを膝にたたみ、トップスがベージュのケーブル編みのスリーブニット、それに合わせて黒コーデュロイのヘムフレアスカートを穿く(はく)。足元は足首までの黒スエードのタイトショートブーツ。なかなかに品が良い。
彼女の横に立ち、4番目の管理人・西野陽子はもう一度腕時計を見て、唇を噛んだ。
あらかじめ知らされていた本来の管理人・矢野龍介の到着時刻が幾分遅れていた。待ちきれないのは、客人が既に此処にいるというのも手伝ってだが、また客人を盗み見てしまう。未だ時めきつつで(この女性を管理人に早く逢わせたいのに、まだなのか?)
美しい瞳を転々とさせて、そこからあちこちの絵画を眺めている客人とは、YouTubeでシンガーとして活躍するRayuという女性だった。チャンネル名はRayuTubeという。その登録者数は1万人を越えてそれなりの人気者だと言える。ただ此処、水晶の街の関係者にとっては、もうただの人気者では括れ(くくれ)ない人物だ。
西野陽子は彼女の大ファンだ。正確には水晶の街の住人としてしごく当たり前、位のファンだった。
彼女の人気は水晶の街では絶大だった。火付け役は管理人・矢野龍介で、以前の彼の草の根的な宣伝が今の果実を結んでいた。しばらくの間に人気は住人の間に野火のように拡がって。そもそもチャンネルが良質なのだ、限定された地域とはいえど、今やその知名度は有名芸能人のそれに肩を並べる。
陽子自身、住人に勧められて視聴してみて、忽ち(たちまち)気に入りチャンネル登録した口だった。「カバーが多いけど、それがオリジナルを超えてるんだよねー」と言った姉さんこと、食堂の女主人。そういえば「あれ?陽子さんはご存じないのですか」と中村弁護士も笑っていたっけ。
今回、陽子は事前に公団から連絡を受けていた。矢野龍介の退院に合わせてRayuさんを招待するので歓待してほしいと。
ただ実は、連絡を受けた時に眉をひそめた陽子がいた。また公団がいやらしく権力を使ってRayuさんに無理強いしたんじゃないかと疑心が沸いて。また神様の娘だと信じていたRayuさんが此処を訪ねてくる事に軽い幻滅があって。簡単に来ちゃうんだ……
だがそれは、全くの杞憂だった。
Rayuさんはまず鉄道路線でZ市に。そこからタクシーで丘の入り口に辿り着き、丘を散歩するように歩いて此処にやってきた。
隔離気味の美術館アクセスは難渋だった。Z市から見ると国道は迂回に迂回を重ね、山道に入ると山麓をぐるぐる回る。当たり前にタクシーだと料金は目を疑う程のものになる。だから公団は多くの場合、要人や客人を招く際には市に近接する空港から直接ヘリコプターを使う。今回なぜそうしなかったのか。
答えは簡単だった。それは彼女がエントランスで形通りのあいさつを済ませた後、その第一声で明らかとなった。
「ヘリコプターは冗談でしょ?とお断りしました。私は有名人じゃないですってば。それに一度来てみたかったのは私のほうなんです」
「え?」首を傾げる西野陽子だ。(何を言ってるんだろう、貴方は公団がお招きしたのだから立派に貴賓客ですよ?)
