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あれからシュロールなりに、自身の在り方について考えている…答えは、まだでていない。
ただ何もせず、日々を過ごすつもりはない。
辺境伯という重責の手助けができるよう、周辺の貴族や隣国の知識、そしてフェイジョア領の知識と学ぶべきことはたくさんある。
エンジュは思った以上に忙しく、日々の仕事をこなしているようだった。
シュロールを王都へ迎えに行ったことだけでも、相当に無理をして時間を作ったようだったが、帰りの馬車の仮眠も、フェイジョアへ着いてしばらくは仕事漬けになることを覚悟しての計画だった。
シュロールにできることは、少ない…それでも、何か役に立てるように学ぼうと思う。
◇◆◇
「…ただいま、戻りました。」
その日の夜分に黒いマントを全身にまとった男が、エンジュの元へ訪れた。
自身の埃を払い、マントを脱ぐと痩身で姿勢の良い男が現れた。
一見…女性に見間違いそうな、その男はガルデニア=ネニュファール。
エンジュのもう一人の側近である。
プラチナブロンドにゴールドの瞳を持つ狐のような男は、その体にぴったりとした、袖口だけがやたらと広い服を着ていた。
「お前が王都へ行って約一か月か…意外に早かったな。踏みとどまることすら、できなかったか?」
「んんー、そうですね。存外あっさりと落ちていきましたね。」
エンジュは話を聞くために、ストールを羽織りソファへ移動する。
それに続いてガルデニアも、身に着けていたマントを、側にあった椅子に放り投げ腕を組み、考える仕草をしながら答えている。
しかしその顔は、口元がにんまりと笑っているように見える。
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今回のガルデニアの目的は、シネンシス公爵家の誘導だった。
シュロールが王都を去る少し前に王都に潜伏し、シネンシス公爵家の内情と金銭の流動を探る。
資産・拠点・融資先など様々な情報を入手し、シネンシス公爵家と取引のある貴族や商家と情報を共有していく。
最終的にシュロールとエンジュが王都を去った後に、緩やかに落ちて行けるように。
この度の事で、ジェローム=シネンシスは公爵から伯爵位まで爵位を落とすことになった。
伯爵でも十分に高位な貴族ではあったが、周囲の反応はそうではなかった。
爵位を落とすほどのことを仕出かしたジェロームを、貴族社会は冷遇した。
今まで商会で協力関係にあった者や、領地での取引をしていた者たちはその交流を辞退してきた。
また去り際にシュロールが言っていたように、研究の権利関係が一切使えなくなったことによって、商売は滞った。
順調に売り上げを伸ばしていたこともあり、範囲を拡大しようと借金をしたばかりだった。
商売人たちの連携は素早い、その日のうちにすべての取引を断られ返済を待ってもらう形になってしまう。
そうしているうちに、翌日には資金を援助してもらっているモヴェゼルブ侯爵とラシーヌ伯爵、スプルース商会の会頭が邸に訪れ、返済を迫ってきた。
今までは公爵として、自分より身分が下の者に対して少々無理なことも言ったが、伯爵になった今…自分より、身分が上になってしまったモヴェゼルブ侯爵に抵抗できるはずがない。
膨大な額の返済を一気に迫られたジェロームは、眼窩はくぼみ、顔色は青黒く…貴族として見る影もなかった。
そして数日の猶予をもらい、爵位を売り、邸を売り、売れるものをすべて売り払ったジェロームは…返済を無視してひとり、忽然と姿を消し、逃げ出してしまった。
どこに逃げても借金取りに命を狙われるジェローム…心の安寧を求めた先は、高級さで有名な娼館だった。
大金を盾に立てこもり、恐怖を忘れるために一日中女たちに溺れていく。
お金があるうちは、それでも持ち上げられ、華やかにもてなされていた。
やがて、時間をかけ薬を盛られ、大金を奪われ、前後不覚なまま大雨の降る夜、王都の外れにある辻馬車乗り場に打ち捨てられた。
内臓がぼろぼろになり、命の灯がつきようとしている男の側に、ガルデニアは歩み寄る。
その男の最後が、どんなものであるのかを確かめるために。
「…オル、タンシア…私を、私を…助けてくれ……。」
