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扉をくぐるとすぐに全身を熱気が襲い、吸い込む空気も熱く湿っている。
湯気に視界が遮られ、慣れるまでその場で立ち尽くしていると、やがて霧が開けるようにゆっくりとその輪郭が現れてくる。
グラニット石材を使った石造りの大浴場は、全体的に白く統一され清潔に保たれていた。
温泉の独特な臭いは、聞いていた通りにかなり抑えられていた。
代わりにサボンの良い香りが、漂ってくる。
シュロールの知っている温泉と違うのは、温泉と言うより大浴場に近いという事と、浴室の中に柱が立っており布が張られ、石造りのカウチや椅子、テーブルなど、くつろげる空間が併設されているということだった。
地面を掘り下げた造りなので、シュロールはドレスの裾に気を付けながら、湯船にそっと手を近づける。
指先が湯に触れた瞬間に、体の表面から何かが伝わっていくのがわかる。
それは幼い頃から定期的に、神官のアシュリー様より施された魔力測定によく似ていた。
少し何かを感じ取れたシュロールは立ち上がり、ブレスレットに加工してあるアイテムボックスのオニキスの部分に触れる。
百合の紋様をほどこしたチェーンの部分が、しゃらしゃらと音を立てる。
そこでふと思ったことを口にする。
「これに直接お湯を入れたら…出す時は、どうやってでるのかしら?」
ヴィンセントとミヨンも顔を見合わせ、不思議な表情をしていた。
「そもそも『温泉のお湯を入れる』と念じて、どの位の量がはいるのかしら?まさか、この中身全部なんてことは…ないわよね?」
シュロールは想像して、自分の考えが足りなかったことに、呆れてしまった。
もしわからないまま大浴場の温泉のお湯を、すべてアイテムボックスへ入れてしまったら、出す時にはどうなるのだろう。
一気に入るとしたら……一気に、でるわよね?
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「他の物で試してみればいいんじゃないか?」
外で作業をしていたハルディンが、見かねて口を出してきた。
元々次期宰相と囁かれていた程の頭の良さだ、今までのやり取りや会話を聞き、なんとなく事情を把握したのだろう。
話が進まないことに溜息をつき、背を向けたと思うとすたすたすたと近寄り、シュロールに近いテーブルに手桶を2つと水差しを置く。
「これに湯を少量汲み、入れる。そして出す時にどういった位置で出すのか、どの位の勢いで出るのかを観察するといい。」
シュロールは少し驚いていた。
以前あんなに力でねじ伏せようとしていたハルディンが、今はシュロールの手助けをしている。
何かが…彼の中で変わったのかもしれない。
まだ怖い気持ちは少しある、でも今はヴィンセントやミヨンもいる。
シュロールは花が綻ぶような笑顔をみせ、ハルディンに礼を言う。
「ありがとう!手掛かりはあるのだけどどうしていいか、困っていたの。今の様な意見を言ってもらえると助かるのだけれど…。」
伺うようにハルディンを覗くと、シュロールを見下ろしていたハルディンは少し顔を赤くしながらそっぽを向き「ああ」と答えた。
ハルディンは自分の意見に同意がもらえたものと認識して、浴槽に近づき水差しに適量の温泉の湯を汲んできた。
片方の手桶に、少量の湯を注ぐ。
ヴィンセントとミヨンも見守る中、シュロールはその手桶を覗き込み、そっと手をつける。
手桶の中のお湯を、すべてアイテムボックスに納めた。
瞬時にお湯は、アイテムボックスへ収まった。
次はもう一方の手桶へ、移してみる。
手桶の上部へ手をかざし、お湯が出るように念じてみると、そのまま手桶の上部にお湯の塊が出現し、手桶の中へ落ちていった。
反動でお湯が辺りに飛び散る。
「湯量の調整と、出し方か…。」
ハルディンはそういうと、ミヨンへタオルを投げつけシュロールにかかったお湯を拭き取るように指示する。
自身はそのままもう一度、水差しを持ち湯を汲みに行く。
「今度は手桶の中の湯を、半分だけアイテムボックスの中に入れて見ろ。」
「……おい、ブレシュール。お嬢様に向かってその言い方はないだろ。」
シュロールへ指示を出していたハルディンの腕を掴み、ヴィンセントが堪りかねた様子で口を挟んでくる。
気持ちを抑えているのがわかるかのように、低く唸るような口調だ。
「口は悪いが仕事はしっかりとする奴だと、少しは認めていたのに。なのに、お嬢様に対する態度は何なんだ。改める気がないのなら、このままこの場にいることを許すわけにはいかない。」