「ここは水晶の街、その美術館でしょう?水晶の街から来ましたって、コメントを下さるファンが多いんですよ?」
「……ハイ、ですよね」(知ってる、私もその輩です)と陽子。
「チャンネルを始めたばかりの時から、勇気をいただいてきました。ですからずーーっとです。此処ってどんな処なんだろうって憧れていて」と。
Rayuさんはありがとうございます、と深々と頭を下げるではないか。西野陽子は慌ててしまう。
「あ、頭を上げて下さい。困りますわ」Rayuさんの手を取るのだが、その時は陽子の手が震えてしまって。彼女の良質とは何であるのか、それを信じ切れなかった自分の愚かさを思い知る(やっぱりこの女性は大好きだ。神様の娘なんだ)と。
Rayuさんに館内の案内を簡単に済ませて、気になったのでフェルメール【恋文】については少し時間をかけて説明をしたので、今はその傍らのソファーに彼女が座っている、という訳だ。西野陽子にはこのもてあましの間以外にも気になる事があった。実は先程、2人の来館者、ご夫婦をを招き入れていた。Rayuさんが訪問するので、その時は他の方は遠慮を請うようにと公団から指示を受けていたが、今はその2人が階下の受付付近の長椅子に座っている。招き入れた理由は仕方がないものだった。彼らは、ケンイチから日時指定で招待されたと訪問してきたのだ。机上で記入してもらった書類には、佐藤A男、B子と名があった。30前後の若い夫婦はケンイチと同世代。B子は長い黒髪のストレートヘアに真っ白な肌。大きな瞳の大変な美女で、そのいでたちはブラウンのボアコート、同系のニットワンピに、ソフトレザーショートブーツ。ケンイチの……何の用があるのだろう。
(ケンイチさんのご友人?誰なんだろう)
気が行くのだが、2人はヒソヒソとそれなりに談笑している。ならいいやと、内心の言い訳をしてさりげない感じを装い、Rayuさんの横に座る西野陽子だった。
「あの」目を合わせずオズオズと。はい?と応えるRayuさん。
「私も、実は貴方の。RayuTubeの大ファンでして」ええ?とほころぶRayuさん。陽子はサインをいただけますか、と話すつもりだったのに、緊張した口は本当に言いたかった言葉をついて出した。
「ヨーコ4。判りますか?あれ、私です。私のアカウントです」その言葉に忽ちの喜びに目を見開くRayuさん「キャーーッ!!」
階下の2人を驚かす程の歓声だったので、西野陽子はドギマギになるが、ええい、もう気にする必要があるもんか。
「貴方が?ヨーコ4さんなのね?嬉しい!」
「判るんですか?覚えていますか?」
「覚えてる、覚えてるっ!」忘れるものかとRayuさんは。
「確か私が初めて。完璧な自作オケで洋楽を披露した直後、貴方がすかさずリクエストしてきた。次はイーグルスをお願いします、曲はもちろん」
笑顔の2人は声をシンクロさせて「ホテル・カルフォルニア!」まるで女子会(いや、そんなだが)の歓声だ。「コメントが可笑しかったわ」とRayuさんは継いで。
「貴方は、宇宙人にも通用する名曲ですって胸を張って言った。私もホントにそう思った」
西野陽子が赤面する。言い募って(つのって)「でも、未だリリースしていない、ですよね?」
Rayuさんは笑顔で陽子を見つめてから「うん」と頷き(うなずき)足元に視線で独り言のように言った。
「コメント返しは……ドン・ヘンリーはドラムで歌ったしフェルダーはダブルネックだし、私独りで歌う曲じゃない。だから今は出来ないけど、いつかファンの皆さんとワイワイやれたらなって思っています。その時に歌いたい、楽器を出来る人は勝手にやって、出来ない人はいっしよに歌って、ただそこにいてくれるだけでもいい……そう応えたと思う」視線を陽子に戻す。
「私の一つの集大成みたいに、いつか実現したいなぁ。ねぇ?ヨーコ4さん」
陽子はしみじみとそれを聞き、コクコク頷く(うなずく)。これがRayuさんの良質なのだ。素朴で、ファンが驚く程ファン想いのシンガーなのである。
そんな陽子を、これもまたしみじみ眺めるといった風のRayuさんは、その口元を軽く結ぶと少し間を空けてから「はい」ともろ手を挙げた。
「え?」当惑する陽子に。
「いつかのコメントにあったわよね?小4の時にだった?お母様をご病気で……だから、はい」
お母様の代わりにという言葉が耳元で聞こえてひと時に、Rayuさんに抱きしめられる陽子だった。
「え?え?」
惑乱になるとはこの事だった、どうしていいのかわからないというのもこの事だった。溶けていく、という表現も正しくて……西野陽子は一瞬硬直した後、眠っているようになった。
ややあって。
「?」さすがにRayuさんもその弛緩ぶりに気付く、抱く力を抜こうとする。と、前のめりに突っ伏したまま陽子は右手を上げて「……もう少しオネガイシマス」と言ってしまって、彼女の中の何かが弾けた(はじけた)。
