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大浴場の湯気が立ち籠る中、その場にいた者は皆、身動きがとれずにいた。
フェイジョア領のお姫様と呼ばれる令嬢、自分たちを救ってくださった方が…まさに今、あのカーテンの向こうで湯につかっているのだ。
想像するのも不謹慎であると、人の視線を避け湯面を睨みつけるが、あちらの動向が気になってしょうがない。
…ぴちゃん、ざぶ…ざぶ…
急におとなしくなった騎士達を見て、アリストロシュは更に落ち込んだ。
さっきまでの元気の良さはなんだったんだ…本当に騎士と言う生き物は、と呆れていた。
そわそわと視線は避けているものの、耳は全力でカーテンの向こうへ傾いている。
音が聞こえなくなって、動きが止まったのがわかる。
ざばざばざばざば、どぷん…ざばーっ…。
「えっ…。」
耳を澄まし、聞き入っていた者皆がその令嬢らしからぬ水音に耳を疑った。
なにか不審な事が起きているのだろうか?
そしておそるおそるカーテンの方へ視線をやると、ハルディン横の湯面が大きく揺れていた。
ざっばーーーーーーーっ。
「…ぶっはーーっ!」
湯船の中から浮かび上がり頭を出したのは、ヴィンセントだった。
髪の毛を後ろに撫でつけながら、辺りを見回している。
「ブッドレア…。」
「ヴィンセントさん、なんで?」
騎士達が皆、訳が分からないと言った様相で、ヴィンセントに詰め寄っている間に、カーテンの向こうでシュロールは湯につかっていた。
…ちゃぷん…。
ゆっくりと音を立てないようにカーテンが隔ててある場所近くまで、湯の中を進んで行く。
ある程度まで行くと、シュロールは足を止めた。
湯面が緩やかな波のように揺れている、シュロールは両手を胸の前に組み祈った。
「お願い。」
祈りと共にシュロールの周囲から、絵の具を落としたように白く魔力が広がっていく。
その魔力はカーテンの向こうまで進んでいった。
「いや、エンジュ様の指示だったんだよ。けっしてお嬢様と一緒につかっていたわけじゃない。」
そういうとヴィンセントは、胸をそらし両手を挙げ、自身の無罪を主張した。
エンジュの指示となれば、騎士達に反論はない。
恨めしそうにヴィンセントを睨む騎士達を横目に、ヴィンセントはアリストロシュの近くまで移動しヘリに腕をかけリラックスした格好をした。
最初からエンジュの指示を知っていたアリストロシュは、ヴィンセントにタオルを渡す。
「皆さんすでにお気づきだと思いますが、すでにシュロール様は湯に入られ魔力を発動されておいでです。傷を負っている部分をきちんと湯につけ、経過を観察してください。なにかあれば私に申し出るように。」
アリストロシュは両手をぱんぱんと叩きながら、湯につかる騎士達に告げる。
ヴィンセントは隣で懸命にその場を仕切ろうとしているアリストロシュを見て、溜息をついた。
まるで学校の先生のようだ、気苦労が絶えないのだろうなと心中を察していた。
湯面が白くなったことに気が付いた騎士達は、言われた通りに傷を湯に浸す。
やはりゆっくりとであるが、肉が盛り上がり回復しているかのように見える。
ただ呪いのように傷の周りについている焦げ付きは、消滅せずに傷の周囲を縁取っている。
回復がゆっくりな為、そろそろ騎士達に余裕が出てきたのか、たわいもない会話が始まる。
最近あった出来事や、仕事の話、中にはこのところ全然ついてないと愚痴をこぼすものもいた。
「あーあ、普通に仕事しててもいい事もないし…こんなことなら傷が治らずに、定期的にお嬢様と風呂をご一緒出来た方がありがたいや。」
「いやそれは不謹慎だが…そうだな、なんかそうなると羨ましいな。」
それまで黙っていたハルディンが目を見開いた。
その様子に騎士達はまた、ハルディンをからかってくる。
「妬くなよ、ちょっとお嬢様のお姿が拝見できればなんて…思ってないからさ。」
「そうだぞー、今から旦那を気取って束縛すると…お嬢様に嫌われるぞー。」
「なにを、勝手なことを!」
シュロールもカーテンを隔てて聞いているというのに、なんてことを言うのだとハルディンが立ち上がった時、それ以上に怒っているミヨンがカーテンの向こうから飛び出しアリストロシュの隣に仁王立ちで立ちふさがった。
湯船につかっている騎士達はミヨンを見て、焦りながら湯の中に身を隠した。
「お嬢様に対して、お嬢様に対して…なんと言う不謹慎な!貴方達は自分の傷を癒すという使命があるのでしょう!ならば有難くお嬢様の『聖女の煮汁』の恩恵を受けその身を癒すことに専念するべきです!」
「煮汁?」
「おい今、『聖女の煮汁』って言ったか?」
「まじか、これ…お嬢様を煮だして出てるのかぁ?」
シュロールは一気に頭に血が上った。
よりにもよってなぜ今、この能力を発動している時にそれを言うのだ。
二度と口にしてはいけないと、あれほど言い聞かせていたのに。
頭の中は真っ白だ…顔を赤くしてシュロールはぷるぷると震えていた。
「いいですか、このお嬢様の『聖女の煮汁』は…お嬢様が数年をかけて…えっ、お嬢様?お嬢様!」
ミヨンが驚いたように、慌てふためいてカーテンの方に駆け寄るが…数歩遅かった。
我を忘れたシュロールは湯船より飛び出し、ミヨンの口を塞ぎに来ていたのだった。
「ミヨン…貴女、私との約束を忘れたの?」
深い深い地の底から浮かび上がるような、声色でシュロールはミヨンに問う。
片手でミヨンの口を塞ぎ、約束を破られた怒りでシュロールは周りが見えていなかった。
「おいっ!」
怒鳴るようなハルディンの声に、やっと今の状況が飲み込めてきた。
タオルを持ちアリストロシュとヴィンセントが駆け寄ってくる。
湯船に入っている騎士達は、視線を反らす者、呆然と眺める者と様々だった。
ハルディンも慌てて湯船から上がり、騎士の視線を遮ろうとする。
シュロールは入浴着を纏っていた。
素材も透けない物に替え、衣服が湯に浮かばない工夫も凝らしている。
ただ湯につかったあとは、水分から体にぴったりと張り付くのだ。
自身の体のシルエットを大勢の前に披露してしまったシュロールは、顔が赤くなり涙が溢れてくる。
胸の前の布を掻き抱き、隠すように自分を抱きしめる。
ようやく意識が自分に集中すると、シュロールは大きく息を吸い込んだ。
「きゃーーーーーーーーーーーーーーっ!」
アリストロシュは今度こそ、死を覚悟した。
このことがエンジュの耳に入ったら、自分は跡形もなく消されるだろう。
願わくば一思いにやってほしいなどと、最後をどのように終えるかを考えていた。
ハルディンは、顔に翳りを落としながら振り返る。
怒りを隠したつもりの笑顔は、恐怖さえ感じた。
「今…見たやつはどいつだ?目を一度潰してみよう。大丈夫だ…傷は湯につかれば治る。ただ二度と思い出したくないと、思ってくれればそれでいい。」
「いや、お前…本気で言ってるだろう。」
ハルディンは片っ端から、騎士達を湯船に抑え込んでいった。
シュロールはすでにカーテンの向こう側へ隠れてしまい、本日の傷の回復は自然と終了となった。