ハルディンを睨みつける、ヴィンセントは腕をつかむ手に力を入れ、譲る気は全くないように見えた。
その様子を見て、ハルディンは呆れたような溜息をつく。
もう全てがどうでもいいと、その目は諦めているようだった。
「待って!」
ヴィンセントは、ハルディンが公爵家の子息であると知らないのだ。
ハルディンも、それを自分から公表する気も、主張する気もない。
そのうえで、ブレシュールと名乗っているのだ。
きっとこのままだと、ハルディンはシュロールの手伝いを辞めて自分の作業へ戻ってしまう。
今のシュロールには積極的に意見を出してくれる、ハルディンが必要だった。
「ブレシュールは…私が王都にいた時の共同研究者なの。なぜフェイジョアでこの仕事をしているのかは知らないのだけど…もともと、こういう人なのよ。」
そう言うとシュロールは、固く目を閉じた。
自分が嘘をついていることの後ろめたさと、その行為をハルディンに否定されはしないかという不安でいっぱいだった。
まだハルディンを完全に信頼しているわけではない、ヴィンセントに嘘をつくことで自分の首を絞めることになるかもしれない。
「なんだよ…そういうことか、お前も早く言えよ。エンジュ様からはお前の素性は探るなって言われてるから、てっきりお嬢様に恨みのあるやつかと思ったじゃないか。」
ヴィンセントは少し硬い表情のまま、ハルディンの腕を離した。
ハルディンは何か言いたげな表情で、シュロールを見つめている。
やがて諦めたような溜息をつき、口を開く。
「ああ、悪かった…昔のクセでつい、な。」
ハルディンは、視線を逸らしながら答える。
そこでやっと、ヴィンセントにも安堵の笑みがこぼれる。
「ああ、しょうがないよな。でももう昔の様にはいかないなら…。」
「いいの、私がその方がいいの!」
「まあ、お嬢様がそういうのであれば…。」
本来のヴィンセントの人懐っこい笑顔が出てきたことに、シュロールも安心して息を吐いた。
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その後何度か試してみた結果、アイテムボックスは的確な量を考えながら入れるとその量だけを吸収し、取り出す時も同じ要領で取り出す。
取り出す時は、出したいところに掌をつきながら取り出すと飛び出すことはないということ。
そして取り出す時に、水道や噴水など水が出ているところを思い浮かべながら取り出すと、その速度と同じ程度で取り出せるというものだった。
夢中でアイテムボックスの使い方を練習していたので、シュロールは湯気で顔を赤くしていた。
身に着けているドレスも、水分を含んで重さを感じる。
このまま長い時間ここにいることはできないのもあり、シュロールは本来の目的の温泉のお湯をアイテムボックスへ取り入れることにした。
再び浴槽へ近づき、ドレスの裾に気を付けながら、湯船にそっと手を近づける
アイテムボックスであるブレスレットがギリギリ湯船へつかるくらいの深さまで手を入れると、シュロールは念じた。
「(手桶10杯分の温泉のお湯を、アイテムボックスの中へ)」
湯の表面が少しだけ渦を巻き、波を起こした。
なんとか思うように、取り入れることに成功したように見えた。
ガルデニアの計らいで、大浴場を貸し切りにしてはもらったが、そろそろ時間も限界ではないかと思った。
シュロールはここを辞する前に、ハルディンへお礼を言おうと振り返るとハルディンもこちらを見つめていた。
「あの、貴方のおかげで…なんとかなりそうなの。ありがとう。」
「…なるべく、ここには来ない方がいい。」
ハルディンはシュロールの予想とは違う返しをしてきた。
「そ、それは難しいわ。これからもここのお湯にはお世話になるかもしれないし…それにできれば、貴方にも意見も聞きたいのだけれども。」
ハルディンは今度こそ、シュロールとは視線を合わさなくなっていた。
「それは、あの女や狐顔の男が許さないだろう。…ここに来るのであれば、俺はなるべく席を外すようにしよう。それと今後俺の事は、ブレシュールと呼ぶようにしてくれ。」
それだけ言うとハルディンはシュロールの返事を待たずに、ヴィンセントに向かい声を上げる。
「片付けはいい…時間があまりない。準備をしないといけないから、早めに出て行ってくれ。」
そう告げると、作業を続けるために脱衣所へ戻っていった。
大浴場を出るまでの間、何度もシュロールはハルディンを見たが、ハルディンがこちらを見ることは一度もなかった。