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慌ただしく目の前を時間だけが過ぎていく…ガルデニアが戻ってから、エンジュの邸もその様相を変えていった。
騎士棟の騎士達は、なにやら忙しく準備を進めているようだ。
砦にむかった騎士達も、交代のみを残し、一度こちらに戻ってきている。
フェイジョアに戦争の予感が、朝に見た霧のように漂ってくる。
シュロールは自分の行動が、その引き金になったのではないかと不安になったが…頭を振り、その考えを改めた。
私も皆と一緒に、最後までフェイジョアと共に。
◇◆◇
王都から戻ったガルデニアは翌日の朝、シュロールの部屋を訪ねた。
久しぶりに見るガルデニアは顔に疲れが残っていたが、表情はいつもの漂々としたものであった。
フェイジョアに帰ってからのシュロールを知る者たちは、シュロールが閉じこもったこともあり、みな遠巻きに見ているだけだった。
普段通りに接してくれる、ガルデニアの優しさがありがたかった。
「姫、お忘れ物です。」
ガルデニアはシュロールの手を取ると、掌にそっと小さなものを置く。
それは王宮で落としたと思われる、ガーネットのイヤリングの片方だった。
「ダメですよ、手放しては。姫を護ることができる、大事な物です。」
そう言うと、シュロールの掌ごと優しく握りこむ。
嫌な記憶が蘇るのではと不安に思い、ゆっくりと掌を開く。
小さなたくさんの輝きを閉じ込めた、深い色のガーネットがシュロールの視界に眩く飛び込んできた。
「(…俺の色だ。)」
シュロールを覗き込むハルディンの顔、そして抱きしめられた時に間近に見えるハルディンの髪の色が思い浮かんでくる。
心配は杞憂に終わったが、それと同時にハルディンを思い出し頬を染める。
こうやって時間をかけて、人は癒されていくのかもしれない…シュロールは怯えてばかりではない自分に安堵した。
「これには替えがありません。多分今後も、同じものを作るのは難しいでしょう。片方が砕け散り、装飾品として使うのは難しいかもしれませんが、肌身離さぬように…。」
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これはガルデニアが用意した、シュロールを護る為の対策のひとつだった。
あの時…王宮でシュロールが魔力を発動できたのは、このイヤリングのおかげだった。
小さなガーネットのイヤリングの中に、膨大な空間固定の魔力が詰まっている。
難しい魔力の為、制限があり、一度使うと砕け散る事、持続の時間が一分弱しかないと言う事だった。
更に言うと…これはガルデニアが独断で動いた結果の産物だった。
元々ガルデニアは、シュロールのアイテムボックスに疑問を持っていた。
―― 一国にひとつ、あるかないかの至宝 ――
それを聖女候補とは言え、爵位も継いでいない令嬢に渡せるものだろうか?
ミヨンに詳しく、シネンシス公爵家での出来事を聞き、予感がよぎる。
ガルデニアはフェイジョアで採掘された上級の魔石に変わるガーネットを持ち、アシュリーの元を訪れた。
驚いたことにアシュリーは、ティヨール王国で司教を任されていた。
ガルデニアと対峙し、シュロールの話をすると、アシュリーはゆっくりと微笑み自身の口元へ指を立てた。
そして庭園の散策へと誘われる。
アシュリーは噴水の近くで歩みを止めると、水音で周囲に声が漏れないことを確認する。
「申し訳ありません…彼女の事と、私の能力は、ここでは秘密にしております。彼女はここでの生活を、望んでいないと聞いていますので。」
「それでは…。」
ガルデニアは自身の性質上、聖職者という人物が苦手であった。
しかしこの者は、聖職者として清廉でありながら、他者を庇うために秘密を持てる人物だった。
「私の力は長い時間をかけて蓄積するもので、上限もあります。短期間でどの程度力になれるかわかりませんが、彼女のお役に立てるのであれば。」
アシュリーは丸一日かけて、イヤリングに魔力を込めてくれた。
そしてこの後、数年は自身の魔力を使うことが出来ないのだという。
ガルデニアは言葉を発することが出来なかった…最大級の感謝をアシュリーに向ける。
シュロールの為に、数年の魔力を使ってくれたアシュリーに対し、長い事頭を上げることができなかった。
◇◆◇
「こんな状況の時期に移動してくるなんて、ついてないね…お兄ちゃん!」
屋台でパンに具材をはさんだ軽食を売る中年の女性は、商品を渡しながら旅人のような服装をした男に話しかけた。
大き目の外套を纏っているが、着ている服がエートゥルフォイユの特徴のある襟の高いデザインだ。
「ブローブランでの店舗賃貸の契約が切れたので、新しいところを探しているところ…知り合いにフェイジョアを紹介されたのですが、まさか戦争準備をしているとは思いませんでした。」
眉を下げながら微笑みを浮かべ、商品を受け取る。
ふっくらしたパンに、炒めた肉が挟んである…なんとも食欲をそそる香りが、漂ってくる。
「本当ならこのまま、店舗を探そうと思っていたのですが…とても無理そうですね。どこか宿屋をご存じないですか?」
「うーん、今はエンジュ様がすごく警戒しているようだから宿屋も客は取らないようにしてるんだよ。でも困るよね、お兄ちゃん。いいよ、私が口をきいてあげる。」
この女性は面倒見の良い人なのだろう、同じ商売人で困っているのを見過ごせなかったのだろう。
男は安堵の息を吐き、助かりますと呟いた。
お礼に果物と紅茶をブレンドしたドリンクを追加して、女性に感謝を述べ、教えてもらった宿屋へと向かう。
城下町の中心である広場の屋台から少し北へ向かったところに、宿屋はあるという。
背負った荷物を抱えなおして、しっかりとした足取りで緩やかな坂道を登る。
その坂道の先には小高い山に挟まれるように、領地の最北にエンジュの邸がある。
男は外套のフードがめくれ上がることのないよう、押さえながら邸を見上げる。
「…本当に、貴族というものは自分が護られて当然だと思っている。ここの領主はずいぶん民に慕われているようだが、戦争になればどうせ一番後ろで状況を見守るしかしないんだろう?この邸と同じように…。」
そう呟くと、男はあざけるように口元を持ち上げる。
「ああ、それより早く侵入経路を探さなくては…また悪態をつかれてしまう。」
人使いの荒い雇い主にうんざりしながら、溜息をつく。
でもそれもあと少し…あと少しで私は、望んだ将来が約束される。
男は正面の邸を眺めながら、その景色は目に入っていなかった。
その男、ジャサントの目に入っていたのは、成功した時の自分の姿だけだった。