大帝が愛したチーズ
カール大帝。 別称、シャルルマーニュ
ローマ皇帝にして、在任中、53回もの軍事遠征を行った事で有名である。
が、軍事遠征云々はともかくも、彼には在る趣味が在った。
好物は焼き豚串とチーズである。
方々の国々へと遠征をする間に、カールは在ることを知った。
各地のチーズは、製造法や素材の違いから、様々なモノがある。
新鮮さを求めるフレッシュから、深い熟成を要すハード。山羊の乳を使うシェーブル。
また、塩水やワインで洗う事によって一味違った熟成をさせたウォッシュタイプ。
其処で、大っぴらには言えない趣味の一つとして、各地方へのチーズ巡りが在った。
血生臭さ漂う戦乱の中、彼はそれを慰めにしていたのかも知れない。
そんなカール大帝が、とあるフランス地方へ遠征の際の事。
*
偶々立ち寄った修道院にて、大帝はこう所望した。
「んー、この地方には、大層独特なるチーズが在ると聴き及んだ。 其処で、余はそれを食してみたいのだが」
さて、主君からそう言い付けられては部下は従うより仕方ない。
其処で、部下達はある修道士に「チーズを献上せよ」と注文を付けた。
注文を受けた修道士は、自信を持って自慢のチーズを差し出す。
「皇帝陛下、どうぞ御賞味くださいませ。 我々の自慢のチーズで御座います」
スッと出されたのは、パンに添えられる蜂蜜、チーズとワイン。
極一般的な庶民のご馳走である。
だが、この時の大帝は目を剥いた。
なんと、出されたチーズが青くカビていたのだ。
【えぇ? 此奴等、こんなモン食ってんの?】
そう思いはすれども、大帝が目を向ければ修道士達が如何にも自信たっぷりに立っているではないか。
こうなると、大帝も文句を言えない。
わざわざ貧しい地方へとやってきて、庶民のご馳走を【献上せよ】と頼んだのである。
多少カビていた所で、文句を言う方がおこがましい。
そもそも立場を盾に献上せよと命令したのは他でもない本人なのだ。
一々食べ物如きで憤慨などしていては、ローマ大帝の面子が立たぬというモノである。
何せ、ローマの格言に置いて【ローマ人は色と味は語らない】とまで在る。
国へ帰ったなら、さぞや噂をされてしまいかねない。
【おう、あのカール君さぁ、チーズぐれーでブチブチ文句垂れたらしーぜ?】と。
皇帝陛下ともなれば、立場が在る。
チーズ如きで怒ったとあっては、そんな小物には立つ瀬がない。
困った大帝、仕方ないと一計を案じた。
一生懸命になり、チーズのカビてない部分をこそぎ始めたのだ。
カビさえ避ければ、何とか成るかも知れないという涙ぐましい努力である。
しかしながらこの時、その大帝の行いを見た修道士が、一歩前へと出る。
「あの、陛下。 恐れながら」
「ん? なんじゃ、申してみよ」
皇帝から許可を受ければ、発言して問題ない。
「陛下が避けようとしている其処が、一番に美味なる部位で御座います。 蜂蜜を添えればなお味が引き立ちますよ」
修道士の声に、大帝は耳を疑った。
ハッキリ言葉に直せば【カビの所を喰えよ】である。
正直な所、匂いだけで既に及び腰な大帝からすれば、修道士の声は厳しい指摘だった。
【え? 余がコレ喰うの?】という心の声。
場末の乞食ならともかくも、帝国の長たる大帝に、なんと修道士はカビの付いたチーズを食えという。
思わず、別の意味で唾を飲み込むカール大帝。
何とか切り抜け様にも、大帝を迷わせるのは周りの眼であった。
護衛の親衛隊は嬉々として興味深そうに眺めている。
修道士に至っては未だに自信たっぷりに微笑む。
もはやこれまで、大帝は覚悟を決めた。
【ち、ちょっとぐらいなら、お腹壊すぐらいかしら】
厚手に切ったチーズを、助言に従い蜂蜜を垂らす。
そして、パンへと挟むと、意を決して口に入れたのである。
偶然かも知れないが、大帝は理に叶った食べ方をしていた。
慣れれば病み付きになるブルーチーズだが、その匂いは芳しいとは言い難い。
慣れぬ者にしてみれば、他の発酵食品同等に異様な臭いと言える。
そのままにカビ臭い、油粘土の臭いがする、獣臭い。
表現は様々。
が、パンに挟むとチーズの匂いは抑えられるという効果が在った。
更に其処に粘度に富む蜂蜜がカバーする。
恐る恐る、モグモグと食べる。
