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心を通わせ、二人を包んだ夜が明ける…一面の景色に霧がこもる、白い朝がやってきた。
ハルディンは一度、自室に戻り、湯を浴びる。
急いで会わねばならない人がいる。
寝ずの強行だったが、シュロールの顔が見れない数日間よりは、よっぽど気力に溢れていた。
手早く身なりを整え、自分の手持ちの中で良い服を着る。
首元を整えたら、大きく息を吐く。
「…よしっ。」
一度、魂を抜かれるほどの経験をした…だからといって、引くわけにはいかない。
俺が欲している令嬢は、俺の知る人物の中で最強の者を越えねば手に入らない。
何があっても、自ら折れるわけにはいかない。
ハルディンは朝早いにも関わらず、足早にエンジュの執務室へ向かった。
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エンジュは自室ではなく、こちらだろうとハルディンは思っていた。
早朝で追い返されることも考えたが、他者の口より耳に入るよりは、自分で報告をしたかった。
順番を間違うわけにはいかない、ひとつひとつが追い払われる理由に結びついてくる。
扉をノックして、返事を待つ。
「…誰だ…たいした用件でないならば、出直せ…。」
エンジュの低い声が聞こえる。
朝だからなのか、タイミングが悪かったのか…その声には、機嫌の悪さが伺える。
いや…そうではない、エンジュは機嫌が良い時の方が少ないのだ。
「ハルディンです。早急にお話したいことがあります。申し訳ありませんが、お付き合い願えませんか?」
はっきりと、そして拒否ができないような頼み方を選んだ。
「…いい話の予感はしないな、入れ。」
ハルディンが入ると、執務室の中は荒れていた。
エンジュは奥の机に腰かけており、こちらを向くこともない。
「…そうですか、決められましたか。」
気配を感じなかったが、開いた扉のすぐ隣にガルデニアが壁にもたれかかるように立っていた。
自身の顎に手を添え、目を細め、眼光鋭くハルディンの奥を覗こうとする。
「がんばりなさい、幸運を祈っておりますよ。」
そういうとハルディンとは入れ替わりに、ガルデニアは執務室を出ていった。
「それで?改まってこの部屋まで来るとは…そして、この時間…私にとっては良い話ではないらしい。」
エンジュは疲れた表情で、乱れた髪の毛を束ねながらハルディンに問いかけた。
気だるげに体の向きを変え、下を向いたまま、目の間を揉む。
エンジュはハルディンの話を、聞きたくはなかった。
予想はしていた、遠くない未来にきっとこうなるであろうとは思っていた。
だができれば、ずっと先に…もう少しだけ、私の手元で温めていたいと思っていたのに。
ハルディンは胸に手を当て、礼を取る。
「シュロールとの婚姻を、認めてほしい。」
飾る言葉もない、真っすぐな物だった。
エンジュはハルディンと視線を合わせようとせず、窓の外を眺めていた。
やがてゆっくりと自身の内側から湧き上がるよう、笑いだした。
「くくっ…ほらみろ、ろくなものじゃない。お前に何ができる?護る力もない、後ろ盾もない。そんな男にやるくらいなら、私の手元に置いておいた方が幸せなはずだ。」
エンジュはハルディンの言葉を考えもせずに、否定した。
馬鹿なことをと、まともに取り合いもしない…ひらひらと掌を振って、退出を促す。
ハルディンもその事を考えなかったわけではない…今のハルディンには、後ろ盾がない。
つまり次期辺境伯を継ぐシュロールと、平民のハルディンとでは釣り合いが取れないということだ。
父親であるプラタナス公爵も、消息を断ち、爵位を返上している。
もし仮にハルディンがまだ公爵子息であったとしても、姪の事になると目の色が変わる辺境女伯には通じないだろう。
それでもこの申出は、短絡的に考えての行動ではない…ずっとシュロールの手をとり、人生を共に歩むには必要なことだ。
ハルディンはエンジュの言葉を受け止め、深く考えた。
「俺とシュロールは、心を通わせております。今すぐにとは申しません。今回の事が終わったあと、暇をいただき、必ず相応しい男となって戻って参ります。その時まで、シュロールの意に沿わない縁談を、受けないでほしいのです。シュロールを待たせることになるのはわかっています。だが、貴女に認めていただけなければ、シュロールは幸せにはなれない!」
それまで、話を取り合う気もなかったエンジュの動きが止まる。
何より大事な家族…幸せになってほしいと、願ってやまない存在…。
エンジュの頭の中に、悲しみを堪えるシュロールの表情が目に浮かぶ。
そうだな…あれは私が否と言えば、それを覆してまで押し通すことはしないだろう。
だがその後の悲しみは幾分か…きっと自分を殺して微笑むのだろうな。
「私が認めねば、幸せにはなれない…か。」
机に頬杖をつき、自分の手首を眺める。
季節的には必要のないものだったが、シュロールとの揃いのブレスレットを外す気にはなれなかった。
ガーネットの小さな粒が、しゃらしゃらと音たてて滑り落ちていく。
ああ…ついこの間、私の事を「エンジュ様」と頬を染めて呼んでいたというのに。
「今は…返事をする気はない。心には留めておこう。」
この時が来れば、もっと自分は感情をむき出しにし、取り乱すだろうと思っていた。
相手を何発か殴ってでも、その資質を見極めるのだとも。
しかし、実際はどうだ…なにもできないのは自分自身だ。
エンジュは感情をださず、表情も崩さない…だがハルディンは、この女性を心の奥深く傷つけてしまったと思う。
その代償は自分がシュロールに相応しく、託しても良いと思える男になることだ。
今の自分に足りないことが多すぎて、悔しさと申し訳なさが入り交じり、見えないところでぐっと拳を握る。
「それで十分です。」
深く礼をして、退出していった。
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私の可愛い姪御殿…いつかはその笑顔は他の男の元へ向く。
しかしだからといって私達が家族な事には変わりない…まだ少し、いましばらくは私の元で、私を慕う姪御殿でいてくれ。
エンジュは窓の外に向かい、小さな声で呟く。
そうだ…私のわがままだ、姪御殿にずっと私の元にいてほしいなどと。
窓ガラスに額をつけ、大きく息を吐く。
自分の願いが、朝に立つ霧に吸い込まれ、誰にも咎められることのないようにと願った。