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まだ明けきらない朝の空、薄く広がる淡い灰青色に白い光が差すのを待っている。
短剣の意思と言った物はあの後、朝日が顔を出すのと同時にエンジュの邸の裏手にある小高い丘の上を待ち合わせに指定し、その気配を消した。
シュロールは短剣の力で、王都へと向かうことになるだろう。
次に皆に会えるのは、きっと王都だ。
エンジュは…見送りを辞退した。
もうエンジュの魂が摩耗することはない…この言葉を信じ、家族という執着に縛られることなく、シュロールと邸で別れ、送り出すことができた。
今は捕縛した王太子とジャサントを連れ、何よりも早く王都へと向かう準備をしている。
シュロールの見送りは、ハルディンと二人きりだった。
夜会へのエスコートのように、差し出された手に手を重ね、ゆったりと丘の上へと登る道を歩く。
フェイジョア領が見渡せるほどの高さにくると、ハルディンと二人で並びその景色を目に焼き付ける。
シュロールはみんなで考えた、濡れても透けずに、足元がめくれ上がりにくい服を着ていた。
本来ならこのような格好で外に出ることは、あってはならない。
それをハルディンが大きな外套をかけ、丁寧に隠してくれる。
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遠くを眺める二人を、吹き抜ける風が冷たく通り過ぎる。
ハルディンはシュロールを引き寄せ、自身の前に置き、自分の外套の中へ引き込む。
包まれている幸せが込み上げてくる…今から遠く離れることが嘘の様だ。
「寒いか?」
ハルディンの問いに、シュロールは小さく頭を振る。
陽が差すまでにもう少し時間があるようだった。
「これが終わったら、お前に伝えたいことがある。」
ハルディンは色が変わりつつある朝の空を見上げ、遠くの未来を見つめているようだった。
少し寂しそうに、口元に笑みを浮かべる。
「お前を見送ったら、俺もすぐに王都へ向かう…王都の邸で、三日は待とう。それでも戻らないようだったら、お前が恥ずかしくて仕方がないと思う程大きな声で、お前の名前を呼びながら国中を探し回ってやる。」
少し意地悪なことを冗談のように話す。
「だから必ず…俺の元に戻ってこい。」
ハルディンは言葉に出すと、認めたくない、離したくない気持ちが大きく込み上げてきた。
シュロールを寄せる腕に、力がこもる。
シュロールは肩越しに聞こえてくるハルディンの声に、心地よさを感じていた。
同時に申し訳ない気持ちが込み上げてくる。
どうしても王都に行く前に、ハルディンと話しておきたいことがあった。
「ハルディン様は…私が殿下を射抜いた話を、聞かれましたか?」
そういうと背後の気配を探る。
「フェイジョアの一族に伝わる加護の力なのだそうです。正直…私が使えるとは思っていませんでしたし、放てたことも奇跡に近いそうです。そして私自身もう一度同じことが出来るかと問われると、無理だと答えます。それほど自分に手応えのない、過ぎた力だったと思っています。」
ハルディンと同じ方向を見つめながら、シュロールはあまり感情がこもらない声で淡々と話した。
少しだけ視線を後ろに向け、寂しそうに微笑む。
「私にも、あの瞳が現れたそうです。殿下はあの瞳の事を『魔の者』と呼んでいました。私はもうハルディン様に、恐ろしい令嬢だと嫌われても仕方がないと思っていました。」
ハルディンはシュロールのその言葉を聞くと、眉間に皺を寄せ少し機嫌を悪くした。
少し大きめに息を吸い込み、溜息をつく。
「…お前は俺の瞳が変わったり、少し人と違うことが出来たりしたら嫌うのか?」
シュロールは前を向いたまま、驚いたように目を見開き、そして頭を振った。
「そういうことだ…俺の気持ちは変わらない。他の何がなくても、お前がいればいい。」
ハルディンはそう言い切った、それは自分の気持ちと向き合い、そして言い聞かせるように、力がこもっていた。
「…私はこの手で人を傷つけてしまいました。その罪の意識を、感じているのかもしれません。でもそれ以上に母やエンジュ様がそうあったように護るべき人を護りたい。救えるならば救いたい。」
ハルディンは「ああ」と頷くと、シュロールの首筋に頬を寄せ、唇を押し付けた。
シュロールの身が竦む、嫌ではない…ただすごく大事にされている、その事がこそばゆい。
「俺の元へ戻ってこい。」
唇を押し付けたまま、ハルディンはもう一度シュロールへ告げる。
その部分から波が広がるように熱を持つ、ハルディンの元へ戻る為の約束の刻印として、シュロールの身に刻まれていった。
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しばらくして丘から見える空に、白い光がゆっくりと眩しいその姿を現しはじめた。
「…待たせた…。」
大きく響く、その声は短剣の意思と言う物と同じだった。
上空を見ると透明で大きく長いものが、漂っている。
ハルディンはあっけにとられ、口をあけ空を見つめている。
「バシロサウルス…。」
シュロールは呟く。
短剣の意思はシュロールの願いを、見ると言っていた。
その時にシュロールの中にある様々な情報を、感じ取ったのだろう。
ふと頭の中に、遠い昔の懐かしい記憶が蘇る。
「お姉ちゃん、これバシロサウルスって言うんだよ。大きくって長いんだ!」
前世の記憶から、幼い頃の弟がシュロールに向かって、興奮気味に教えてくれていた。
恐竜図鑑を見ながら、少し不思議な気持ちでそのページを眺めていたことを思い出す。
短剣の意思と思われる透明なバシロサウルスは、大きく空を旋回しシュロールの元までゆっくりと近づく。
段々と近づくと、鼻先をシュロールの前に寄せる。
すごく熱い風が、熱気が、シュロール達を襲う。
透明なバシロサウルスは、その身をフェイジョアの温泉で構成していた。