なんで私は頑張り続けたんだろう。勉強も頑張った、ピアノも頑張った、テストも良い点を取った、お父さんの料理も頑張った、キャリアにもなった(辞めたケド)、星も一生懸命覗き込んだ……忙しく日々を過ごして忘れようとしていた。母の胸にもう飛びこめないと知ったから、自分に負けないように頑張り続けたのかな。もう10年以上経つ。やっとだ、やっと泣ける日が来た。
「うあーーーん、あん、あん」
子供のように泣くんだな、と抱擁を強く頭も撫でながらにRayuさんは思う(この人はドタバタッ娘かもしれないなぁ、くす)
その光景は階下にも伝わっていた。もちろん、フロアを隔てて気配だけの伝搬だが。
頭上のダウンライトの先を見つめて、いつしか微笑んでいる佐藤B子だった。女性は本質的に命に近い。だから歓声もすすり泣きも、それが命のやり取りだとすぐに判って静かに聞き耳をたて、見守っていたのだ。
そんな彼女はふいに思って「ねえ?」と並び座る夫、A男に問う。
「ケンちゃんが言ってたヨーコさんって、もしかしたらあの女性じゃやないのかな?細くて泣いてる女性……」
「え?」とA男。彼も上の階の気配にほっこりしていたので、はっとする。つまり、この夫も妻に劣らず優しい人物で。
彼は、膝のパンフレットと重なる管理人の名刺の文字列に視線を走らせる。水晶の塔・美術館【管理人・西野陽子】確かに陽子とあるが、果たしてそうなのか。だとしたら彼女はケンイチの……
館内に遠い爆音が響き始めたのはそのタイミングだった。爆音は次第に大きくなってくる。何事かと気配を伺う(うかがう)来館者達。
2階フロアの西野陽子は、丁寧にRayuさんの胸を辞する。立ち上がって居住まいを正す。右足のパンプスが脱げていたので顔を赤くして履き直しRayuさんにお辞儀をして、これは事務的なんだと強調するように言った。
「Rayuさん。貴方にお会いしていただく管理人、矢野龍介が到着したようです。貴方を最初に水晶の街の皆に伝えたのは彼です。彼に会って下さい。彼は怪我をしている、それを見舞っていただくだけで結構。これが公団の見解です、外に他意はありません」
ここでお待ちを、と更に一礼。陽子は階下に向け、遂に、と歩み出す。胸が高鳴る。待っていたぞ、矢野龍介、管理人その人。
勇んで丘に歩み出た西野陽子だったが、目前の光景に驚いてしまった。
「え?何なの?」
その理由はヘリコプターの威容に、だった。てっきりメディカルヘリ(ドクターヘリ)か、よく見かける派手なカラーの公団のヘリを想定していたのだが、丘の中央あたりに着陸しているそれは何倍も大きい。モスグリーンの機体で何と言うのかその、あれは軍用ヘリではないのか?
ヘリの後方の、アクション映画でしか見たことがない後部ハッチ(ペイロード)が開いて地面に接地している。数人の人影が見える。軍人じゃなさそうだが、初めて見る人達だ。それはともかく、彼らに別離の挨拶かを簡単に済ませた大柄な人物が、そこから地面に降り立ってきた。痛々しく頭から鼻の上まで包帯でぐるぐる巻き(双眸は完全に塞がれている)の人物は。2メートル150キロ、いかめしい体つきで口元にニヤリと不敵な笑みを浮かべている。間違いなく矢野龍介だ。彼は失踪した時の姿のまま(安っぽい濃いグレーのスーツ姿)で、白い杖をつきながら既に歩み始めていて。
「管理人!」
陽子は駆け出していた。駆けながらもう一度叫ぶ「管理人!矢野さん!」
2度目の呼びかけが届いたのか、矢野龍介はふと立ち止まり、辺りを見回して(目は見えないが)当惑したような顔をする。また歩み始める。
全力疾走で駆けた西野陽子がそこに至った時、丁度、離陸したヘリが2人の頭上の空気を掻き散らして飛び去るところだった。
「管理人」ハァハァと息を切らせながら西野陽子は「お待ちしていました」
矢野龍介はきょとんとして、その後すぐにたじろいで「その声は。まさか……ヨーコさんですか?」
陽子は返事などしなかった。する必要もないと彼の胸(正確には腹部)にしがみついて「お帰りなさい!どこ行ってたの管理人!」最後は涙声になる。
「ヨーコさん。なぜ貴方が此処に」抱きしめていいものか、少し離れてもらうべきなのか、オロオロになる当時のままの大男だ。西野陽子は彼を見上げ変わらなさすぎだと微笑むと、体を離しコホンと1つ咳払いをして「歓迎します。矢野龍介さん、今日はお待ちしていました。私が当美術館・管理人、西野陽子です」
「え?ええーーっ!?」目をむいて(包帯が邪魔だ)大男「管理人なんですか、アナタ!」
キャーという歓声と嘘だろっという驚きの声が一つになって丘に響く。風が一つ流れていった。
「ともかく美術館に行く、いえ戻りましょう、足元は私が案内します」
「ケンイチさん、彼はどうしていますか、まさか今も此処にいるのですか?」
