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王都へ出発する一週間前に、ハルディンはエンジュの執務室へ呼び出されていた。
最近は一日のほとんどを、ガルデニアが立てたスケジュールで体を鍛えていた。
元々貴族として一通り剣の鍛錬は行っていたが、今やっていることは実践を踏まえた訓練だ。
常に姿勢を低く保つため、最初の二、三日は内股の痙攣が治まらないほどだった。
執務室の前に立ち、今一度自分の身なりを振り返る。
汗を拭い、シャツについた埃を払うと、深呼吸をしてドアを叩く。
「ハルディンです。」
「…入れ。」
中へ入ると、エンジュは机から離れることなく迎え入れた。
手招きで呼ばれるので机の前まで進み、後ろに手を組む。
机から顔を上げたエンジュは、複雑そうに目を細め、下瞼に力を入れハルディンを視線で射抜く。
「お前とこうやって話すことになるとは、思っていなかったよ。」
エンジュは机の上に肘を置き手を組み、その上に顎をのせながら不満そうに告げる。
ハルディンもエンジュの考えは理解しているので、そのまま黙って次の言葉を待った。
嫌みを受け流し、静かに立つその姿を見てエンジュは溜息をつきながら視線を臥せた。
「…一週間後、王都へ出立する。私とガルデニアとシュロール、そしてお前を連れていく。シュロールの護衛としてエスコートを頼む。今日からこちらの邸に部屋を移して、貴族らしく振る舞い本番に備えろ。細かいことはガルデニアからうまく言いくるめておくので、周囲の事は気にするな。」
有無を言わさないゆっくりと、それでいて重く厚みのある口調でエンジュは命じた。
ハルディンも頷く。
「それと…。」
そう言うとエンジュは、自身の鍵のついた引き出しから何かを取り出した。
「これを渡しておく、所有者はお前だそうだ。」
「ああ。」
それはだいぶ形が変わってはいるが、あの時の呪いを帯びた剣だった。
受け取り鞘から抜き出すと、清廉な輝きが放たれる、うっすらと透明感のある金属でできた剣だとわかる。
特別な仕様なのだろう、剣先は深く刺さらないようになのか、銀の細工がかぶせられてあった。
「あまり驚かないな?」
「なんとなくだが、そうではないかと思っていた。呪いを解かれた日から、たまに話しかけられることがある。」
不思議なことを言うハルディンに、エンジュは片眉を上げ軽く馬鹿にしたように息を吐く。
「それより、俺も聞きたいことがある。」
剣を鞘に戻しながら、ハルディンは言葉を続ける。
「あんたなら俺が何故、ここに留まっているか位わかっているんだろう?それなのに、こんな役目を俺に与えていいのか?」
今度はハルディンがエンジュに向かい、真意を探るかのように見据えていた。
「…仕方がないだろう、姪御殿の為だ。姪御殿がお前を許したいと言った日から、うすうすはこうなるのではないかと思っていたよ。」
きっと納得はしていないのだろう、死ぬほど嫌そうな顔をしたままエンジュは答えた。
ハルディンは、そうかと口の中で呟いた。
「まだ、なにかあるのだろう?」
エンジュは、ハルディンの考えを読んでいるかのように先を促す。
「あんたの本気が見たい。」
ハルディンははっきりとそう答えた。
「狐顔と剣を合わせた。…あれはなんだ?バトンのようなもので、くるくると躱していく。かといって剣で受けると重さで手が痺れる。下から殴られた時は意識を失ったんだぞ?」
くははっ、とエンジュは心底おかしそうに笑いながら説明を返す。
「あれはメイスだ。対騎士戦ならばグルナードに敵う者はいないが、戦と言う型枠がなければあれは強いぞ?あれの本分は暗躍だからな。」
「メイスってあれがか?あの…斧のように大ぶりで振り回すものではないのか?」
「あれの特別仕様だよ。一度持たせてもらってみろ、重さはとんでもないぞ?」
エンジュが不意に立ち上がる、少しだけその場の空気が変わった。
視線を合わさないまま、俯きがちに問いかける。
その表情は、少し微笑んでいるようにも見える。
「さて、なぜ私の本気が見たい?」
「…あいつを護るためだ。味方として、力量を知りたい。」
エンジュがこちらを見る、グレーの瞳の奥に赤く光る針のようなものが輝いて見える。
「…そうか、だが剣を合わせることはできない。しかし納得できるものを、見せてやろう。」
◇◆◇
「ハルディン様?」
はっとハルディンは我に返った、自室で仕立て屋に確認の返事を促されていた。
「ああ、それでいい。」
ハルディンの返事に満面の笑みを浮かべて、恭しく礼をして仕立て屋が退出する。
昨日エンジュに本気を見せてもらってから、ハルディンは度々意識を持っていかれる。
目を背けることも、息をすることも許されない、そんな経験をしたのは初めてだった。
もしもあれが敵であったならば、逃げ出し、命乞いをするだろうか…いやすべてを諦め、命を差し出すだろう。
ハルディンは悪夢を振り払うように頭を振り、この後の予定に思考を切り替える。
ガルデニアから言われたことを思い出す。
