名も無き者達
遡る事、数千年前。
とある洞窟にて、ある羊飼いの青年がお弁当を食べようとしていた。
「いやー、疲れるわー」
疲れからか、気だるい声と共に、羊飼いは包みを開く。
持参したのはカチカチのパンとチーズ。
さてさて、如何にして食べようかと、頭を悩ませる羊飼い。
いつも通りならば、切ったチーズをパンで挟んで適当に頂くのだが、この時、羊飼いは在るモノを見てしまった。
「はぇ~……いい女だなぁ」
思わず、洞窟の前を通り過ぎる女性に心奪われた羊飼い。
なんとこの時、彼は何を想ったか立ち上がって女性の後を追い始めてしまった。
もしかしたら、美しい女性とお近づきになれたならと。
この時、偶然にも在るモノが残される事となる。
ソレはパンとチーズ。
湿気が程よく涼しい、更に空気もそれなりに通るという其処。
こうして、食べられ消え失せる筈だったチーズは取り残された。
*
数ヶ月後の事である。
偶々、休憩にと洞窟に立ち寄ったのは、かつて其処を訪れた羊飼いだった。
「あー、そういや、だいぶ前に寄ったなぁ」
既に何ヶ月か経過してしまったせいか、懐かしさすら在る。
其処でふと、羊飼いは何かを鼻に感じた。
「おん? なんだ、この匂いは?」
ソレは、今までの生涯の中でも嗅いだこともない様な異な匂い。
匂いに誘われるまま、羊飼いは洞窟へと立ち寄る。
「……げっ!? こ、コレは!!」
洞窟内にて、思わず声が上がる。
羊飼いが見たのは、数ヶ月前に食べるのを忘れた彼の弁当であった。
その惨状は言うまでもないだろう。
パンは青々とカビが覆い尽くし、なんとその横に偶々放置していたチーズにまでも浸食して居たのだ。
ウーンと唸りつつ、羊飼いは徐にチーズへと近付く。
「うへぇ……こんなカビだらけじゃあなぁ」
本来、チーズは保存食である。
フレッシュチーズといった新鮮さを求める種類ならば、或いは出来立てが望ましい。
が、その反対に、硬めに作ったチーズは保存が利いた。
硬質チーズなど、数年掛けて熟成させるモノまである。
では、羊飼いのモノはどうかと言えば、カビていた。
「あー、もったない……参ったなぁ」
此処で、羊飼いは悩む。
チーズは、間違い無く高級品に含まれる。
僅か数キロのホールチーズを一つ作成するに当たり、使用される乳は10から20リットル。
チーズを無くすという事は、それだけの乳を無駄にする事に他ならない。
現代とは全く違う価値観を持つ羊飼い。
其処で、彼は恐る恐るチーズを手に取っていた。
「コレ……なんとか、食えねーかなぁ?」
正直、如何にカビたとは言えチーズを捨てるのは躊躇われる。
何せ手間暇掛けて作り上げられるのだ。
勝手な失敗で無駄にしたと在っては勿体ない。
其処で、羊飼いは意を決する。
少しずつ口へと近づけ、やがて一口食べた。
*
「というお話が在るんだよ」
そう語るのは、とあるフランスの一地方の修道士。
話を聴いていた同じ修道士も、ヘェと声を漏らした。
「しかしまぁ、なんだな。 2ヶ月も女の子追っかけ回してたってのもね」
「何か問題かね?」
問い掛けられた若い修道士は、ウーンと唸った。
「だって、2ヶ月でしょ? 然も、その野郎は結局女の子とはどうなったのとか?」
実に若々しい声に、修道士は笑う。
「まぁ、お話しだって言っただろう? そんな事よりも、仕事だよ」
「あいあいさ~っ」
修道士と言えば、神に仕える職業ではある。
とは言え、何もかもお空の上の神様は面倒を見てはくれない。
なんだかんだといった事は、結局は人間が自分達の手でやらねばならないのが常である。
羊達から集めたミルクを、大きな樽へと入れていく。
人が浸かれそうな大きな樽へと並々と注がれた。
「さてさて、次はと」
秘密の元を2つほど入れ、更に取り出されたるは、パンである。
無論の事、そのまま樽にポーンと入れる訳ではない。
修道士が取り出したパンには、語られた伝説通り、青カビで覆われていた。
小さなナイフで、カビをこそぎ落とし樽へ。
これこそ、現代とそう大差がないやり方である。
暫く後。
すっかり水分と固形分に分離されたチーズの欠片が集められ、型へと入れられる。
次に、塩をまぶされた。
「よーし、運ぶぞー」
軽い合図と共に、せっせと洞窟利用した熟成室へと運ばれるチーズの群れ。
一見する分には、青カビなどを入れれば毒素が出てしまうと現代人は言うだろう。
だが、其処には在る科学的な理由が訳がある。
何故青カビの生えたチーズを食べても大丈夫なのか?
それは、在る一定の科学的な条件が揃っているからだ。
第一に周りがタンパク質であり、第二に其処にアンモニアが存在する。
そして第三に、貯蔵する場所が洞窟という低温であるということ。
この三点が揃った時、気を良くしたのか青カビは毒素を出さなく成るのである。
毒素こそ吐かない。
だが、それでも、生えた青カビはチーズの熟成の手助けをしてくれる。
在る意味、偶然に偶然が重なって出来た、人と青カビの利害の一致と言えよう。
時は八世紀。
未だに電灯やら水洗トイレどころか、電気という観念も無い時代
この日もまた、この地方は平和であった。
お読み頂きありがとうございます。
先ずは軽い紹介として、世界三大ブルーチーズ。
①ロックフォール②スティルトン③ゴルゴンゾーラ