「そのお話も有りますから道すがらに。話す事は山ほどあります」
2人はペチャクチャとお喋りを始める、美術館に向けて丘を歩んでいく。
時折、西野陽子は会話の調子を保ったまま、悟られないように矢野龍介を観察していた。怪我の様子。公団からは、脳の血管の損傷でそれは持病から発展したものだと聞かされていた。だから頭部の包帯は理解できるが、目はどうしたのだろう。見えるようになるのだろうか。顔色は?悪くない、以前と同じ健康的な小麦色だ。少し線が細くなった気がする、病み上がりだから当然か……
会話中に、矢野龍介は2度程立ち止まる事があった。1度目は今ここにRayuさんが訪問している、と陽子から告げられた時。それは喜びに足が止まったのだ。2度目は陽子が管理人になったいきさつを話している最中にふと、だった。或いはそれは、立ち止まったと感じた陽子の勘違いだったかもしれない。そこで矢野龍介が何かコメントした訳ではなかったし、あまりにひと時の気配だったので。
ただ彼はその時、彼方の空に目をやって(やはり見えていないのだが)感慨深そうな顔をしたような、しなかったような風だった。
ところで、西野陽子が(辞めたケド)と明かしたキャリアとしての役人勤め。その辺りの経緯に触れておく。
2人の失踪当日。
丁度昼時を見計らって美術館を訪問した西野陽子は、とんでもなく落胆した。美術館に誰もいなかったので。
例によって山道脇のゲート付近に座り込む3号爺がいた。話を聞くと、管理人は入院したと云うではないか!事情を知っているだろうケンイチも朝早く出かけ、未だ帰ってこないと云う。その日は深夜までエントランスの長椅子に座り、少なくともケンイチを待った陽子だったが。結局、お手製のチキンの唐揚げとサンドイッチが詰め込まれたバスケットは、彼女の膝の上で意気消沈してしまった。
翌日、翌々日と。彼女は勤め帰りに美術館に立ち寄った。普段はそんな行動はしない。というのも役所はZ市内にあるので、下手をすると片道2時間はかかるのだ。気軽にとはいかず、その2日間もただ丘に立ち入り、照明の落ちた美術館を外から眺める事しかできなかった。
それから、様々な紆余曲折があってひと月後。
結局、西野陽子は国税のキャリア公務員という役所勤めを辞して、(何と)食堂の女主人の元で、住み込みのアルバイトという身分で働き始めていた。
その理由は、彼女が出来るだけ美術館に通い詰めて、失踪した2人を待つなり、手掛かりを探るなりしたかったからだ。その為には遠いZ市という拠点を捨てざるを得ずそれならばいっそ、という彼女の決断だった。3号爺の話によると、ケンイチは必ず帰ってくると言ったらしいし、管理人・矢野龍介にしても入院なのだ、退院すれば戻ってくるのではないか?
もちろん、キャリア公務員の職を辞すというのには、陽子の内に相当の葛藤があった。
キャリアとは簡単になれる立場ではない。陽子とてそれなりに苦労して一流大学を卒業し、難関に挑んで死に物狂いの努力をして、他者と競争の末勝ち得た地位だ。それを自ら放棄する自己否定というのには苦悶したし、国家公務員の安定、安寧という社会での優越とは、端的に言えば将来が約束されているという事なのだ。およそ人たる者だ、眩暈がする欲心は煩悩の数ほどにある。
では、その約束された将来。私はどのように思うのか?それを考えた時に陽子は身悶えしたのだ。将来に今を振り返って、あんな事があったな、彼らはどうしてるだろうと虚ろに思い出す、もしかしたら薄く笑うのかもしれない。それが私なのか?それが私の約束された将来なのか、と。
失踪10日目だった。西野陽子は美術館の事態ばかりに気が行き、仕事がろくに手につかないまでになっていた。だからその午後に突如の辞意を表明し、そしてそのまま役所を去ったのだ。
火が出るような連絡にスマホが終日鳴りっ放しだったが、彼女は全て放っておいた。幸福とは何か、将来それさえも判らなくなる程に狂え、というご意見なら聴く耳など持たなかった。もしも仮に、彼女に意見できるほどの立場の上司が役所にいたとして。彼らなら、将来狂い切ってしまった陽子を正してくれるというのか?彼らもまた同じように狂っているだろうに。譲歩してその将来、もしも狂った彼女が誤って人を殺し、それを機械のせいにしようとしたとして。彼らなら神様の御手通りに彼女を裁いてくれるのか、正しくその胸に銀のナイフを突き立ててくれるというのか?
人生は連続しているものだと西野陽子は思う。その一部を切り取って、無かったことにして貼り直す。他人から見れば順風に見えるだろうそれには、本人にはしか判らない痕跡が残る。それは恨めしく目に映りいつまでも消えない。そしてきっと、そこから崩壊が始まるのだ。後悔という煉獄の炎が必ず自身を焼き尽くすだろう。だから、彼女は振り返る事さえしなかった。