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最近のフェイジョアは煮え切らない、おかしな空気が流れている。
戦争の準備をしているはずだが、具体的にいつ、どこへ向かうという指示はない。
そんな不明瞭な不安に、領民や騎士達は怯えた雰囲気を隠しきれていない。
ハルディンはガルデニアに使われ、騎士達とエンジュの間の連絡を取り持っていた。
一日のうち一度は合間を見て、部屋から出ることを禁じられているシュロールの元を訪れる。
不自由をしているはずだが、彼女の侍女達が色々と工夫をしてくれているようだ。
いつも迎えられるときは、新しい花が飾られ、気持ちを豊かにするようにと、種類の違う紅茶をふるまわれる。
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そんな生活を送っているはずのシュロールが、向かいの通路を侍女と共に歩いている。
ゆっくりと歩いている姿に、自分の目を疑う。
一体どこへ向かっているのだろう…エンジュからもその様な話は聞いていない。
ハルディンにも極秘に行っているのならば、こんな目につく移動はしないはずだ。
「(まさか…部屋に閉じ込められていることに我慢ができなかった?)」
そんなはずはない、誰より自分のことで他人が困るようなことはしないはずだ。
疑問に思い、ハルディンは声をかけた。
「シュロール!何故こんなところにいる…部屋から出るなんて、何かあったの…か?」
声をかけた瞬間にハルディンは、違和感を感じ、その行動が間違っていたことに気がついた。
シュロールは侍女と二人で通路を歩いていた…そうだ、いるはずの護衛の騎士がいない。
騎士は交代の時もそうだが、命令がない限りその場を離れることはない。
その騎士がいないということは、今が非常事態だということだ。
ハルディンの声が合図になったように、侍女はシュロールとの距離を詰め、シュロールが振り向くこともできないまま、倒れるように姿が消える。
一緒にいた騎士にエンジュを呼ぶように伝えると、自身の腰の後ろを確かめる。
エンジュより渡された、鍔のない短剣がベルトに吊るされてある。
迷いなく剣を抜き、体を低く構え廊下を蹴り走り出した。
◇◆◇
「…ちっ。」
声を掛けてきた男は、貴族の様な格好をしていた…自分でこちらに来るとしても、少し時間がかかるだろう。
それならばと、シェスに扮したジャサントはスカートの中に隠していた剣を抜く。
そうして自分の周りをめくり上げるように持ち上げると、襟の高い服を着た男装の女性が姿を現す。
以前オルトリーブが言っていたように、高等な幻術ではない。
外側に纏った外套の表面に、幻術がかけられているだけだった。
ジャサントはシュロールが動けないことを、視線で確認すると近くにあった背の高い花台の上にある花瓶に綺麗に外套をかぶせた。
すると、花瓶は短剣を持ったシェスの姿に変わる。
「…そんな、これでは…。」
シュロールは自身が床に這いつくばっているまま、目の前で起こっていることに目を見張る。
「貴女は…邪魔そうね。」
シュロールを見下ろした視線には、驚きと賞賛が入り交じっていたが、その言葉は冷酷なものであった。
ジャサントの行動を見て、怯えるだけの令嬢であればよかったのに…この貴族令嬢は、これから起こる事態を予測しているようだった。
再びシュロールに近づくとシュロールの顎を目がけて蹴り上げた。
強い衝撃と共にシュロールの視界が揺れる、口の中に血の味が広がるのかわかった。
「ぐっ…ほ、ごほっ、ごほっ。」
昔、父と呼ばれる人に髪の毛を掴まれ、頬を叩かれたことがある。
その時よりもよっぽど強い衝撃に、正常な思考を持つことができない…こうしている時間などないというのに。
目を閉じて、眩暈と痛みをやりすごす。
「シュロール!」
近寄ってくるハルディンの声に、シュロールは意識を集中して目を開く。
視線をあらゆる場所にめぐらせるが、先程までいた男装の女性はいない…花瓶の上にかけられているシェスの姿があるだけだった。
通路の角を曲がり、事態を把握しようとするハルディンの姿が見えた。
ハルディンはシュロールが倒れている事、床に剣が突き立てられていることに心を乱してしまった。
「(まさか…剣で刺されたのか?口元に見えるのは血か…。)」
シェスの姿は見えたが剣を構えたまま、動くことはない。
急いで駆け付け、シュロールを助け起こそうと走りだそうとした時だった。
「…っ、ハ、ルディン様、だめっ!」
シュロールは口内の痛みを堪え、叫ぶ。
同時にハルディンの体に軽い衝撃がぶつかる、後ろから不意を衝く形での衝撃にハルディンは視線を向けると見たこともない女が、ハルディンの体に寄り添うように剣を突き刺していた。
驚きに目を見開くハルディンはその目に、剣を持つ男装の女を映していた。
「…やはり私の力では、致命傷は無理ね。でもこれで、時間は稼げるでしょう。」
行動に対しての分析とばかりに、淡々とジャサントは呟く。
刺さったハルディンの体から血が飛び散り、自身を温かく濡らしていても、動揺するところが見られない。
「お前が…ジャサントか?」
ハルディンは奥歯を噛みしめ、意識を失わないように声を絞り出す。
ジャサントは自分の名前を呼ばれたことに、不快感を覚えたように鼻を鳴らした。
やがてゆっくりとハルディンの体から、剣を抜こうと自身の体を離そうとした時、予想もしてなかったことが起こる。
ハルディンが自分の両手を大きく広げ、とっさに抱え込むように抱き着き、ジャサントが剣を抜くこと、そしてシュロールの元へ行くことを防ぐ。
額には玉のような汗が浮かんでいた。
抱き着くことで間近にある、ジャサントの耳元でハルディンは囁くように声を出す。
「お前の思うようにはさせない…あいつの元へは行かせない。」
うっすらとしか、目を開くことができない…呼吸も浅く、体が焼けるように熱い。
ハルディンは自分の余力が、あまりないことを感じていた。
それでも他の騎士かあいつらが来るまでは、ここをしのぐのは自分しかないと震える腕に力を込めた。