男の見る妄想が、心優しいオルタンシアであることに、ガルデニアは下瞼に力を入れ、目を細めて嫌悪を表す。
「オルタンシア様がお前を迎え入れることはない。死してなお、お前を恨む亡者に追われるがいい。」
その言葉が耳に届いたかどうかわからぬまま、水溜りに顔を半分埋め、男は息をしなくなった。
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膨大な借金を負い、貴族としての爵位と邸もなくしたクロエは、すでに他人の物となった邸の床に座り込み、呆然としていた。
父親が自分を捨て、お金を持って逃げてしまったことが信じられない。
あがいてもあがいても、クロエ一人で返せる額ではない。
幸いなことに、短期間でお金に換えることが出来ない物は、売られずに残っていた。
そのすべてをお金に換え、返済に充てる。
それでもなお、多額の借金の返済にクロエは決断を迫られる。
「…私…身を、売るしかないの?」
呟きは、目の前で霧散する。
豪華なドレスを纏い、愛らしさを振りまいていた公爵令嬢は、もういない。
床に手を突き、拳を握る。
全身を黒いマントで覆う男、ガルデニアが姿を現した。
クロエの目に映るその男は、死神にも見える。
「貴女に…選択となりうる、一つの提案を持ってまいりました。」
そう丁寧に告げると、クロエは歪んだ笑顔を浮かべ問いかける。
「私に選べる道があるというの?…夢物語なら、信じないわ!」
そう叫び、手身近にある割れたティーカップを投げてよこす。
男は軽くかわすと、悪い話ではないと言う。
あるとても好色の侯爵位にある貴族が、20人目の愛人にクロエをお望みであるという。
これを受けるのであれば、多額の借金の返済を肩代わりしても良い。
現在、愛人の契約を交わしている方は、皆貴族の未亡人や令嬢であり、その待遇は保証する。
ただし貴女には現在、後ろ盾がない…愛人同士のいじめにあうことは間違いないだろう。
「なによ、そんなの政略結婚と変わりないじゃない。」
そう言うと、クロエは力を込めて立ち上がりガルデニアを睨みつけた。
「貴方の話に、乗ってあげるわ。20人目の愛人?愛人同士のいじめ?それが何よ…今よりひどいことなんてないわ!」
案内しなさい、とクロエは言う。
「その前に。後ろ盾の件に関して、貴女の姉や辺境伯にお願いすることができるのでは?」
「…お姉様やあの女に、頼むつもりはないわ。」
ほう、とガルデニアは目を細め感嘆の息をもらす。
エンジュやシュロールに縋るそぶりを少しでも見せたら、ガルデニアはここでクロエを捨てるつもりだった。
「ならばこれは、私から…支度金でございます。おそれながら仕立て屋にお連れしますので、ドレスを購入されてはいかがでしょう。貴女の矜持が保てるでしょう。」
「…今は、いただくわ。」
クロエは革袋に入ったお金を受け取ると、ガルデニアに対して綺麗な礼を取った。
◇◆◇
「報告は、こんなものでしょうか。どちらも、最後まで私が確認しておりますので間違いありません。」
エンジュは、表情を変えずに黙り込んだ。
「んん?…あぁ、気になりますか?」
執務室の扉の向こうの気配を感じ、黙りこむ主人に軽く返事を返す。
「もう少し王都の情勢について、報告をしたいところでしたが…そちらはまた明日にでも。まずは、私は連れてくるつもりはなかったとだけ、言っておきましょう。付いて来れなければ、連れていかないと言ったところ、なんとかここまで持ちこたえましたので仕方なく。」
ガルデニアは、つかつかと執務室の扉まで向かうと大きく開き、廊下に座り込み、呼吸もそぞろな男を紹介した。
「プラタナス公爵のご子息、ハルディン様でございます。そして、こちらにプラタナス公爵より手紙を預かってきております。」
エンジュは、ソファから顔を向ける事なく視線だけでハルディンを一瞥し、受け取った手紙を読まずにテーブルに叩きつけた。
眉間に皺を寄せ、不機嫌さを隠そうともしない。
「二度とその顔を、アレに見せるつもりはなかったのだが…あの狸めっ!よほど息子を痛めつけたいらしい。」
苦々しく悪態をつき、叩きつけた手紙に対し、座ったまま右足を振り上げ踵を振り下ろす。
その様子をみていたガルデニアは、変わらずににんまりとした口元のまま、片目を薄く開けハルディンを見つめていた。