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馬車に乗り元シネンシス公爵邸…今はフェイジョア領のタウンハウスとなった邸へと戻る。
エンジュは不機嫌さを隠す事なく、背もたれにもたれかかり、足を投げ出した。
小さな溜息をつき、馬車の小さな窓から王都の様子を眺める。
王都の様子は、だいぶ落ち着きを取り戻しているようだった。
あの後すぐに、王妃はエンジュの威圧に当てられ、気を失った。
自分が他者に王族として意見をすることは当然として、あのような威力を発した返事が返ってきたことはなかったのだろう。
壁一面に亀裂が入り、そこからずれが起き、一部が崩落していた。
控えていた三公達が慌てふためき、丁寧な言葉でエンジュを言い包め、後を任せることになった。
「あの程度で気を失うとは…。」
王妃の身勝手な自尊心の為に、シュロールは自分を犠牲にして人々を救っている。
そう思うとエンジュの中で、怒りの感情が爆発するように膨らんだ。
やり場のない苛立ちを、発散した自覚はある。
だが相手も敵意を向けてきたのだから、それなりの覚悟があっての事だろう。
しかしその行動は、周囲にいた者にとっても衝撃的だったらしい。
かろうじてエンジュの怒りに触れたことのある、プラタナス元公爵がその場を収め、エンジュを執り成し、さり気なく退室を促した。
王族としての権力や圧力に屈しない事、そしてその全てを必ず報告することを約束して。
◇◆◇
邸へ戻り馬車から降りると、すぐにハルディンがエンジュの元へ駆けつけた。
ハルディンがそうした行動をとることは、初めてだった。
エンジュの戻りを待っていたとは思いにくいが、なにかがあったのだろうかと疑問が浮かぶ。
「…シュロールが、まだ戻らない。」
戻りの挨拶もなにもなく、突然顔を見るなり声をかけてくる。
思いつめたような表情で視線を揺らし、今にも叫び出しそうだった。
「約束は今夜、今少しは待たねばならんだろう?」
エンジュはハルディンへ言い聞かせるように、返事をする。
自分たちには未知の世界だった。
シュロールが決断し、それを見守ると決めた以上は期限まで待つ以外に方法はない。
黙り込むハルディンを見て、納得したのだと判断したエンジュは踵を返し邸へ向かおうとした。
「上空に…あの白い生き物がいない。」
ハルディンは要領を得ない言葉で、エンジュを引き留めた。
もう一度エンジュは振り返り、ハルディンを眺める。
ああ…この男は、不安が隠し切れないほど動揺をしているのだ。
そして同じ程度の不安を分かち合える、エンジュをその相手として選んだのだろう。
普段だったら、絶対にこのようなことを自分に話しかけるような男ではない。
自身がどれほど地位を落としたとしても、悪態をつくことをやめなかった。
そんな相手に感情をさらけ出すほどに、不安が勝るのだろう。
どういったものか…エンジュも確信があるわけではない。
ハルディンが満足いくような、返事をすることはできない。
そしてまたエンジュも不安で胸の内を黒く、重くしていた。
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言葉を探しているうちに、一台の馬車が邸へと入って来た。
装飾の豪華さから、身分の高い者が乗っているのだろうとわかる。
そして前方についている旗から、それが神殿の物だと理解した。
エンジュとハルディンはその様子を、警戒しながら眺めていた。
正直に言うと、今は身分の高い者を客として迎える余裕はなかった。
そして先触れのない訪問、嫌な予感しかない。
馬車から降りてきたものは聖職者としても位の高そうな衣服を纏った、優し気な男だった。
少し焦った様子でこちらに近づき、聖職者としての礼をとり声を掛けてきた。
「突然の訪問、申し訳ございません。私はティヨールの神殿で司教をさせていただいております、アシュリー=ダンドリオンと申します。こちらの御令嬢シュロールさまの件で、フェイジョア辺境女伯へお取次ぎ願えますでしょうか?」
突然…見ず知らずの聖職者から、シュロールの名前が出た事の驚き、エンジュは奥歯を噛みしめながら眉を寄せる。
同じように先程まで落ち着かない様子だったハルディンも、訝し気にその聖職者を眺めていた。
二人からはシュロールの名前を出した相手に、敵意が滲み出ていた。
「…私がこの邸の主でフェイジョア領主、エンジュ=フェイジョア辺境女伯だ。何用か?」
アシュリーはフェイジョアのことをあまり良く知らなかったのだろう。
以前一度会ったことのあるガルデニアは男性ながらも、細い身なりに貴族としての綺麗な装飾が施されている装いをしていた。
しかし今目の前にいる辺境女伯は、男性と見間違う程の簡素な装いだった。
よくよく目をやると手入れされた皮のブーツや絹で作られた上着など、全て上質な物を身に着け気品が漂っている。
「失礼いたしました。フェイジョア辺境女伯、初めてお目にかかります。突然の訪問、申し訳ございません。よろしければ、少しお話をさせていただきたいのですが。」
エンジュはそう言われている間にも、相手の事を観察していた。
司教という立場の者が少数の供の者しかつけず、先触れもなしに貴族の邸へ出向く…なかなかあることではない。
なによりシュロールの名前が出た以上、エンジュは無視することができなかった。
「中に案内しよう、付いて来い。」
「私も同席を!」
ハルディンが、強い視線でエンジュを見る。
エンジュはその様子を見て、昔の自分を見ているようだと思った。
不安で仕方がない、縋れるものがあるのなら少しでもそれに縋りたいのだ。
エンジュが先陣をきり歩き出し、アシュリーとハルディンもそれに付き従う。
緊張感を漂わせたまま移動をするその様は、今から決闘に赴く騎士の様であった。