82
このままここに留まることは、自身の身の内に危険を呼び込むようなものだ。
シュロールを抱えたまま、じりじりと後ろへと下がるオルトリーブはタイミングを計っていた。
すぐそこにエートゥルフォイユの手の者が、軍に隠れオルトリーブを迎え入れるために準備をしているはずだ。
この場を切り抜け、この領を越えれば…全てが思い通りに動く。
その為にもこの者だけは、ここで葬り去っておかなければならない。
フェイジョア領主、エンジュ=フェイジョア辺境女伯。
この地に向け挙兵すると言った時、母である王妃はこの人物だけは侮ってはならないと告げた。
そして相対したのであれば、その時は必ず撃てとも。
その言葉の意味が今ならわかる。
今までにオルトリーブが行なってきたことに、遠からず関わってきていることから、今回の全体像を把握しているに違いない。
そして今交わした少しの会話の間でさえ、色々な含みを持たせて、新たな情報を引き出そうとしている。
コニフェルードの挙兵など、状況を読む力もある。
そしてなにより、目の前で起きた常人とは思えない力の発揮。
オルトリーブは、暗闇の中で目に見えない細い糸に絡めとられている錯覚に陥る。
まだ自分の方が優位なはず…なのになぜ、こんなにも喉が渇く?
大きく喉を鳴らすと、オルトリーブは腰に持っていっていた手を前に掲げていた。
「フェイジョア領主よ、領民の命が惜しくば…道を空けよ。」
手袋をつけ、握った拳から、小さくさらさらと黒い砂がこぼれる。
「はっ!呆れた王太子だ…領民の命を盾にとるとは。そしてこの私が、同じ手を何度もくらうと思っているのか?」
エンジュはその行動に意味がないとばかりに、大きな態度を崩さなかった。
「…残念ながら、こちらは風上だ。そして風下にはお前が開けた穴がある。心地良い風が…ここから領民のところまで、届くのではないか?苦しいのはどちらかな?」
その言葉にエンジュは顔の表情をなくす。
驚くでも焦りでもなく、ただ表情なくその場に立っていた。
「意味を理解したようだな…このままここを去りたいところだが、お前だけはこのままにしておくわけにはいかぬ。」
そう言うと抱えていたシュロールを床に放り、拳を握っている手と違う手の剣を握りなおす。
エンジュに剣の先を向け、距離を縮めるためにゆっくりと進む。
この相手に対して、油断はしない…一瞬も目を離さず、周囲に気を配りながらゆっくりと。
・
・
・
放り出されたシュロールは、足に力を入れて立ち上がろうとする。
このままオルトリーブに、領民の命も、エンジュの命も奪わせはしない…ハルディンと誓ったのだ、共に戦うと。
自分にできることはないかもしれない、それでもオルトリーブの足に縋りついてでも止めなくては。
最初にジャサントに蹴り倒された時に、足を痛めたようで立ち上がることがやっとだった。
オルトリーブに向かい歩き出そうとした時、その向こうにいるエンジュと目が合う。
その瞳はシュロールの行動を、拒否していた。
…そんな、このままでは…なにもかも失ってしまう。
自分を護る為に、ハルディンも。
領民の命を盾に、エンジュも。
シュロールは認めることが出来なかった。
なにか…なにかないの?この状況を脱することができる手段は?
「(だめ、それ以上エンジュ様に近づかないで…その人を、その人達を私から奪わないで!)」
時間の猶予がない…シュロールは追い詰められ、鼓動が激しく打つ。
頭の中で色々な思いが巡り、痛みに変わる。
頭の奥が強く軋む。
やがて痛みは頭全体を包み、眼球にまで痛みが広がる。
強い痛みに堪えられずに、顔を覆い、声を殺して喘ぐ。
「(ああ…ああぁ…。)」
痛みは続くが、堪えられる程に留まる。
こんなことをしている暇はないというのに…急いでエンジュを見ると、エンジュはシュロールを見て、驚きの表情をしていた。
あまり感情を出すことのないエンジュの、初めて見る顔だった。
閉じた悲しみが溢れてくるような、それでいて信じたくないといった驚きの表情。
そんなエンジュに向かい、近くまで来ていたオルトリーブは剣を振り上げようとしていた。
…やめて…いや、やめて…。
「…っ、やめてーーーーーーーーーーーーーっ!」
シュロールは、掴めるはずもないオルトリーブを掴もうと手を伸ばしていた。
その掌から、細い矢のような光が飛び出していく。
やがてその光は、オルトリーブの胸を貫く。
エンジュは体を反らし、自分に当たるのを避けていた。
驚きで再び、エンジュがシュロールを見る。
シュロールの灰色の瞳には、血が走ったように真っすぐに赤い縦の線が現れていた。