その次の瞬間、大帝は今までに感じた事のない味を舌に感じる。
青カビがせっせと働いた結果、チーズに含まれるタンパク質をアミノ酸へと変換。
味の基本は五味であり、甘味、塩味、酸味、辛味、苦味と並ぶ。
だが、人が【美味い】と感じるのは、このアミノ酸の量で決まる。 ソレが何であれ。
奇しくも、ブルーチーズのその量が並みのチーズとはケタ違いに多かった。
更に其処へ追い討ちを掛ける様に糖分である蜂蜜が加わる。
チーズに含まれる塩分、脂肪、そして添えられた蜂蜜の糖分。
正に黄金の味であり、俗に言う【解っちゃ居るが止められない】という組み合わせであった。
特に何を言うでなく、飲み込んだ後、大帝は赤ワインを一口。
カビ臭さだけを何とかしてしまえば、その味は他には例えられないモノである。
現代に置いてはアミノ酸を抽出する技術も在るが、それは最低千年先の話だ。
更に、ブルーチーズは余韻が著しく長い。
まるで、旨味という誰かが、舌に抱き付いて来る様な錯覚。
ハァと、一息吐いた後、大帝は何も言わずにまた食べ始めていた。
最初は嫌がった筈の青いチーズを。
*
食後の事である。
大層満足した様な大帝は、チーズを作り上げた修道士達を呼んでいた。
「いやー、そなた等が作ったこのチーズ、実に堪能させてもらったぞ」
皇帝自ら発せられるお誉めの言葉。 間違い無く、名誉な事である。
「お誉めに預かり恐悦至極に御座います、陛下」
修道士のホッとした様な声に、満足した大帝はウムと唸った。
「では、今度からこのチーズを王宮へ毎月届けるように」
「はい?」
突然の大帝の言葉に、修道士は耳を疑った。
ブルーチーズとは、青カビが作り上げるモノである。
つまり、人の手による加工だけでは作れない逸品と言えた。
青カビのご機嫌如何によっては完成など覚束ない。
然も、材料となる乳を用意するだけでも並大抵の事ではない。
当たり前の話だが、牛や羊といった動物が母乳として出すものがミルクである。
然も、年がら年中垂れ流してくれるモノでもない。
子を産んだからこそ、母はその血を乳へと変える。
更に、母牛や母羊の体調にも影響を大きく受ける事から、一定ではない。
要するに【はいどうぞ】とお気楽に出来上がる事のない逸品であった。
「いや、あの、陛下? お、御言葉ですが、その、毎月……と、申されましても」
「うむ、余は楽しみにしておるぞ? では、さらばじゃ!」
お宝を探り当てたと意気揚々と帰宅の途に着くカール大帝。
幸か不幸か、修道士達の珠玉のチーズは、大帝のお気に入りと成ったのである。
*
それからというもの、修道士達は多忙を極める事となる。
そもそもが大量生産とは無縁なモノを生産した上に届けろと仰せつかってしまった。
愛好家が多いブルーチーズでは在るが、勿論欠点も在る。
熟成期間が数ヶ月を要するのに対して、保存が効かない。
利害の一致を見て、熟成こそ助けてはくれるが、基本的に青カビは人間の都合などはお構い無しである。
放置などすれば、あっという間に土に返してしまうだろう。
然も、そもそも原料のチーズを調達するだけでも一苦労どころでは済まない。
それが毎月ともなれば、結局の所、その地方だけでは無理が出て来る。
「くっそう! こうなったら! 助力を願うぞ!」
もはや門外不出などと言っている場合ではない。
方々から人手や原料を調達せんと四苦八苦。
そして勿論の事、人の口には戸が立てられぬ様に、人の行い全てを御する事など出来るか筈がない。
お手伝いとして雇われた者の中には、キッチリと大帝が愛したチーズの製法を真似ようとする賢しい者が現れる。
「あーはぁはぁ、なるほど……そうやって造るんですねぇ」
こうして、欧州の方々へとカビが繁殖する様にその製法は流れたのかも知れない。
現代では各地によって様々なブルーチーズが見られる。
そして勿論、大帝が愛したロックフォールと名を冠されたこのチーズもまた、今の時を生きている。
十八世紀。
イタリアの文人カサノヴァが、その媚薬的効力を記した回顧録。
「ロックフォールを食べ、シャンベルタンを飲めば、消えかけた愛は再び燃え立ち、芽生えたばかりの恋はたちまち成就する」
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