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目の前で起きていることがスローモーションのように過ぎ、現実味を感じない。
叶うはずもないと思っていた恋心…その想いを伝えた人が今、その身に剣を突き立てられている。
あまりに受け入れがたい事実に、床に崩れ落ちそうになる。
こんな時に、自分はなにをしているのだ…今、立ち上がらなければ、大事な人を失ってしまう。
シュロールは体に力を入れ、立ち上がろうと唇を噛みしめた。
ぴりっとした痛みを感じる。
先程蹴り上げられた時に、どこか切ったようだったが、その痛みがシュロールに現実を教える。
「(まだ、間に合う!)」
ハルディンとジャサントから視線を外すことができない。
シュロールは足元を見ずに踏ん張り、両手でドレスを思い切り引っ張る…刺さっている剣の付近から、布の破れる音が聞こえる。
少しだけ身が軽くなり、立ち上がれると感じたところに頭上から声が聞こえてきた。
「また…私の意思に、逆らおうというのか?」
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シュロールの足元から後ろは、騎士棟につながる通路で、窓のないトンネルのようになっていた。
抜けた先には、緑の木々が風に揺れている。
その背景の中に、人影がたたずんでいた。
「なぜ…貴方が…こんなところに…こんなところにいる人ではないはずです!」
シュロールが叫ぶと、ハルディンとジャサントがこちらに意識を向ける。
「…王太子!お待たせして申し訳ございません。」
ジャサントがハルディンの腕を振りほどこうと暴れるが、ハルディンもそれを防ごうと踏みとどまる。
シュロールは急いで残りのドレスを引っ張ろうと、両手でドレスを強く引く。
キンッ、シャララーーーーキンッ。
聞こえる音に恐怖が浮かぶ…トンネルの薄い闇から出てこようとするオルトリーブは、ゆっくりと鞘から剣を抜いていた。
「お前が自由になったとして、この形勢が変わるとは思えないが…今後、連れて回るのにも大人しくしておいてもらわねばならん。ジャサント…お前の仕事はぬるい、女だからという言い訳は聞かぬ。こういう時は腱を切る、この者は自身で後に治せるからな。」
シュロールは言葉の意味を考える。
オルトリーブにとって、シュロールは修理の効く道具にすぎないのだと悟る…壊れても直せばいい、ただの道具だ。
近づくオルトリーブに、震えが止まらず、声を出す事も動くこともできない。
目に映るだけのオルトリーブは、ゆっくりと剣を持ち上げ、シュロールに狙いを定めるように剣先を向ける。
「や、めろ…やめてくれ。シュロール、逃げろ…逃げてくれ!」
ハルディンは立つ力も残っていないようだった、ジャサントを抱えたまま、膝立ちの状態で体を曲げたままジャサントを離すまいと体重をかける。
祈ることしかできないのか…自分の力で護るつもりが、こんなにも抗うことが出来ない。
もっと自分が注意深く動いていたならば、もっと自分に力があったならば…。
ジャサントの抵抗で、シュロールを見つめる景色が揺れる…頼む、立ち上がってこの場を乗り切ってくれ、そう願うばかりだ。
ト…ト…トト…ド、ドド…。
地面を伝わる地鳴りのような小さな音が、聞こえはじめる。
ハルディンは目から一粒の涙がこぼれた。
「はっ、残念だったな…俺の勝ちだ。」
そうジャサントに向かって、嘲るように告げる。
勝利を確信した、その言い回しにジャサントに血が上る…挑発に乗ってしまったジャサントはハルディンに向かって、声を荒げて叫ぶ。
「お前のその体で、何ができる!床に這いつくばって、護ることもできずに朽ちるがいい!」
そういうと力の限り、ハルディンの腕を振り切るようにもがき、突き飛ばした。
ハルディンはあおむけで、通路に倒れこんだが、おかげで地鳴りが段々と大きくなるさまを聞くことができる。
その地鳴りはまさに、勝利に向けた足音だった。
ドド…ド…ダ…ダダ…ダダダダダダ…。
「シュローーーーーーールーーーーーーー!」
どこからでも聞こえる、雷鳴の様な叫び…エンジュの声が、邸に響き渡る。
「ジャサント!」
オルトリーブがシュロールに突き立てられていた剣を抜き、ジャサントに向かい放り投げる。
「これを連れて引く。この者さえ、手に入れば何度でも立て直せる。」
そう言うとシュロールの腕を引っ張り上げるが、シュロールは抵抗しようと足に力を込める。
そんなシュロールに、刃を当て囁く。
「あいつはあのまま死にゆく運命だが、今ここでとどめを刺してもいいんだが?」
シュロールから力が抜け、オルトリーブに顎を掴まれ、ハルディンの方を見る。
床に倒れこんでいるハルディンは、出血こそ少ないものの、その腹には剣がささったままゆっくりとその赤色を広げているようだった。
「急げ、ジャサント!」
そう言われジャサントは、オルトリーブが投げてよこした床にある自身の剣に手を伸ばした時だった。
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最初に光が走った、眩い光に周囲の音が消え、走る帯状の光に視線を奪われた。
目の前の窓に視線をやるが、普通と変わらない風景が広がる…光は背後から来ているようだった。
そうしていると、後から音がついてくる…それも瞬間的な音ではない、火山の噴火を思わせるような地面が揺れる音が続く。
次に振り返った時には、背後にあるはずの壁が小石のように小さく砕け、振り返ったジャサントに向かい勢いよく飛び込んでくる。
「…なっ、なに?」
とっさに腕で顔と頭を庇ったが、続く轟音は床の石さえも砕き、足元を掬う。
一段も二段も引く抉れた場所に飛ばされる、その場所も石が砕け鋭く尖った先で体や頭を打ち付け血が流れる。
頭を強く打ったようで、視界が朦朧とする。
自分がどのくらい飛ばされたのか、元居た場所へ目をやると、そこには黒い髪の毛を振り乱し、血の気のない死神の様な女が立っていた。