「大丈夫だと思いますが、姫をエスコートする役目の貴方が、踊れないということは…ありませんよねぇ?無様な姿をさらすことも許されません。一度、確認させていただいても?」
頬に手を添え、意地の悪い笑顔を浮かべるガルデニアに否はない。
指定された時間に広間へ向かう。
扉を叩くが、返事がない。
中から声がするのでそっと扉を開けてみると、シュロールとガルデニアが手を組み楽しそうに踊っていた。
ハルディンの鼓動が大きく、どくんと跳ねる。
…俺は、狐顔にすら嫉妬するのか。
想定していた曲の長さが終わったのか、二人は優雅に踊り終わる。
「大変お上手でございますよ、姫。」
「ありがとうございます、ガルデニア様。楽しかったです。」
いつわりのない笑顔をガルデニアに向けるシュロールを、眺め…そして強く目を閉じた。
・
・
・
「二人とも!個々では完璧なのに、なぜそのようにぎこちないのですか?」
ガルデニアの声に、シュロールは涙が浮かびそうになるのを堪える。
相手がハルディンに変わると、シュロールはとたんに動きがぎこちなくなる。
手を組み、体を寄せる、そのこと自体に意識が寄ってしまい踊ることに専念ができない。
「…相手を、変えた方がいいのかもしれませんねぇ。」
そうガルデニアが呟くと、シュロールは慌ててそれを止めようとした。
「すみません、もう一度お願いします。」
今度こそきちんと踊らなくては…恥ずかしい気持ちを抑え、ピアノを構えるガルデニアを横目にハルディンの側に立つ。
手を組み、体を寄せ、大丈夫と心の中で呟くとハルディンが支えていた腰の腕に力が入り抱き寄せられた。
心を決めて踊るはずだったのに、初めから躓き…ガルデニアはピアノを止め、ハルディンだけを呼ぶと部屋を出ていってしまった。
怒らせてしまった、失望させてしまった。
付き合わせているハルディンにも、申し訳ない。
シュロールはどうしても、自分の感情をコントロールすることができなかった。
「…おい、こっちにこい。」
そういうとハルディンはシュロールの手をとり、ソファまで促す。
泣き出したくなる気持ちをどうにか堪え、ハルディンに言われるままソファに腰を落とすと、ハルディンも隣に座る。
「少し…俺に慣れた方がいい。怖いか?」
気を使われているのだろう、優しくハルディンが尋ねてくる。
シュロールは声を出すと泣き出しそうになるので、頭を振ってこたえた。
「そうか。」
そういうとハルディンは、シュロールに体を寄せ、腕をまわしてきた。
さすがに驚き、自分の体を引こうとすると、ハルディンのもう片方の手で体を固定される。
これは…抱きしめられているのではないの?
「あ、あの…。」
シュロールはハルディンの意図がわからずに、困惑した声をだした。
「俺に慣れた方がいい、とは言ったが…これでは無防備すぎだ。」
ハルディンから抱きしめられている手に、力が入る。
どうしていいのかわからない、ただただ自分の鼓動がうるさいほど大きく聞こえる。
わからないまま、しばらく時間がすぎていった。
シュロールは抱きしめられたまま、顔を赤くし、ハルディンの胸に頭を寄せていた。
「(何故私は…このままでいるのかしら。)」
誰でもよいというわけではない、こんな気持ちになるのはただ一人だった。
すとんと何かが、シュロールの中に落ちていった。
今までを振り返る。
王宮で襲われそうになったこと、再会したこと、助けてもらったこと、命を救ってもらったこと、そしていつも側にいてくれたこと。
自覚をすると、簡単な事だった。
「(ハルディン様のことが、好き…)」
再び訪れた恥ずかしさを押し隠すのに、シュロールはハルディンの胸へ顔を押し付ける。
ハルディンの体がびくっと震える。
少し腕が緩むのを感じ、見上げようとするとハルディンの顔がすぐ近くにあった。
頬に手を添えられ、顔を上に向けるとハルディンの顔がかぶさるように頬の上に触れる。
軽い頬擦りをされ、同じ部分にキスをされる。
触れる部分は熱く、一瞬一瞬が燃えるようだ。
はなれる唇を名残惜しく思っているところに、ハルディンの悲しそうな声が聞こえる。
「だから…言ってるだろう、男に軽々しく触れさせるなと。」
言われた言葉が耳に入り、シュロールは頭の芯が冷えていく感覚がした。
どういう風に思われたのだろう、私は…私は…。
気がつくと、シュロールはハルディンを見たまま、大粒の涙を流していた。
ハルディンがシュロールの涙に気がつくと、驚きの表情に変わる。
ああ…また、失望させたのかしら。
シュロールは下を向き、ぼろぼろと涙をこぼす。
「ち、ちがい…ます、そう…じゃ。」
「待て、わかった!」
再びハルディンにきつく抱きしめられる。
シュロールは、この抱擁に抱きしめ返していいかもわからない。
涙もとまらずに、体を反らしていると耳元に囁かれる。
「悪かった、軽々しくではなく…俺を選んでくれたんだろう?」
そう言うとハルディンは、シュロールを抱きしめる手に力を込めた。
今度はどうしていいかわかる…シュロールはそっとハルディンの背中に手をまわし、抱きしめ返した。