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サンルームでのイビスとのやり取りの後から、シュロールは自分がなにを話したかあまり覚えてはいなかった。
何かを伝えようと焦れば焦るほど、頭の芯が真っ白になり、考えがまとまらず、緊張で指先が冷たくなる。
視線もどこを見ていいかわからない、ただただ…イビスが自分を見ていなければいいと思っていた。
午後も邸を案内する約束をしていたので、図書室へ移動してきた。
本来なら自室の本棚を披露するつもりだったが、先程のイビスの言葉が頭をよぎり躊躇われる。
イビスが嫌いなわけではない、幼い頃の思い出の中にある、大事な人だ。
お互いが向けている感情が違うというだけで、こんなにも自分がわからなくなるものなのかとシュロールは下唇を噛みしめていた。
イビスが与えてくれるであろう愛情に、応えることを考えてみた。
優しいイビスの事だ、きっとシュロールを大事にしてくれるだろう。
シュロールが願えば、フェイジョアへ残ることも考えてくれるかもしれない。
きっとイビスのことを大事に思うこともできるはずだ…毎日邸で帰りを待ち、笑顔で迎え、暖かい家庭を作る。
だが…イビスに同じ種類の愛情を、返せるだろうか。
シュロールは瞼を閉じ、頭を振る。
胸が痛い、喉の奥が熱く、目にうっすらと涙が浮かぶ。
自分を偽ることがこんなにも難しく、苦しいものだなんて。
どうしてもイビスに同じ感情を向けることができない苦しさで、シュロールはまた思考の鎖に縛られる。
図書室へ着いたシュロールは、誰か一緒に話ができる者がいることを祈った。
しかし今日に限って、利用する者はいないようだ。
興味がありそうな本や、魔力や研究に関連のありそうな本を話題に挙げ、時間が過ぎるのを待つ。
イビスと視線が合いそうになると、それとなく逸らし、関心を他所へと移す。
シュロールは不自然なほどぎこちない様子で、夕食までの間をイビスと過ごしていた。
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夕食の後、イビスは昨日と同じようシュロールを部屋まで送り届けてくれると申し出た。
部屋の前まで来ると、お礼を言うシュロールに対しイビスはじっと見つめていた。
どうして良いかわからず、沈黙が流れる。
「シュロール嬢。私は貴女の事を大事に思っている。私との縁談で貴女を護ることができるのであれば、それもいいと思っていた。でも貴女は…私との縁談に、戸惑いを感じているのではないのだろうか?もしも心当たりがあるのであれば、その気持ちを大事にした方がいい。」
シュロールは言われた言葉に驚き、イビスを見上げる。
イビスは柔らかく目を細め、シュロールを見下ろしていた。
シュロールに「その気持ち」の心当たりがあるのかと言えば、正直わからない。
しかし戸惑いを感じ取り、シュロールを尊重してくれるイビスに胸に閊えた何かが、すっと降りていく気がした。
「私は変わらず、貴女を大事に思っているよ。私を兄の様に慕ってくれる貴女を。」
そう言うとイビスは、シュロールを引き寄せ、頭にキスを落とした。
◇◆◇
「改めまして、フェイジョア辺境女伯。この度は私の申し入れを受け入れていただき、感謝を述べさせていただきたい。」
オルムはエンジュの執務室で向き合いながら、話し合いの場を設けてもらっていた。
「なに…気が付けば、お出でいただいていたというだけのことだが。」
エンジュが言葉を隠さずに答える。
けっして歓迎しての受け入れではないことを、エンジュらしく表現していた。
「誠にお言葉通りで、申し開きもありません。」
オルムは緩んだ笑みを浮かべ、話を続ける。
「…私はこの通り人生の大半を学問に費やし、他の者に比べ言葉がうまい方ではない。本心を隠し物事を探ると言うことができず、貴族らしくないと理解している。」
その前置きを聞く間、エンジュは腕を組み眉毛を寄せ、相手を睨みつけている。
相手の意図がわからない以上、エンジュにとっては外敵でしかない。
やがてオルムは意を決した様子で、両膝に掌をつき力強く握るとエンジュに視線を合わせる。
「シュロール嬢は、ここで…幸せに暮らしていますか?」
その力強い視線と、言葉の内容にエンジュは相手を計りかねていた。
なにが言いたいのかと、そのまま無言で言葉の先を促す。
「いや…そうじゃない。あの孤立した令嬢を救ったのは貴女だ、幸せでないはずがない。だからこそ私はここに来たのだ。王都で広がる悪意から、あの娘を護るために。」
そういうとオルムは自身の膝を握りしめたまま、ぽろりと一粒涙をこぼした。
本当に腹芸というものができない人物らしい。
エンジュは少しだけ警戒を解き、オルムという人物の話を聞くことにした。
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現在の王都は陛下が退位し、行方は誰も知らないのだという。
それでも王政を保っていられるのは、王太子が戴冠する予定であることと、王妃がそれを支える為に王都に残り、権威をふるっているからこそだった。
その王太子に最近、元々の側近とは別にもう一人、出自のわからない者が側にいるという事。
王太子とブロンシュとの縁談が、近々解消されるであろうという事。
王太子と公爵家を賜っている残り三家の間で、なにかがあったであろう事。
そして侯爵位にある者へ、秘密裏に出された『傾国の毒婦』の捕獲の密命。
オルムは今の時点で、自分に知りえることをエンジュへ話した。
「あの娘は昔から家族からの愛情というものに焦がれていた。懐いてくれていることがわかっているのに、私には爵位の高いシネンシス家に太刀打ちできる力もなく…。今が幸せであるのなら、今度こそ護ってやりたい。私と息子が家内の死から立ち直る、手助けをしてくれたのだから。」
ラヴァンド侯爵家の奥方は、突然の流行り病で、あまりにも突然に、あっけなく亡くなった。
それまで一日のほとんどを研究に費やしていた二人は、大きな喪失感に生きていくことを放棄したかのようだった。
悲しみに覆われたラヴァンド家には、時間が必要だと思われた。
誰もが見守ることしが出来ず、立ち上がり方を忘れてしまった二人に、幼かったシュロールは寄り添った。
「私もお母様を亡くしているの。お母様は私にまだ、悲しんでいて欲しかったのかもしれないわ。だとしたら私はダメね、悲しみが足りないのね。小父様やイビス様のようにもっともっと悲しまないと…お母様は満足してくれないかもしれない。」
オムルもイビスも、そうではないということはわかっていた。
二人はそっとシュロールを抱きしめ、シュロールも二人を抱きしめた。
◇◆◇
騎士棟でも、王都からの客人の噂で溢れかえっていた。
「聞いたか?お嬢様に、縁談が来てるそうだ。」
「なんでも直々に引き合わせようと、この邸にきているらしいぞ。」
「元々顔見知りだったらしい、仲睦まじくエスコートされている様子を見た者がいる。」
そんな囁きたちがハルディンの耳にも入り、そっと目を閉じ、会話を反芻する。
とうとうこの時が来た。
今までが恵まれていたのだ、本来なら二度と会うことすらかなわない相手なのだから。
償いたいと、側にあり続けたが…このまま、あいつの幸せを近くで見続けることが俺にできるのだろうか?
この気持ちが報われるとは思っていない、今の自分には何もないのだから。