59
冬が訪れる前触れのように…突然に現れたカメリアが王都へ去ってかなりの日数が立ち、長い冬が開けようとしていた。
重い空から降り注ぐ冷たい季節の贈り物は、冬の間にその量を増し、白く振り積もっていく。
そんな寒さの中、シュロールは変わらずに湯につかるのだった。
・
・
・
治療を重ね、最後まで呪いと傷が残ったのは、ハルディンだけとなった。
大浴場を使う人数でもない為、アリストロシュの交渉の末、騎士棟にあるグルナードの私室の浴室を借りうける。
グルナードの私室の浴槽は大浴場には到底及ばないが、普通の浴槽よりはかなり大きい。
グルナードの体躯に合わせた特別なものだった。
今回は先にシュロールが入っており、あとからハルディンが入る。
浴槽の中央にカーテンが張られ、シュロールがいる方向とは反対側の柱に、ハルディンの片腕を縄でつなぐ。
「そんなことをしなくても、何もしない。」
ハルディンは不満を口にしたが、安全対策の条件としてエンジュから指示されているため、仕方がない。
入り口にアリストロシュが立ち、その先に片腕を繋がれたハルディン、そしてカーテンで仕切られた奥にシュロールという配置になった。
「…おい。」
カーテンの向こうから、囁く程の声でハルディンの声が聞こえる。
シュロールは浴槽の端で、カーテンの向こう側の音や動きに、顔を赤くし困惑していた。
大浴場と違い、聞こえてくる声も近いので、心臓が激しく鼓動を打つ。
同じ湯につかっているというだけで、湯の波の動きさえもハルディンの動きを連想して、シュロールの胸を激しくかき乱す。
「…えっ?」
しばらくするとカーテンの裏側からすっとハルディンの手が差し出される。
それを見たシュロールは、どうしていいかわからず、更に浴槽の端に体を寄せる。
シュロールがいる場所は、見張りのアリストロシュから見えない位置にある。
「(…どうすればいいの?)」
ハルディンのものである手は、ダンスを誘うかのように差し出され、じっと待っている。
頭の中でぐるぐると考え、ふと先日の自分の言葉を思い出した。
『こんな思わせぶりなことを、そちらの方面で免疫のない令嬢になさるなど、勘違いされても知りませんわよ?』
本当に勘違いしたらどうするのだろう…それとも、もしかして勘違いをさせたいのだろうか?
シュロールはおずおずと、その掌に自分の指が触れるほどの位置までそっと近づけてみた。
気配に気がついたハルディンの手は、そっとシュロールの指先を握りしめ、湯の中へつけた。
なんなのだろうとしばらく待ってみたが、それ以降ずっと握ったままだ。
再びシュロールの鼓動は早くなってきた。
「(手を…繋いでいるの?)」
ハルディンにエスコートされて馬車に乗り、二人で座っているとこんな感じなのだろう。
シュロールは初めて殿方と馬車で二人きりになった初心な令嬢のように、頬に手を当て顔を赤らめたまま俯いていた。
自分ばかりがこんな余裕のない想いをするのは、ずるい…そう思っているとアリストロシュの声が聞こえてきた。
「貴方…なにをそんなに、にやついた顔をしているのです?気持ち悪い。」
「…そんな顔はしていない。」
カーテンの向こうでの、そんなやり取りが耳に入る。
もちろんアリストロシュから見えているのは、シュロールの顔ではない。
もしかしてハルディンも、気持ちが表情に現れているのかもしれないと思うと、シュロールは思わずくすりと笑ってしまう。
ハルディンが湯の中で、シュロールの手を握る力を強めた。
◇◆◇
「正面から動いてきたな。」
エンジュに呼び出され、執務室へ来ていたシュロールは同じく呼ばれていたガルデニアと共にエンジュの話を聞く。
春の訪れとともにこの年一番最初の王宮主催の夜会へ、辺境伯の正式な養子となったシュロールと共に参加をするようにとの手紙が届いたらしい。
「…どう見る?」
手紙を机の上に放り投げ、エンジュはガルデニアに問う。
「んんー…そうですね、行かないという選択肢もありますが…その場合こちらを攻める材料を、敵に渡してしまう事になります。」
小さな溜息をつき、ガルデニアは顎に手を添え考えをまとめつつエンジュの問いに答える。
「幸い春までには、少し猶予があります。こちらの準備を整え、打って出るのも良いかと…その場合はあくまで、偵察を目的とすることを提案します。今回で決着をつけるには情報が足りなすぎますからね。」
考え込むガルデニアをエンジュは細かく観察していた。
こうして考え込んでいる間にも、ガルデニアの中では色々なことに対してのシナリオが組みあがっていく。
エンジュにはガルデニアに任せるのが最適であるという、確信があった。
「そっちの方面はまかせるが、数点条件がある。」
珍しくガルデニアの考えに条件をつけてきたエンジュを、ガルデニアは思考を辞めて視線を向ける。
その顔には、自分に対しての侮辱として受け取ったとみられる嫌悪感が浮かんでいる。
「…シュロールのことだ。」
ガルデニアの自分に対する態度にうんざりした溜息をつきながら、エンジュは答える。
名前が出たことに、シュロールはびくりとする。
自分がなにか、問題となるのだろうかと息を飲み続く答えを待つ。
「ああ、そうですね。貴女ならば、そうなのでしょう。」
ガルデニアは考えが自分だけ進んでいることに、気がつかず独り言のようにつぶやく。
ぶつぶつと口の中で言葉を並べると、時間が止まったかのように動かなくなる。
ただ床を眺め一点を見つめている目は、見開き、力を帯びている。
「三点です、三点お約束いたしましょう。ではさっそく失礼します。」
そう言うとガルデニアはエンジュの返事も待たずに、執務室を出ていってしまった。
真剣に話を聞いていたシュロールはあっけにとられ、ぽかんとした表情でガルデニアが出ていった扉を見つめる。
今のやり取りで、何を話していたのかさっぱりわからない。
くっくっくっ、と笑う声がして振り返ると困ったような顔をしたエンジュが堪えられずに笑いを漏らしていた。
「すまないな、あれは自分の思考を遮られたり否定されたりするのを嫌うのでな。大体を説明してやろう。」
エンジュが説明してくれたことによると、王宮の誘いにのり偵察を目的とした夜会へ、出席する事が決定したというとだった。
ガルデニアに対して付けた条件は、シュロールの身の安全。
そしてガルデニアは夜会へ出席する準備と並行して、シュロールの身の安全の為に三点対策を準備してくれるということだった。
「あれはね…三点といったが、実際にはそれ以上の物を用意するよ?」
ガルデニアの言う三点とは、エンジュへ明かすものが三点ということ。
実際はそれ以上複数の対策を準備をしていて、使うことがなければネタばらしもしない…そう言うことらしい。
スケールの大きな話に、シュロールは息を飲むばかりだった。
ようやく話が分かり、大きく息を吐く。
「これから春までに、できうることをやる。シュロールも忙しくなるぞ?」
シュロールはエンジュの言葉に、気を引き締めた。
王宮からの誘いは、王太子からでた『傾国の毒婦』の捕獲につながっている。
自分を捕えるためにどんな手段をつかってくるかわからない相手に、自分から飛び込んでいくのだ。
何を考えているかわからない王太子の、あの憎しみを向けた視線を思い出し、震える自分自身を力を込めて抱きしめた。